書庫の梟と消えた初版本

書庫の梟と消えた初版本

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革張りのソファが軋む音、古紙とインクの匂い、そして壁一面を埋め尽くす無数の背表紙。そこは、古書店『彷徨堂』の地下に存在する、会員制の秘密読書クラブ「書庫の梟」の聖域だった。メンバーは店主の老マスターを含め、わずか五人。今宵もまた、月に一度の定例会が開かれていた。

「この『真夜中のカラス』という本、トリックは斬新だが、動機がどうにも陳腐でね」
パイプを燻らせながらそう言ったのは、大学で記号学を教える白髪の教授だ。
「あら、先生。人の心なんて、いつの時代も陳腐なものよ」
そう応じたのは、売れっ子の女流ミステリー作家。彼女の鋭い瞳が、面白そうに細められた。
「金で買えないものはない。陳腐な動機も、億単位の金が絡めば極上のミステリーになるさ」
せせら笑うのは、IT企業を経営する若い青年。

新参者の僕は、彼らの高尚な会話に相槌を打つのが精一杯だった。このクラブの誇りは、メンバーの質だけではない。マスターが長年かけて蒐集した、稀代の蔵書だ。中でもひときわるびやかなガラスケースに鎮座するのは、伝説の推理作家エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』の、世界に数冊しか現存しないと言われる幻の初版本だった。

その時だった。バチン、と鈍い音がして、僕らの視界は完全な闇に包まれた。
「停電か?」
教授の動揺した声が響く。マスターが落ち着いた声で「ブレーカーだろう。すぐ見てきます」と言い、闇の中をごそごそと移動する気配がした。地下室の唯一の扉が開き、そして閉まる重い音が聞こえた。内側からしか施錠できない特殊な鍵が、ガチャリとかかる音も。

数分後、再び明かりが灯った。安堵のため息が漏れたのも束の間、女流作家が悲鳴に近い声を上げた。
「見て! 本が……!」
全員の視線が、部屋の中央にあるガラスケースに注がれる。
そこにあるはずのものが、なかった。
幻の『モルグ街の殺人』初版本が、忽然と姿を消していたのだ。

「馬鹿な!」青年が叫んだ。「扉は施錠されていた! 窓もないこの部屋で、どうやって!」
完全な密室。停電の闇に乗じて、この中の誰かが盗んだとしか考えられない。僕らは互いの顔を見渡した。疑心暗鬼が、インクの匂いよりも濃く部屋に立ち込める。

「落ち着きたまえ」教授が皆を制した。「これは、我々への挑戦状だ。この密室トリック、解いてみせようじゃないか」
それから一時間、僕らはさながら物語の登場人物のように、アリバイと推理をぶつけ合った。教授は換気口を使ったトリックを主張し、作家は催眠術の可能性を示唆し、青年は金の力で誰かを買収したのではとマスターを詰った。だが、どれも決定的な証拠に欠けていた。

僕はずっと、現場の些細な違和感が気になっていた。ガラスケースの隣の本棚。いつもは西洋哲学の豪華本が並んでいる場所に、一冊だけ場違いな、くたびれた文庫本が差し込まれている。手に取ってみると、それは『虚構のアリバイ』というタイトルの、ありふれた推理小説だった。
なぜ、こんな場所に?
パラパラとページをめくった瞬間、僕の脳裏に電撃が走った。そして、全てが繋がった。

「皆さん、聞いてください」僕は震える声で切り出した。「犯人が、分かりました」
全員の視線が僕に集中する。
「犯人は……マスター、あなたです」
マスターは静かに微笑むだけだった。
「でも、あなたは本を盗んではいない。なぜなら……初版本は、最初からここにはなかったんです」
「何だと?」青年が眉をひそめる。

「僕らがここへ来た時、ガラスケースは巧妙な角度で置かれ、照明の反射で中がよく見えませんでした。僕らは皆、『いつもの場所にある』と思い込んでいただけです。停電は、その思い込みを強化するための演出。そして密室を作り上げたのも、僕らに『内部犯行だ』と誤認させるためのトリックです」
僕は例の文庫本を掲げた。「そして、これが決定的証拠。マスターが残したヒントです。タイトルは『虚構のアリバイ』。この事件そのものが、マスターによって仕組まれた『虚構』……つまり、壮大なゲームだったんです」

沈黙が落ちた。やがて、マスターがゆっくりと拍手を始めた。
「お見事。実に素晴らしい推理です」
老店主は悪戯っぽく笑った。「ようこそ、『書庫の梟』へ。君こそ、我々が待ち望んでいた真のメンバーだ」

呆気に取られる教授と作家、不満げな青年。僕の顔は、きっと真っ赤だったに違いない。
「じゃあ、」女流作家が尋ねた。「本物の初版本は、一体どこにあるの?」

マスターは人差し指を口に当て、悪戯っぽく微笑んだ。
「それこそが、来月の定例会で皆さんに解いていただく、次なる謎ですよ」
その言葉に、僕の心は再び、謎解きへの期待で高鳴り始めていた。

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