幻影の秒針

幻影の秒針

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「昨夜、私は殺人を目撃しました」

私の事務所の古びたソファに腰掛けた女、佐伯聡美は、震える声でそう切り出した。彼女の顔は青ざめ、上質なハンドバッグを握りしめる指先は白くなっている。

「警察には?」
「もちろん、通報しましたわ。でも…誰も信じてくれないんです」

無理もないだろう、と私は思った。彼女が殺人があったと主張する場所は、彼女が住むマンションの隣室。そして、殺されたはずの住人、水木玲奈は今朝、何事もなかったかのようにゴミ出しをしていたというのだから。

「それでも、私は確かに見たんです」と聡美は懇願するように私を見つめた。「どうか、調べていただけませんか」

私立探偵・影山譲。それが私の名前だ。かつては警視庁の刑事だったが、今は埃っぽい雑居ビルで、迷い猫探しのような依頼をこなしている。だが、存在しないはずの殺人事件、という響きは、私の眠っていた好奇心を静かに刺激した。

私は聡美と共に、問題のマンションへ向かった。彼女の部屋の窓からは、隣室である水木玲奈の部屋のリビングが、まるで舞台を眺めるように見渡せた。
「昨夜の零時ごろです。カーテンの隙間から、男が水木さんを刃物で…」

私は彼女の視線を追いながら、隣室の窓に目を凝らした。やがて、当の水木玲奈がドアを開けてくれた。彼女は我々を見ると、少し驚いたように眉を上げたが、すぐに冷静な表情に戻った。

「警察の方にはもうお話ししましたけど」
玲奈に促され、我々は彼女の部屋にあがった。部屋はモデルルームのように整然としており、血痕どころか、争った形跡すら微塵も感じさせない。

「昨夜はずっと一人で、映画を観ていました。プロジェクターで、壁に投影して」
彼女が指さした壁には、確かに白いスクリーンが掛かっている。その横には、古風な振り子時計が飾られていたが、その針は10時10分を指したまま、静止していた。

私は聡美の証言を思い出す。
「犯行の瞬間、壁の時計がちょうど零時を指したんです。あの鐘の音と共に…」
しかし、目の前の時計は止まっている。鐘が鳴るはずもない。聡美の幻覚か、あるいは巧妙な嘘か。私は部屋の隅々まで注意深く観察した。プロジェクター、スクリーンの位置、そして聡美の部屋から見える角度。何かが噛み合っていない。パズルのピースが、一つだけ違う箱から紛れ込んでいるような違和感。

事務所に戻り、私は玲奈が口にした「古いサスペンス映画」について調べ始めた。数時間後、私はあるモノクロ映画に行き着く。そのクライマックスは、零時を告げる振り子時計の鐘の音と共に、ヒロインが刺殺される、というものだった。聡美の証言と、不気味なほど一致していた。

翌日、私は再び玲奈の部屋を訪れた。今度は一人で。
「あなたが見ていた映画、分かりましたよ」
私の言葉に、玲奈の表情がわずかに強張る。

「あなたは昨夜、あの映画をプロジェクターで壁に投影した。ただし、スクリーンにではありませんね?」
私は壁に近づき、指でそっと表面を撫でた。
「このスクリーンが掛かっている場所だけ、壁紙が不自然に新しい。昨夜、あなたはスクリーンを外し、白い壁紙そのものに映像を投影した。そして、聡美さんの部屋から見える角度を計算し、あたかもあなたの部屋で、リアルタイムに殺人事件が起きているかのように見せかけたんです」

玲奈は黙ったまま、私から視線を逸らさない。

「聡美さんが見たのは、実際のあなたではなく、映画の中のヒロイン。彼女が聞いた零時の鐘の音も、映画の音響です。だから、この部屋の時計は止まっている必要があった。実際の時間と混同されては困りますからね」

沈黙が部屋を支配する。やがて、玲奈は諦めたように息を吐いた。
「…何のために、そんなことをしたと?」

「目的は佐伯聡美さん本人ではない。あなたは、探偵である私をこの一件に引きずり込みたかった。私の注意を、聡美さんの周辺に向けさせるために」
私は核心を突いた。
「あなたの本当の目的は、佐伯聡美さんの夫…彼でしょう?」

玲奈の瞳が、憎悪の炎で揺らめいた。
「私の恋人は、三ヶ月前に事故で死にました。…いいえ、殺されたんです。佐伯の夫に」

彼女の恋人は、聡美の夫と仕事上のトラブルを抱えていたという。警察はただの事故として処理したが、玲奈は納得できなかった。しかし、彼女には証拠がない。だから、私立探偵である私を利用する計画を立てたのだ。虚構の殺人事件をでっち上げ、私が聡美の周辺を調査する過程で、彼女の夫のボロが出ることを期待して。

「見事な筋書きだ。まるで映画のようだ」私は皮肉を込めて言った。「だが、私を駒として使うには、少し詰めが甘かった」

玲奈は力なく微笑んだ。それは、計画の失敗を認める笑みではなかった。むしろ、成功を確信した者の、不気味な微笑みに見えた。

「ええ。でも、影山さん。あなたはまんまと私の筋書き通り、佐伯夫妻のことを調べ上げてくれた。それで十分ですわ」

私は事務所のデスクで、調査報告書を眺めていた。玲奈の依頼(というより罠)で調べた佐伯夫妻の背景。夫の会社の経営難、不審な金の流れ、そして…事故死した玲奈の恋人が持っていたという、会社の不正を告発するデータ。

今回の事件は、玲奈が仕掛けた幻影だった。だが、その幻影が指し示した先には、本物の事件の、どす黒い輪郭が浮かび上がっていた。デスクの上の電話が鳴る。受話器を取る前から、それが新たな事件の始まりを告げる鐘の音だと、私には分かっていた。

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