時任奏(ときとうかなで)の耳には、時折、世界が奏でる音が聞こえる。それは歴史という巨大なオーケストラの旋律。普段は荘厳で揺るぎないそのハーモニーが、今朝から不快な不協和音を立てていた。
「来たか、カナ」
京都の裏路地にひっそりと佇む古美術店『刻文堂(こくぶんどう)』の奥。店の主であり、奏の師でもある老爺、一条が煙管(きせる)を燻らせながら言った。彼の皺深い目元が、尋常でない緊張に眇められている。
「師匠。これは……酷いノイズです。天正十年あたりから聞こえます」
「うむ。場所は本能寺。見つかったのだよ、『楔(くさび)』が」
楔。それは、歴史の奔流に打ち込まれた、あり得べからざる異物。未来の知識や技術を結晶化させたもので、これを起点に歴史は歪み、捻じ曲がり、やがて全く別の流れへと書き換えられてしまう。そして、その歪みを起こそうとする者たちがいる。『イレイザー』と呼ばれる、歴史の破壊者たちだ。
我々『調律師(チューナー)』の仕事は、その楔を無力化し、歴史の旋律を本来の正しいものに「調律」することにある。
「今回の楔は、信長に『未来』を見せたらしい。彼は死ぬ気がない。本能寺で死なず、天下を統一し、海を渡る気だ。そうなれば、我々の知る歴史は跡形もなく消え去る」
「……是非もなし、ですか」
奏は呟き、店の奥にある『調律室』へと向かった。そこには、能舞台を模した簡素な木の舞台があるだけ。奏が舞台の中央に座し、深く呼吸をすると、意識が身体からゆっくりと剥がれていく。行き先は、天正十年六月二日、夜明け前の本能寺。
目を開けると、鼻を突くのは血と硝煙の匂い。鬨(とき)の声が地を揺らし、燃え盛る炎が空を焦がしていた。奏は、織田信長に仕える小姓の一人、その意識の深層にシンクロしていた。歴史への直接介入は禁忌。我々にできるのは、その時代を生きる人間の思考や感情に僅かな影響を与え、彼らが「本来選ぶはずだった選択」へと導くことだけだ。
本堂の奥、信長はまだ生きていた。南蛮胴を身につけ、手には種子島ではなく、見たこともない形状の銃が握られている。銃口は鈍い青色の光を放っていた。イレイザーが与えた未来兵器だ。
「まだだ! まだ終わらぬ! 畿内の兵を集めれば、光秀の首などすぐに刎ねられよう!」
血気にはやる信長。その傍らには、側近の男が一人。その男の瞳の奥に、奏は見知った光を見た。冷たく、感情のない、データとしてしか世界を見ていない光。イレイザーだ。
「御意。殿の武運、未来永劫続くものと存じます。さあ、裏手より脱出を」
イレイザーは信長を生かそうと必死だ。このままでは歴史が書き換わる。奏はシンクロしている小姓の身体を無理やり動かし、信長の前に進み出た。
「お待ちください、上様!」
信長の鋭い視線が突き刺さる。未来兵器の銃口がこちらを向いた。
「何奴じゃ、貴様! 退がれ!」
「退がりませぬ! 織田信長ともあろうお方が、何故ここで退くのですか!」
イレイザーの憑依した側近が「斬り捨てよ!」と叫ぶ。だが、奏は続けた。
「敵は本能寺にあり! 天下布武を掲げた上様の敵は、今、この寺の全てに満ちております! それは、臆病、未練、そして生への執着! それら全てを焼き尽くしてこそ、織田信長の名は未来永劫、日ノ本に轟くのではありませぬか!」
それは賭けだった。信長という男の誇り、その魂の在り方に訴えかける、最後の調律。
未来兵器を構えたまま、信長の動きが止まる。その瞳に、一瞬、迷いの色が浮かんだ。イレイザーが何かを囁こうとする。その瞬間、信長は、ふっと笑った。
「……面白いことを言う。そうか、敵は我の中にあり、か」
彼は未来兵器をカラン、と床に投げ捨てた。そして、傍らにあった弓を手に取る。
「是非もなし」
その言葉が響いた瞬間、奏の耳を劈(つんざ)いていた不協和音は、ぴたりと止んだ。世界が、本来の荘厳なハーモニーを取り戻していくのが分かる。
信長は炎の奥へと消えていった。歴史は、守られたのだ。
奏の意識が現代へと引き戻される。調律室の冷たい木の床の上で、彼女は深く息を吐いた。身体は鉛のように重い。
「ご苦労だった、カナ」
一条が差し出した白湯を飲み干すと、疲弊した細胞に温かさが染み渡った。窓の外では、観光客の賑やかな声が聞こえる。彼らは誰も知らない。ついさっきまで、自分たちの存在するこの世界が、消滅の危機に瀕していたことなど。
「師匠……」
奏は、ふと遠くを見た。
「また、聞こえます。微かですが……新しいノイズが。今度は……海の向こうから」
一条は静かに頷き、新たな煙草に火をつけた。
「オーケストラは、まだ終わらんようだな」
奏は立ち上がった。その瞳には、疲れの色と共に、歴史を守る調律師としての、静かで強い光が宿っていた。戦いは終わらない。だが、それでいい。この世界の美しい旋律が続く限り、時任奏は戦い続けるのだ。
クロノスタシス・チューナー
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