古書店の店主になって三年。俺、水島拓也の日常は、インクと古紙の匂いに満ちた、静かで穏やかなものだった。少なくとも、一週間前までは。
異変は、本棚の一角から始まった。毎朝店を開けると、決まって一冊の本が床に落ちているのだ。それは俺が最近仕入れた、佐藤ミキという無名作家のSF小説『パラレル・ライブラリ』。最初は地震か、客が置き忘れたのかと思った。だが、定休日の翌朝ですら、その本は律儀に床で俺を迎えた。まるで、誰かが夜中に忍び込み、本を落とすという地味な嫌がらせをしているかのようだ。
気味が悪くなり、俺は閉店後、本棚の前にスマートフォンを設置し、タイムラプス撮影を敢行した。翌朝、震える指で映像を確認した俺は、息を呑んだ。
深夜二時ちょうど。映像の中で、『パラレル・ライブラリ』は、誰の手にも触れられていないにもかかわらず、ふわりと宙に浮き、数センチ水平に移動すると、ことりと床に落下したのだ。CGのような、物理法則を無視した光景だった。
恐怖よりも先に、強烈な好奇心が湧き上がった。これは、解かなければならない謎だ。俺は大学時代の友人であり、今は大学院で理論物理学を研究している変わり者、神山に連絡を取った。
「ポルターガイスト? 水島、お前ついに古書の霊に取り憑かれたか」
電話口で神山は笑っていたが、俺が送った動画を見ると、彼の声からふざけた響きが消えた。数時間後、神山は目を輝かせながら俺の店に現れた。
「面白い! これは面白いぞ、水島!」
神山は問題の本を虫眼鏡で舐めるように観察し、分厚い専門書とノートパソコンを広げた。
「仮説を立てよう。この本は、我々のいる三次元空間とは別の次元と繋がっているんだ」
「別の次元?」
「そう。例えば、四次元的なねじれによって、この本と『並行世界の同じ本』の位置情報が、特定の条件下で同期してしまう、とかね。向こうの世界で誰かが本を床に置いた。その結果、こちらの世界の同じ本も床に移動したんだ」
まるでSF小説そのもののような突飛な仮説だった。だが、あの映像を見た後では、それを馬鹿げていると一蹴することはできなかった。
「じゃあ、この現象は向こう側の誰かが意図的に?」
「その可能性が高い。見てみろ、これ」
神山が指差したのは、小説の113ページ。そこには、インクのシミのような微細な点がいくつか散らばっていた。
「昨日見たときは、こんなシミはなかったはずだ。そしてこの点の配置…不規則に見えて、何かのパターンを形成している。モールス信号かもしれない」
二人で夜を徹してシミのパターンを解読した。浮かび上がった言葉は、俺たちの背筋を凍らせた。
『ココニイル』
「メッセージだ…向こう側からの」神山の声が震えていた。「相手はこちらの反応を待っている。そして、このシミは毎日少しずつ変化している。つまり、対話が可能かもしれない!」
それから俺たちの奇妙な共同研究が始まった。毎朝、床に落ちた本を拾い上げ、新たに出現したシミを記録する。神山がそれを解読し、俺たちは返信の方法を探った。神山の仮説によれば、こちらの本に物理的な変化を与えれば、それが向こう側に伝わる可能性があるという。俺たちは、特定のページに極めて小さな穴を開けることで、YES/NOの意思表示を試みることにした。
『アナタハ ダレ』
俺たちの問いかけに、翌日、シミはこう答えた。
『ワタシハ サトウ ミキ』
佐藤ミキ。この『パラレル・ライブラリ』の作者その人だった。
鳥肌が立った。まさか、作者本人が、自らの小説の世界をなぞるような事態に巻き込まれているというのか。
『ナゼ ココニ』
『ジッケンノ シッパイ』
『タスケテ』
断片的なメッセージから、驚くべき事実が明らかになった。作家であると同時に物理学者でもあった佐藤ミキは、自らの小説で描いた多次元転移理論を証明するための実験中、事故で未知の次元に飛ばされてしまったのだという。彼女が唯一、こちらの世界と繋がることができたのが、強い思い入れが込められた自身の著作『パラレル・ライブラリ』だった。本が毎晩床に落ちたのは、誰かに異常を知らせるための、彼女の必死のサインだったのだ。
最後のメッセージは、俺たちの心を締め付けた。
『コノセカイノ ワタシヲ サガシテ』
俺と神山は、すぐに行動を開始した。出版社や過去の住所録を頼りに、この世界の佐藤ミキを探し出した。現れたのは、少し気難しそうな、しかし知的な瞳を持つ女性だった。俺たちが事の経緯を説明すると、彼女は当然ながら、眉をひそめた。
「私の小説を元にした悪戯なら、やめてちょうだい。私はもう、あんな空想科学からは足を洗ったの」
だが、俺たちが見せた映像と、シミが形成する彼女自身の筆跡に酷似した文字の記録を見た瞬間、佐藤ミキの顔から血の気が引いた。彼女は震える手で、俺が持ってきた『パラレル・ライブラリ』を受け取った。
「まさか…あの理論は、ただの空想だったはず…」
彼女の目に、信じられないという驚きと、そして、失われた半身を思うかのような痛切な光が宿った。
「彼女を…もう一人の私を、助け出す方法は?」
彼女の問いに、神山が不敵に笑って答えた。
「まだ仮説の段階ですが、方法はあります。時空の座標を特定し、干渉のエネルギーを増幅させれば、あるいは…」
静かな古書店から始まった、奇妙な謎。それは今、時空を超えた壮大な救出作戦へと姿を変えようとしていた。俺は床に置かれた『パラレル・ライブラリ』を見つめる。もはやこれはただの古書ではない。二つの世界を繋ぐ、唯一の扉なのだ。俺たちの、とてつもなくワクワクする冒険が、今、始まろうとしていた。
落下する書籍のパラドックス
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