***第一章 錆びついた記憶の扉***
神保町の裏路地にひっそりと佇む古書店「時雨堂」。その主である永瀬蒼(ながせ あおい)の一日は、古紙とインクの入り混じった、どこか懐かしい匂いと共に始まる。埃を払いのけ、陽光に透ける塵を眺め、客の来ない午後は書架の整理に没頭する。それが彼の世界のすべてだった。外界との間に、見えない壁を築いて七年。その壁が、音を立てて崩れる予兆は、まるでなかった。
その男が店に現れたのは、冷たい雨がアスファルトを濡らす日の午後だった。重厚な木の扉が軋み、雨の匂いを連れた男が入ってくる。蒼より少し年上だろうか。鋭い眼光が、値踏みするように店内を見渡している。
「何かお探しですか」
蒼が発した声は、自分でも驚くほどか細く、湿っていた。
男は無言で蒼に近づくと、カウンターに古びた一冊のスケッチブックを置いた。表紙には、褪せた水彩で描かれた勿忘草(わすれなぐさ)。見覚えのあるタッチに、蒼の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「永瀬蒼さん、だな。覚えていないかもしれないが、俺は小野寺航。月島美咲の兄だ」
月島美咲。その名を耳にした瞬間、蒼の脳裏に、七年前のあの夜がフラッシュバックする。ヘッドライトの眩い光、軋むブレーキ音、そして、腕の中で冷たくなっていく彼女の感触。蒼は事故で頭を強く打ち、その前後の記憶を一部失っていた。ただ、恋人だった美咲を自分の運転する車で死なせてしまったという、消えない罪悪感だけが、鉛のように心を重くしていた。
「……何か、ご用でしょうか」
絞り出した声は震えていた。航と名乗る男は、冷たい視線で蒼を射抜きながら、スケッチブックを押しやった。
「これは、美咲が遺したものだ。お前はこれを見て、何か思い出さないか」
蒼がおそるおそるスケッチブックを開くと、そこには美咲が描いた風景画が何枚も収められていた。二人で訪れた公園のベンチ、雨宿りした神社の軒先、初めてキスをした坂道。一枚めくるごとに、忘れていたはずの温かい記憶が蘇り、胸が締め付けられる。だが、最後のページだけが、根本から無残に破り取られていた。
「最後のページだ」航の声が、蒼の感傷を断ち切る。「そこには何が描かれていた? 美咲は、事故の直前までこれを描いていたはずだ」
「覚えて……いません」
「思い出せ」航の語気は、有無を言わせぬほど強い。「美咲は事故で死んだんじゃない。誰かに殺されたんだ。そして、お前がその鍵を握っている。これは、お前が忘れた罪の記録だ」
罪の記録。その言葉が、蒼の心に深く突き刺さった。忘却という名の穏やかな牢獄に、突如として亀裂が入った瞬間だった。雨音だけが、二人の間の重い沈黙を埋めていた。
***第二章 スケッチブックの巡礼***
翌日から、蒼の日常は一変した。航は半ば強引に蒼を店から連れ出し、スケッチブックに描かれた場所を一つずつ巡り始めたのだ。それは蒼にとって、忘却の彼方に葬り去ったはずの過去を、無理やり掘り起こす苦行に他ならなかった。
「なぜ、こんなことを……」
「美咲の無念を晴らすためだ。あいつは、お前に何かを伝えようとしていた。それを思い出させるのが、お前の贖罪だ」
航の言葉は常に刃のように鋭く、蒼の心を抉った。
最初に訪れたのは、井の頭公園の池にかかる橋の上だった。スケッチブックには、夕暮れの光を浴びて輝く水面が描かれている。
「ここで、美咲はよく白鳥のボートを眺めていた」航がぽつりと言った。
その言葉をきっかけに、蒼の脳裏に断片的な映像が浮かぶ。ボートの上で無邪気に笑う美咲の顔。風に揺れる彼女の黒髪。
「……そうだ。彼女は、いつか二人で乗りたいと言っていた」
微かな記憶の欠片。しかし、それは事件の核心には程遠い。
次に訪れたのは、寂れた商店街の片隅にある喫茶店だった。琥珀色の照明が、年季の入った調度品を柔らかく照らしている。スケッチブックに描かれた窓際の席に座ると、コーヒーの香りが鼻をくすぐった。
「美咲は、ここのクリームソーダが好きだった」
航の言葉に、また記憶の扉が軋む。ソーダの泡を見つめながら、美咲が何かを思い詰めた顔で俯いていた。
『もし、私がいなくなったら、蒼くんはどうする?』
唐突な質問。あの時、自分はなんと答えたのだったか。思い出せない。ただ、彼女の横顔に浮かんだ寂しげな影だけが、鮮明に蘇ってきた。
「彼女、何か悩んでいたように見えましたか」
蒼の問いに、航はしばらく黙り込んだ後、「さあな」とだけ短く答えた。
場所を巡るうちに、蒼は気づき始めていた。航は、蒼を憎んでいるだけではない。彼の瞳の奥には、憎しみとは異なる、もっと深い感情が揺らめいている。それは、妹を失った悲しみか、あるいは、何かを確かめようとする焦りのようなものかもしれなかった。
日々は過ぎ、スケッチブックのページは残りわずかになっていく。蘇る記憶は、楽しかった日々の思い出ばかりで、事件に繋がるようなものは何一つなかった。蒼の焦燥感は募る一方だった。自分は本当に、何か重大なことを見過ごしてしまったのではないか。美咲を危険から救えたはずなのに、気づかなかったのではないか。罪悪感が、再び黒い靄のように心を覆い尽くしていく。
***第三章 灯台が照らした真実***
最後の絵が描かれた場所は、都心から電車を乗り継いだ先にある、海辺の古い灯台だった。錆びついた螺旋階段を上ると、強烈な潮風が頬を打つ。眼下には、灰色の空と海がどこまでも広がっていた。七年前のあの日も、こんな風に曇っていた気がする。
「ここが、最後だ」航の声が風に混じる。
蒼は手すりを握りしめ、目を閉じた。スケッチブックを抱え、海を見つめる美咲の背中が、幻のように浮かび上がる。そして、まるで堰を切ったように、閉ざされていた記憶の全てが、濁流となって蒼の中に流れ込んできた。
あの日、灯台の上で、美咲は蒼に言ったのだ。
「ねえ、蒼くん。もし私が、もうすぐ遠いところへ行かなきゃならなくなったら、悲しい?」
彼女は笑っていた。しかし、その瞳は泣いているように見えた。蒼は彼女の異変に気づきながらも、どう言葉を返せばいいのか分からなかった。その帰り道、車の中で、美咲は突然、蒼に寄りかかってきた。
「ごめんね……でも、蒼くんだけを置いていきたくない」
そして、彼女は蒼の目を、その細い両手で覆ったのだ。視界が真っ暗になり、パニックに陥った蒼が急ブレーキを踏む。しかし、車はガードレールを突き破り、崖下へと転落した。
――美咲は、誰かに殺されたんじゃない。
――彼女は、自ら死を選ぼうとしたんだ。俺を、道連れにして。
衝撃の事実に、蒼は立っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。なぜ。どうして。混乱する頭に、航の静かな声が響く。
「違う。最後の記憶が、まだ足りない」
航は懐から一枚の紙片を取り出した。それは、スケッチブックから破り取られた、最後のページだった。くしゃくしゃになったそれを広げると、そこには鉛筆で描かれた蒼の似顔絵と、震えるような文字が記されていた。
『ごめんね、そして、ありがとう。私の分まで生きて。』
「美咲は、重い心臓の病を患っていた。余命は、あと数ヶ月だと宣告されていたそうだ」
航が語る真実に、蒼は息を呑んだ。
「あいつは、お前にだけは知られたくなかった。お前が悲しむ顔を見たくなかったんだ。だから、一人で逝くつもりだった。でも、できなかった。お前を愛しすぎていたから、一瞬、お前を連れて行こうとさえしてしまった。……だが、最後の最後で、あいつはお前を助けたんだ」
記憶が、さらに鮮明になる。暗闇の中で、美咲が囁いた最後の言葉。
『生きて……』
そして、彼女は蒼を突き飛ばすようにして、自分だけが衝撃を受ける側へとハンドルを切ったのだ。
「俺は、ずっとお前が憎かった」航は海を見つめながら言った。「美咲がお前に全てを託したことが。だが、それ以上にお前が不憫だった。美咲の愛を知らずに、罪悪感だけで生きていくお前が。だから、思い出させるしかなかったんだ。お前が忘れていたのは、罪じゃない。美咲が命懸けで、お前に託した未来だ」
航の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、七年間溜め込んできた、妹への愛情と、蒼への複雑な想いが溶け合った涙だった。
***第四章 雨上がりの栞***
全ての真実を知った蒼は、灯台の上で声を上げて泣いた。それは罪悪感からの解放であり、美咲の深すぎる愛と、その悲しい決断を知ったことへの慟哭だった。航は何も言わず、ただその背中をさすっていた。
数日後、蒼と航は二人で美咲の墓前にいた。白い花を供え、静かに手を合わせる。墓石に刻まれた彼女の名を、蒼は初めて穏やかな気持ちで見つめることができた。
「ありがとう、美咲。君がくれた未来を、俺はちゃんと生きるよ」
隣で、航がそっと頷いた。二人の間にあった氷のような壁は、完全に溶けてなくなっていた。
季節は巡り、秋になった。
古書店「時雨堂」には、以前と変わらず、古紙とインクの匂いが満ちている。しかし、蒼の纏う空気は明らかに変わっていた。訪れた客に、彼は自ら本を薦め、その物語について楽しそうに語るようになった。閉ざされていた彼の世界に、新しい風が吹き込み始めたのだ。
ある晴れた日の午後、蒼は店のカウンターで、新しいスケッチブックを開いた。そして、震える手でペンを取る。彼が最初に描いたのは、店の窓から見える、雨上がりの空にかかった大きな虹だった。それは決して上手な絵ではなかったが、生命力に満ち溢れていた。
失われた記憶は、時に罰ではなく、愛する人が遺した最後の優しさなのかもしれない。そして、遺された者は、その優しさを栞のように胸に挟み、自らの物語のページを、未来へとめくっていくのだ。
蒼は描き終えた虹の絵に、そっと息を吹きかけた。まるで、遠い空にいる彼女に届けるかのように。インクの匂いが、ふわりと店内に広がった。それは、悲しみと希望が入り混じった、新しい始まりの香りだった。
雨上がりの栞
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