クロノスの遺言

クロノスの遺言

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神保町の古書店街の片隅に佇む、インクと古紙の匂いが染みついた「相馬古書堂」。その二階で、大学院生の相馬拓海は、半年前に亡くなった祖父の遺品を整理していた。歴史学者だった祖父が遺した書物は、拓海にとって宝の山であり、同時に解読不能な迷宮でもあった。

「なんだ、これ…?」

埃をかぶった桐箱の中から現れたのは、一冊の和綴じ本だった。表紙には何も書かれていない。中を開くと、江戸中期のものと思われる流麗な筆跡で、とある商人の日記が綴られていた。商品の仕入れ、日々の暮らし、他愛もない記録。だが、歴史を専攻する拓海の目は、些細な違和感を見逃さなかった。日付の計算が合わない箇所、記述されている天候とその時期の記録とのズレ。まるで、誰かが意図的に偽りの歴史を書き記したかのようだ。

その夜、研究室で本を調べていた拓海は、偶然、デスクライトの熱でインクの一部が滲むのを発見した。まさか、と思い、ライターの火を慎重に紙へと近づける。すると、文字と文字の間に、赤黒い別の線がまるで血管のように浮かび上がってきたのだ。

『我ら、時繰(ときくり)衆。徳川の影に生き、刻(とき)を操る者なり』

息を呑んだ。時繰り衆――歴史のどの文献にも登場しない名だ。炙り出された文章は、彼らが作り出したという驚異的な「からくり」の記録だった。それは単なる人形や仕掛けではない。天体の動きを寸分の狂いなく再現する天球儀、未来の天候を予測する気圧計、そして究極の至宝、『クロノスの歯車』。日記の記述は、その歯車の在り処を示す、壮大な暗号だったのだ。

「歴史には、まだ誰も知らない裏通りがあったのか…」

興奮が拓海の全身を駆け巡った。しかし、その興奮はすぐに冷たい恐怖に変わる。翌日、彼のマンションの部屋が荒らされ、研究室のパソコンからはデータが消去されていた。黒いスーツの男たちが、明らかに拓海を監視している。彼らもまた、時繰り衆の遺産を狙っているのだ。

もはや後戻りはできない。祖父が命懸けで守ろうとした真実を、この手で突き止めなければ。拓海は日記の暗号解読に没頭した。商人の日記に散りばめられた和歌や故事、そして天候の記録。それらは全て、ある特定の場所を示すための目印だった。

答えは出た。奥秩父の山中にある、今は廃寺となった「龍刻寺」。

拓海はけもの道を喘ぎながら進み、苔むした山門をくぐった。本堂の床下、暗号が示した場所には、隠し階段が存在した。階段を下りた先には、信じられない光景が広がっていた。

巨大な洞窟。そしてその中央に鎮座する、無数の歯車とゼンマイが絡み合った、江戸時代のものとは到底思えない巨大なからくり装置。壁には、星図らしきものが刻まれている。ここが時繰り衆の工房だったのだ。

「よく来たな、若造」

背後から響いた声に、拓海は凍りついた。黒スーツの男たちが、懐中電灯の光で洞窟を照らしながら立っている。

「我々は時繰り衆の末裔。その遺産は、我々が受け継ぐのが道理だ。お前のような部外者が触れていいものではない」

絶体絶命。しかし、拓海の頭には、日記に記された工房の仕掛けが閃いていた。彼は意を決して、巨大装置の一角にあるレバーに飛びついた。

「動くな!」

男たちが銃を構えるより早く、拓海はレバーを引いた。ゴゴゴ、と地響きが鳴り、洞窟全体が軋む。壁の歯車が回り始め、床の一部が開き、男たちの足元をすくった。悲鳴と共に、彼らは奈落へと落ちていく。拓海は日記の知識を頼りに、まるでオーケストラの指揮者のように次々と仕掛けを作動させ、追っ手を退けた。

静寂が戻った洞窟の中、拓海は装置の中枢へとたどり着く。そこには、ガラスケースに収められた、掌サイズの黄金の歯車が静かに鎮座していた。これが『クロノスの歯車』。手を伸ばした瞬間、歯車が独りでに回転を始め、洞窟の壁に光の像を投影した。

映し出されたのは、未来の光景だった。高層ビルが立ち並ぶ見慣れた東京、だが次の瞬間には、それが炎に包まれ崩れ落ちていく。株価の暴落、未知のウイルスのパンデミック、大規模な自然災害。それは、起こりうる無数の未来の「可能性」を映し出す、究極の未来予測装置だったのだ。

時繰り衆は、歴史を改変したのではない。この歯車で未来を「覗き見」、数多の分岐点の中から、自分たち一族が最も繁栄する未来を「選択」し続けることで、歴史の影で生き延びてきたのだ。徳川幕府を影から支えたのも、来るべき未来を知っていたからに他ならない。

拓海はゴクリと喉を鳴らした。この力があれば、富も名声も、世界の覇権さえも手にできる。だが、その力は同時に、人を狂わせ、歴史そのものを歪めてしまうだろう。祖父は、この力を恐れたからこそ、誰にも明かさず封印しようとしたのだ。

拓海は、傍にあった岩を力一杯持ち上げた。

「歴史は、誰かに選ばれるものじゃない。俺たちが、迷いながら、間違えながら、作っていくものなんだ」

叫びと共に、岩をガラスケースに叩きつける。甲高い音を立てて『クロノスの歯車』は砕け散り、光の像は掻き消えた。

洞窟から出た拓海を待っていたのは、夜明けの光だった。手には、何の変哲もない商人の日記だけが残っている。だが、彼の胸には、誰にも語ることのできない、本物の「歴史」が刻み込まれていた。彼は歴史の裏通りを知る、ただ一人の証人として、新たな一歩を踏み出した。その足取りは、もう迷ってはいなかった。

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