時を編むインク

時を編むインク

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***第一章 錆びた鍵と褪せた日記***

神保町の片隅に佇む古書店「時雨堂」。その三代目を継いだ相馬圭は、埃とインクが混じり合った独特の匂いが満ちる店内で、溜息を一つ吐いた。祖父が遺したこの店は、圭にとって過去の遺物でしかなかった。活字離れが叫ばれて久しいこの時代に、古書専門の店など、いずれ立ち行かなくなる。いっそ店を畳んで、もっと「今」を感じられる仕事に就きたい。そんな考えが、ここ最近の彼の頭を占めていた。

その日も、圭は客の来ない午後の時間を使い、店の奥にある物置の整理をしていた。祖父が亡くなって一年。手付かずだった遺品の中から、彼は一つの小さな桐の箱を見つけた。鍵はとうに錆びつき、固く閉ざされている。興味本位で、手元の工具でこじ開けてみると、ふわりと樟脳の香りが立ち上った。中には、絹の布に大切に包まれた一冊の日記と、黒檀の軸に銀細工が施された、美しい万年筆が収められていた。

日記の表紙には「千代」という女性の名前だけが、たおやかな筆跡で記されている。何気なくページを捲った圭は、奇妙な感覚に襲われた。そこに綴られているのは、崩し字に近い、現代では読み慣れない古い書体。だが、なぜだろう。その文字が、まるで印刷された活字のように、すらすらと頭の中に流れ込んでくるのだ。

『大正十一年、四月。うららかな春光の中、私は朔太郎様と出会った。彼の瞳は、新しい時代の夜明けを映す星のように、強く輝いていた』

圭は、まるで他人の記憶を覗き見ているかのような、不思議な没入感に囚われた。古びた紙の上で、百年の時を超えた物語が、静かに息を吹き返した瞬間だった。退屈だった日常が、錆びた鍵を開けた音と共に、軋みを立てて動き始めた。

***第二章 百年前の恋文***

それからの数週間、圭は店のカウンターで、暇を見つけては千代の日記を読み耽った。日記の中の千代は、良家の令嬢でありながら、古い因習に息苦しさを感じる、聡明で感受性の豊かな女性だった。彼女が出会った朔太郎は、大学で学ぶ青年で、貧しいながらも西洋の新しい思想に触れ、日本の未来を熱く語る情熱家だった。

『朔太郎様は言う。書物は、身分や性別を問わず、すべての人に開かれた知の扉であるべきだと。彼の言葉を聞くたび、私の胸の中の小さな鳥籠の扉が、少しずつ開いていくのを感じる』

二人の逢瀬は、いつも人目を忍んでのものだった。図書館の片隅で、公園のベンチで、彼らは言葉を交わし、未来を夢見た。千代の文章は、恋する女性のときめきだけでなく、新しい世界への憧れと、ままならない現実への小さな抵抗に満ちていた。圭は、ページを捲るたびに、大正という時代の空気を肌で感じるようだった。西洋文化の華やかさと、まだ色濃く残る封建的な影。そのコントラストの中で懸命に生きる二人の姿が、モノクロームの歴史に鮮やかな色彩を与えていく。

圭はいつしか、彼らの物語に完全に心を奪われていた。これまでただの商品として棚に並べていただけの古書を、自ら手に取るようになった。大正時代の風俗、当時の地図、流行した文学。すべてが、千代と朔太郎の生きた世界を立体的に理解するためのピースとなった。彼らがデートをしたであろう喫茶店は、今はもうない。彼らが見上げたであろう建物も、姿を変えている。だが、圭の目には、現代の街並みに、百年前の二人の幻影が重なって見えた。

「終わったこと」だと思っていた歴史が、生身の人間の喜びや悲しみの集積なのだと、圭は初めて実感していた。時雨堂の埃っぽい空気さえ、今は心地よく感じられる。この場所は、無数の物語が眠る、静かな聖域なのかもしれない。日記の最後のページが近づくにつれ、圭の心には一抹の不安がよぎり始めていた。この幸福な時間が、永遠に続くはずがないことを、彼は知っていたからだ。

***第三章 震災の灰と祖父の秘密***

日記の最後の一文は、圭の心を凍りつかせた。

『大正十二年、八月三十一日。明日は朔太郎様と共に、浅草の活動写真を観に行く約束。二人で見る未来は、きっと銀幕のように輝いていることでしょう』

その翌日、大正十二年九月一日。圭は息を呑んだ。関東大震災が発生した日だ。日記は、そこでぷつりと途絶えていた。輝かしい未来を語ったそのペン先は、未曾有の災害によって、無慈悲に折り取られてしまったのだ。

圭は狂ったように資料を探した。震災の犠牲者名簿、当時の新聞記事、郷土史の記録。店の書物を片っ端から調べ、国立国会図書館にまで足を運んだ。どうか、生きていてくれ。千代と朔太郎が、あの地獄を生き延び、結ばれていてほしい。それはもはや、赤の他人への願いではなかった。

数日後、圭は一冊の郷土史の資料の中に、その名前を見つけてしまった。震災による火災の犠牲者名簿。そこに、「斎藤朔太郎」という名が、小さな活字で記されていた。千代の名前は、どこにもなかった。彼女は生き延びたのだろうか。それとも、身元不明のまま葬られたのか。圭は店の床に座り込み、ただ茫然と虚空を見つめた。百年前に失われた恋の物語が、ずしりと重く彼の心にのしかかった。

失意の日々が続いたある夜、圭はふと、祖父の書斎を整理していなかったことを思い出した。何か手がかりが残っているかもしれない。淡い期待を胸に書斎に入り、机の引き出しを開けると、そこには一冊の古びた大学ノートがあった。それは、祖父の日記だった。

ページを捲った圭は、信じられない記述に目を疑った。

『私は、あの日、すべてを失った。炎と煙の中で記憶を失い、自分の名前さえ忘れてしまった。救護所で手当てを受け、新しい戸籍を与えられ、「相馬健吾」として生きることを決めた。私が「斎藤朔太郎」であったことを思い出したのは、それから三十年も経ってからのことだ』

全身に鳥肌が立った。祖父は、朔太郎だったのだ。彼は震災を生き延びていた。しかし、記憶を失い、別人として新たな人生を歩んでいた。そして、日記は続く。

『千代は、私を庇って建物の下敷きになった。私の腕の中で、息を引き取った。彼女の最後の言葉は、「私の分まで、未来を見て。誰もが自由に本を読める場所を作って」だった。私は、彼女との約束を果たすためだけに生きてきた。この「時雨堂」は、千代の夢そのものだ。そして、私が書いたこの「千代の日記」は、彼女が生きた証。彼女の魂を、未来に繋ぐための物語なのだ』

圭は、手にしていた「千代の日記」を震える手で見つめた。あのたおやかな筆跡は、祖父のものだったのだ。読めるはずのない文字が読めたのではない。幼い頃から見慣れた、祖父の文字だったのだ。圭は、自分が退屈だと切り捨てようとしていたこの場所が、祖父の生涯を懸けた贖罪であり、一人の女性の痛切な願いが結晶化した場所であったことを、ようやく理解した。涙が、日記のページに次々と染みを作っていった。

***第四章 未来を綴るペン先***

すべての真実を知った圭は、静かに祖父の机に向かった。そこには、桐の箱に収められていた、あの黒檀の万年筆が置かれていた。インクは、まるで主の帰りを待っていたかのように、まだ乾いていなかった。

圭は、その万年筆をそっと手に取った。ひんやりとした感触が、指先から心にまで伝わってくる。それは、朔太郎が千代に愛を誓い、祖父が千代の魂を未来に繋ごうとした、想いのバトンだった。

歴史とは、年号や事件の羅列ではない。名もなき人々の、愛や、夢や、絶望の物語が幾重にも織りなされてできた、巨大なタペストリーなのだ。そして自分は今、そのタペストリーの端を、確かに手にしている。

圭は、祖父が遺した日記の、最後のページの隣にあった真っ白な紙に、万年筆のペン先を滑らせた。

『祖父さん、そして千代さん。あなた方の物語は、僕が受け継ぎます』

それは、誰に見せるためでもない、彼自身の誓いの言葉だった。

もう、この店を退屈だとは思わない。この場所に満ちる埃とインクの匂いは、数えきれない物語の息遣いだ。圭は顔を上げ、窓の外を見た。神保町の街並みはいつもと変わらない。しかし、彼の目には、過去から未来へと続く、壮大な時間の流れが見えていた。

万年筆を握る手に、力がこもる。僕の物語は、ここから始まる。時を編み、想いを繋ぐ、新しい一ページが。
窓から差し込む夕陽が、圭の手元を、そして彼がこれから綴っていく未来を、優しく照らしていた。

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