音譜のアルカナ

音譜のアルカナ

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古地図修復家の僕、レオ・アルディニの仕事場は、いつだって羊皮紙の乾いた匂いと、古いインクのかすかな甘さが混じり合った香りに満ちていた。亡き祖父から受け継いだ、フィレンツェの路地裏にある小さな工房。そこで僕は、歴史のシミが刻まれた地図たちと対話する毎日を送っていた。

その日、僕が修復していたのは、祖父が最後まで手放さなかった一揃いの地図帳だった。16世紀のものとされるその地図帳の、とあるページの隅に、奇妙なインクの滲みを見つけた。特殊な紫外線ランプを当てた瞬間、僕の心臓は高鳴った。羊皮紙の上に、本来あるはずのない五線譜と、奇妙な形の音符たちが、青白い光を放ちながら浮かび上がったのだ。

「これだ……」

祖父が夢中で語っていた伝説が、脳裏に蘇る。「音譜のアルカナ」。文字ではなく、「音」で歴史や叡智を記録したという、幻の図書館。それはおとぎ話だと、僕は今まで本気にしていなかった。だが、目の前にあるのは、その図書館へと至る「歌う地図」に他ならなかった。

祖父の日記を頼りに解読を試みたが、僕の知識だけでは歯が立たない。記号は古代ギリシャの音階に似ているが、それだけではない何かがあった。僕は旧知の仲である、若き音楽史研究者のソフィアに助けを求めた。

「信じられない……。これは単なる旋律じゃないわ。和音の進行が、特定の星座の配置を示唆している。そしてこのリズムは、古代の海図で使われていた測距法と一致する!」

ソフィアの瞳は、僕と同じ興奮の色に染まっていた。僕たちは寝食を忘れ、地図と音譜の解読に没頭した。やがて、その場所がエーゲ海に浮かぶ名もなき孤島、「アネモス・ペトラ(風の岩)」であることを突き止めた。

しかし、僕たちの発見を嗅ぎつけた者がいた。冷酷な美術品コレクターとして名高い、ヴィクトル・コルテス。彼は富と名声のためなら、どんな汚い手も使う男だ。コルテスの屈強な部下たちが工房に現れた時、僕とソフィアは間一髪で裏口から逃げ出した。手には、解読した地図の写しと、祖父が遺した古びた竪琴だけ。

フィレンツェの石畳を駆け抜け、列車に飛び乗り、港へ。コルテスの追跡を振り切りながら、僕たちはアネモス・ペトラ島行きの錆びついた漁船に乗り込んだ。船が紺碧の海を進む間、僕たちの胸には、恐怖よりも未知への期待が大きく膨らんでいた。

島は、その名の通り、風が絶えず吹きつける岩と低木だけの荒涼とした場所だった。地図が示す島の中心部には、自然にできたとは思えないほど幾何学的な形状の巨石群があった。

「見て、レオ。あの岩の隙間……風が通り抜ける時、まるで笛のような音がするわ」

ソフィアが指さした先で、風が奇妙な音階を奏でていた。それは、地図に記された最初のフレーズと全く同じだった。僕たちは、それが遺跡への「鍵」だと直感した。ソフィアが竪琴でその旋律に応えるように奏でると、足元の巨大な岩盤が、地響きと共にゆっくりと沈み込んでいく。眼下に現れたのは、地下へと続く螺旋階段だった。

階段を下りた先には、信じがたい光景が広がっていた。

巨大な鍾乳洞の壁一面に、無数の水晶柱が林立していた。地熱と地下水脈、そして地上から吹き込む風が、それぞれの水晶柱を微かに振動させ、荘厳で複雑なハーモニーを空間に満たしていた。ここが「音譜のアルカナ」。歴史は、壮大な交響曲としてここに保存されていたのだ。

「これが……歴史の本当の姿……」ソフィアが呆然と呟く。

その時、背後で無粋な足音が響いた。コルテスだ。部下を引き連れ、銃を構えている。
「素晴らしい! まさに人類の至宝だ! レオ君、発見に感謝するよ。だが、この図書館は私がいただく」

コルテスが部下に合図し、彼らがダイナマイトを設置しようとした瞬間、僕は祖父の日記の最後の言葉を思い出した。『破壊の槌音に、図書館は永遠に沈黙する。調和の旋律にのみ、その心臓は開かれる』。

「ソフィア、あの旋律を!」

僕は叫んだ。コルテスの部下たちが襲い掛かるのを、古代の石柱を盾にしながら必死で防ぐ。その間、ソフィアは竪琴を構え、震える指で弦を弾き始めた。それは、地図の最後に記されていた、最も複雑で美しいメロディだった。

ソフィアの奏でる竪琴の音色に、僕も声を重ねた。僕の歌声が、竪琴の音と共鳴する。すると、奇跡が起こった。

洞窟中の水晶柱が、一斉にまばゆい光を放ち始めたのだ。僕たちの旋律に呼応するように、何万もの水晶が共鳴し、純粋な音のエネルギーが津波のように洞窟を満たした。それは、ただの音ではない。アレクサンドロスの遠征、ローマの興亡、失われた文明の哲学、星々の運行。あらゆる知識と歴史が、奔流となって脳内に直接流れ込んでくる。圧倒的な情報の洪水に、コルテスもその部下たちも、苦悶の表情を浮かべて膝から崩れ落ちた。

やがて光と音が収まった時、図書館は自らを守るかのように、入口を巨大な岩で塞いでしまった。僕とソフィアは、崩れ落ちる岩壁からギリギリで地上へ這い出した。

振り返ると、そこにはもう、何事もなかったかのように風が吹き抜ける巨石群があるだけだった。コルテスの姿もない。

僕たちの手には、富も名声も残らなかった。ただ、洞窟から持ち出してしまった小さな水晶の破片と、脳裏に焼き付いて消えない、壮大な「歴史の交響曲」だけがあった。

フィレンツェに帰る船の上で、ソフィアが僕に微笑んだ。
「僕たち、とんでもないものを聴いてしまったな」
「ああ。でも、最高の気分だ」

僕はエーゲ海の水平線を見つめた。歴史は、博物館のガラスケースや、埃をかぶった書物の中だけで生きているわけじゃない。それは時に歌となり、風に乗り、世界の片隅で誰かが再び耳を傾けてくれる日を、静かに待ち続けているのだ。僕たちの新たな冒険は、今、始まったばかりだった。

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