刻の木簡と星詠みの歯車

刻の木簡と星詠みの歯車

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神保町の古書店街の片隅に、橘蒼太(たちばな そうた)は小さな歴史研究所を構えていた。学会の主流から外れた「異端児」の彼にとって、埃とインクの匂いが染みついたこの場所こそが城だった。

変化が訪れたのは、恩師である考古学者・長谷川教授の訃報が届いた数日後。遺品整理を任された蒼太は、教授の書斎で奇妙な木片を見つけた。長さ十五センチほどの、黒ずんだ木簡。一見すれば、古代の荷札か何かだ。だが、その表面に刻まれた紋様は、蒼太の知識の範疇を軽々と超えていた。鳥のようでもあり、歯車のようでもある不可解な記号。そして、それは僅かに光を帯びているように見えた。

「なんだ、これは……」

その日から、蒼太は木簡の解読に没頭した。高精細スキャナーで取り込み、AIによるパターン解析を試みる。数日後、蒼太は驚くべき事実に気づいた。木簡に特殊な波長の光を当てると、内部に隠された、髪の毛よりも細い無数の線が浮かび上がったのだ。それは、立体的な地図だった。

「まさか……」

線が示す座標と、記号が暗示する星の配置を照合した結果、一つの地点が浮かび上がった。神話の国、出雲。その山深く、現代の地図からは消えかかった古道だった。

蒼太の胸は高鳴った。これは歴史を塗り替える発見かもしれない。しかし、その高揚感はすぐに恐怖に取って代わられた。ある夜、研究所に何者かが侵入した形跡があったのだ。荒らされた様子はない。だが、机の上の木簡が、置いた時と寸分違わぬ角度で、しかし明らかに一度動かされた痕跡を残していた。

その翌日、黒いスーツに身を包んだ男たちが蒼太の前に現れた。「黒曜会」と名乗る彼らは、静かだが有無を言わせぬ圧力で告げた。
「その木簡は、我々が管理すべきものだ。大人しく渡してもらおうか、橘先生」
蒼太は直感した。彼らは、この木簡が持つ本当の価値を知っている。そして、それを手に入れるためなら手段を選ばない連中だ。

恐怖と好奇心。天秤は、一瞬で後者に傾いた。蒼太は男たちの監視の目をかいくぐり、深夜、最低限の装備だけを持って出雲へと飛んだ。

現地で彼を待っていたのは、想像を絶する神話の世界だった。木簡が示す古道は、地元で「神域」として禁足地になっている場所だった。途方に暮れる蒼太を助けたのは、近くの神社の神主の娘、美琴(みこと)だった。彼女の一族は、代々その土地の「守り人」を務めてきたという。

「その木簡……見せていただけますか」
美琴は蒼太の持つ木簡を見ると、息を呑んだ。
「これは、『刻(とき)の道標』。星の運行を読み、神々の座に至るための鍵だと伝えられています」

彼女の家に伝わる古文書と、蒼太の解読。二つの知識が合わさった時、最後の謎が解けた。道標が示すのは、満月の夜、特定の星々が山頂の巨石と一直線に並ぶ瞬間にのみ開かれるという、隠された洞窟の入り口だった。

満月の夜。蒼太と美琴は、追ってきた黒曜会の追跡を振り切り、目的の場所へとたどり着いた。星の光が巨石に注がれると、岩肌の一部が静かに内側へとスライドし、闇への入り口が現れた。

洞窟の奥は、巨大な空洞になっていた。そして、その中央に鎮座する「それ」を見た瞬間、蒼太は呼吸を忘れた。

直径十メートルはあろうかという、巨大な青銅の歯車。いや、無数の歯車が複雑に絡み合った、巨大な機械装置だった。表面には隕鉄と思われる黒光りする金属が使われ、壁一面には、木簡と同じ記号で描かれた壮大な天球図が広がっている。まるで古代のプラネタリウムだ。

「これが……」蒼太は呆然と呟いた。「ただの祭祀場じゃない。星々の運行を精密に計算し、未来を予測するための……超古代の天文計算機だ」

日食、月食、彗星の接近。それだけではない。地殻変動や気候変動といった、大規模な天変地異すらも予測可能だったのかもしれない。日本の歴史の裏で起きてきた数々の謎、神話として語られてきた奇跡や厄災は、全てこの「星詠みの歯車」がもたらした予言に基づいていたのではないか。

その時、入り口から黒曜会の男たちがなだれ込んできた。
「そこまでだ!『神の神託』を異端者に渡すわけにはいかん!」

絶体絶命。しかし、美琴は落ち着いていた。彼女は装置の台座にある一つの円盤を、古文書の記述通りに操作した。
「星よ、我らを守りたまえ!」
直後、洞窟全体が轟音と共に震え、歯車がゆっくりと回転を始めた。壁の天球図が光を放ち、現実とは思えないほどの美しい星空を洞窟内に投影する。その圧倒的な光景に、黒曜会の男たちは為す術もなく立ち尽くした。その隙に、蒼太と美琴は別の出口から脱出する。

洞窟から出た蒼太の目には、夜空に輝く本物の星が映っていた。手には、まだ微かに光を放つ「刻の木簡」が握られている。

歴史は、単なる過去の記録ではない。それは、未来へと繋がる壮大な物語なのだ。
蒼太は確信した。この歯車が次に示す「未来」は何なのか。彼の探求は、まだ始まったばかりだった。夜明けの光が、神話の国の山々を金色に染め始めていた。

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