君がいない世界のためのレター

君がいない世界のためのレター

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***第一章 三度目の命日***

古びたインクの匂いと、紙魚(しみ)が囁くような静寂。僕、相田航(あいだわたる)の世界は、ここ三年、この古書店の隅で止まったままだった。陽の光が埃を金色に照らし出す午後、カウンターの奥で背表紙を眺めるだけの毎日。それは、恋人だった美咲(みさき)を突然の事故で失ってからの、僕なりの服喪期間だった。

三度目の命日を迎えた今日、郵便受けにカタン、と軽い音がした。見慣れた茶封筒。差出人の名はない。だが、僕は知っている。これは美咲からの手紙だ。死んだはずの彼女から届く、三通目の手紙。

最初の年は、彼女の字で「書斎の『銀河鉄道の夜』、24ページに栞を挟んでみて」とだけ書かれていた。半信半疑で開くと、そこには僕が無くしたと諦めていた、祖父の形見の万年筆が挟まっていた。二年目は「昔よく行ったカフェの、窓際の席の裏を探して」。そこには、へそくり用の封筒がテープで貼り付けられており、すっかり忘れていた五万円が入っていた。

まるで、僕の日常を見透かしているかのような手紙。非現実的で、不気味で、けれど、それが美咲との唯一の繋がりだった。僕は震える手で封を切った。インクは、彼女が好きだった深いブルーブラック。そこには、これまでで最も不可解な一文が記されていた。

『明日の午後三時、駅前の交差点で、赤い傘を差して』

雨の予報などどこにもない。なぜ、赤い傘? なぜ、あの交差点で? 理屈では説明できない。だが、僕の心はすでに決まっていた。美咲がそう言うのなら、そうするしかない。それは、失われた時間を取り戻そうとするかのような、愚かで、切実な儀式だった。僕は本棚の奥から、美咲が置き忘れていった鮮やかな赤い傘を、そっと取り出した。

***第二章 赤い傘の奇跡***

翌日の午後二時五十分。空は抜けるように青い。駅前のスクランブル交差点は、行き交う人々の喧騒で満ちていた。その中で、場違いな赤い傘を差して立つ僕は、奇異の視線に晒されていた。汗がこめかみを伝う。自分がひどく滑稽に思えて、何度も帰ろうかと思った。だが、足は地面に縫い付けられたように動かない。美咲の言葉を裏切ることが、彼女の存在そのものを否定するようで怖かった。

時計の針が、午後三時を指す。
その瞬間だった。

甲高いスキール音と共に、制御を失ったダンプカーが猛スピードで交差点に突っ込んできた。悲鳴が上がる。人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。僕はあまりの出来事に金縛りにあったように動けなかった。ダンプカーは僕が立つ歩道の、ほんの数メートル脇を猛然と駆け抜け、向かいのビルの壁に激突して、ようやく止まった。ガラスの割れる音、金属の軋む音、そして遅れてやってきた衝撃波が、僕の体を揺さぶった。

僕が立っていた場所。そこは、ほんの数秒前まで僕が立とうか迷っていた、信号機の真下だった。もし傘を差していなければ、日差しを避けてそちらに立っていたかもしれない。いや、確実に立っていただろう。そこは今、なぎ倒された信号機と砕けたコンクリートの残骸に埋もれていた。

赤い傘。それは、僕をこの場所に留めるための目印だったのだ。
手紙は、僕を救った。

血の気が引いていく。これは幸運などという生易しいものではない。明確な殺意を持った「何か」から、美咲が僕を守ったのだ。震えが止まらない。一体どういうことだ? 美咲は本当に死んだのか? それとも、どこかから僕を見守っているというのか?

謎は、温かな思い出のベールを剥ぎ取り、冷たい恐怖の核心を僕に突きつけた。僕は古書店に駆け戻ると、過去二通の手紙と合わせて、筆跡、紙質、消印、全てを調べ始めた。消印は毎年違う場所から投函されている。筆跡は間違いなく美咲のものだ。だが、死んだ人間が手紙を書けるはずがない。

誰かが、美咲を騙っている? 何のために? 僕の命を救うために?
僕は、美咲との思い出の場所を一つ一つ巡り始めた。彼女の言葉、行動、その全てに、この謎を解く鍵が隠されているはずだった。美咲、君は一体、僕に何を伝えたかったんだ?

***第三章 未来視の代償***

調査は難航した。美咲の友人や家族に尋ねても、彼女が生前、未来を予知するような素振りを見せたことは一度もなかったという。行き詰まった僕が最後の望みを託したのは、彼女が熱心に通っていたボランティア団体の名だった。生前、彼女は「恵まれない子供たちの学習支援をしている」とだけ言っていた。

僕はそのNPO法人『時の揺り籠』の事務所を訪ねた。都心の一等地にありながら、表札も出ていない古びたビル。そこで僕を迎えたのは、高遠(たかとお)と名乗る、穏やかな物腰の老紳士だった。

僕が事情を話すと、高遠は驚くでもなく、静かに頷いた。
「相田さん、お待ちしておりました。美咲さんから、いつか貴方がここを訪れると聞いていましたから」

彼の口から語られた事実は、僕の常識を根底から覆すものだった。
「美咲さんには、才能がありました。我々が『クロノ・ヴィジョン』と呼んでいる、未来を断片的に視る力です。強い感情、特に誰かを想う心が引き金となり、その人の未来に起こる重要な出来事が、映像として脳裏に浮かぶのです」

美咲は、その力を誰にも告げず、人知れず苦しんでいた。そして、自分の死期が近いことも、その力で予感していたのだという。
「彼女は、亡くなる一ヶ月前、ここにやって来ました。そして、貴方に宛てた手紙を何通も私に託したのです。自分が死んだ後、毎年命日に一通ずつ投函してほしい、と。彼女は、自分の死後も貴方を守りたかった。貴方に降りかかるであろう災厄を、その力で視ていたのです」

万年筆も、へそくりも、そしてあの事故も。全ては美咲が遺した、未来からの警告だったのだ。僕の知らないところで、彼女はたった一人、僕の未来のために戦っていた。涙が溢れて止まらなかった。悲しみではない。悔しさでもない。ただ、ひたすらに彼女の愛の深さに打ちのめされていた。

「これが…彼女が貴方に渡すよう私に託した、最後のものです」
高遠は、分厚い封筒を僕に差し出した。中には、いつものブルーブラックのインクで書かれた手紙と、一枚の黄ばんだ新聞記事のコピーが入っていた。

記事は、二十年前に僕が巻き込まれた交通事故のものだった。両親が亡くなった、あの事故。僕は瓦礫の下から奇跡的に救出されたが、助けてくれた人の顔は覚えていなかった。記事には、現場で泣きじゃくる幼い僕を、必死に励ます少女の後ろ姿が小さく写っていた。

そして、美咲の最後の手紙を読んだ時、僕の世界は完全に反転した。

『航くんへ。驚かせちゃったかな。ごめんね。
私たちが初めて会ったのは、大学の図書館じゃない。もっとずっと昔。あの日、車の wreckage の下で泣いていた小さな男の子を、瓦礫を掻き分けて助け出したのは、当時七歳だった私だったの。あの時、どうしてか分からなかったけど、この子を助けなきゃって、強く思った。この子の未来を守ることが、私の人生の意味なんだって。
だから、大学であなたを見つけた時、運命だと思った。あなたはずっと気づいてなかったけどね。
手紙のことは、私のわがまま。私が死んでも、あなたのそばにいたかっただけ。でも、これで本当に最後。
どうか、私のことなんて忘れて、あなたの未来を生きて。
あなたを守れたことが、私の人生で一番の幸せでした。
さようなら、私の最初で最後の、たった一人の大切な人。
美咲』

***第四章 はじまりの手紙***

僕の記憶の扉が、軋みを立てて開いた。瓦礫の隙間から見えた、小さな手。大丈夫、大丈夫、と繰り返す、か細いけれど、力強い声。あの時、僕を絶望の淵から救い出してくれたのは、幼い美咲だったのだ。

彼女はずっと僕の側にいた。僕が気づかなかっただけで、出会う前から、そして死んだ後でさえも、僕の人生を守り続けてくれていた。彼女の未来視の力は、僕を想う強い心があったからこそ発現したのかもしれない。そして、その力の代償として、彼女は自らの命を削っていったのかもしれない。

ミステリーの真相は、時を超えた壮大な愛の物語だった。
僕の胸を満たしていた、出口のない悲しみや後悔は、静かに溶けていった。代わりに、温かく、そして少しだけ切ない感謝の念が、泉のように湧き上がってくる。

古書店に戻った僕は、窓から差し込む夕陽を見つめた。オレンジ色の光が、埃をきらきらと輝かせている。それはまるで、僕の未来を祝福しているかのようだった。

もう、過去に囚われるのはやめよう。美咲が命を懸けて守ってくれたこの「未来」を、今度は僕が自分の足で、しっかりと歩いていかなければならない。

僕は新しい日記帳を開き、祖父の形見の万年筆を手に取った。美咲が見つけてくれた、この万年筆で。そして、最初のページに、彼女が愛したブルーブラックのインクで、こう記した。

『美咲、見ていてくれ。君がくれたこの未来を、僕は精一杯生きるよ』

それは、天国にいる彼女への、僕からのはじまりの手紙だった。
窓の外では、世界が色鮮やかに輝いていた。僕の時間は、再び動き始めた。君がいないこの世界で、君の愛を胸に抱いて。

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