ステーション「ヘルメス7」の窓から見える景色は、もう三年間、何も変わっていない。漆黒の宇宙に、巨大なガス惑星「クロノス」が青い縞模様を描き、その周りを無数の星々が瞬いているだけだ。僕、ハシモト・アキラの任務は、この宇宙の辺境で星間物質のデータを収集し、地球へ送り続けること。言い換えれば、宇宙で最も孤独な仕事だ。
話し相手は、合成音声のステーション管理AI「ケイロン」だけ。食事も、睡眠も、作業も、全てが寸分の狂いもないスケジュールに支配されている。そんな単調な日々に、ある日、亀裂が入った。
「ケイロン、今のノイズは何だ?」
観測データに、奇妙な波形が混じっていた。周期性のある、人工的な信号。
《原因不明の干渉波です。機器の故障の可能性があります》
ケイロンの無機質な声が響く。だが、僕は確信していた。これは故障じゃない。耳を澄ますと、ノイズの向こうにかすかな旋律が聞こえる気がした。フィルターをかけ、信号を増幅してみる。すると、スピーカーから信じられない音が流れ出した。
ピアノの音だ。ショパンの「ノクターン 第2番」。
あまりに優雅で、この殺風景な宇宙には似つかわしくない、懐かしい地球の調べだった。
血の気が引くのを感じた。ここは地球から何十光年も離れた未踏宙域。こんな場所で、誰が、なぜ、何百年も前のクラシック音楽を?
慌てて本部へ報告したが、返ってきたのは予想通りの答えだった。「長期単独任務による幻聴の可能性を考慮し、心理カウンセリングを推奨する」。彼らは僕を信じなかった。
だが、音楽は鳴りやまなかった。次の日にはバッハの「G線上のアリア」が、その次の日にはドビュッシーの「月の光」が、まるで宇宙のDJが気まぐれに選曲するかのように、断続的に流れ続けた。僕は狂っていなかった。この宇宙のどこかに、音楽を奏でる何者かがいるのだ。
僕は独断で、高性能観測ドローン「アルゴス」を信号の発信源へと向かわせた。データによれば、発信源はクロノスの外縁に広がる小惑星帯。アルゴスがそこへたどり着くまで、気の遠くなるような七十二時間が過ぎた。
そして、アルゴスが送ってきた映像に、僕は息を呑んだ。
そこにあったのは、無数の金属片だった。太陽光を反射してキラキラと輝くそれらは、まるで銀河の宝石箱のようだ。一つ一つは数メートル程度の大きさしかない。だが、それらはただ漂っているのではなかった。まるで意思を持っているかのように、互いに距離を保ちながら、小惑星帯の中を巨大なオーケストラのように旋回していたのだ。そして、その金属片の一つ一つが、音楽の異なるパートを奏でるように、微弱な信号を発信していた。それらが重なり合うことで、壮大なシンフォニーを生み出していたのだ。
解析を進めると、さらに驚くべき事実が判明した。金属片は、人類が宇宙開発の初期に打ち上げた、旧式の探査機の残骸によく似ていた。しかし、記録上、この宙域に到達した人類の遺物は存在しない。これは一体、どういうことだ?
僕は寝る間も惜しんで、全ての信号を統合し、解析を続けた。音楽の旋律、その美しいハーモニーの裏に、何か別の意図が隠されている気がしてならなかった。そして、ついに発見した。異なる周波数帯に、微弱なパルス信号が隠されていたのだ。それは音楽を装った、巧妙な暗号だった。
解読したデータがモニターに表示された瞬間、僕は椅子から転げ落ちそうになった。それは、座標だった。この惑星系に存在する、ある天体の位置を示していた。
クロノスの第五衛星、「レア」。
震える手で、ステーションの主望遠鏡をレアに向ける。最大倍率までズームし、光学フィルターを調整する。はじめは、氷に覆われた何の変哲もない衛星にしか見えなかった。だが、ケイロンに画像補正を指示した時、その正体が現れた。
衛星の地表、その広大な氷原に、巨大な幾何学模様が刻まれていた。どこまでも続く、二本の巨大な螺旋。それは、僕たち人類が、生命の設計図と呼ぶもの。
DNAの二重螺旋構造だった。
そして、僕は全てを理解した。
これは、遥か昔に人類が宇宙へ向けて放った、ささやかな挨拶への「返信」なのだ。探査機ヴォイジャーに乗せられたゴールデンレコード。そこに記録された音楽と、我々の存在を示す情報。それを、この宇宙のどこかにいる知的生命体が受け取った。
彼らは、我々の音楽を美しいと感じ、それを模倣して演奏してくれた。そして、こう告げているのだ。
「我々は君たちを知っている。君たちの音楽を、そして生命の形も。我々からの返答はこれだ。さあ、次は君たちがここへ来る番だ」と。
レアの地表に刻まれたDNAは、巨大なスピーカーだった。星そのものが振動し、宇宙に音楽を奏でていたのだ。
三年間、僕を苛んできた孤独が、歓喜の震えに変わっていく。僕の仕事は、退屈なデータ収集などではなかった。人類史を塗り替える、最も偉大な発見の目撃者になることだったのだ。
僕は通信機のマイクを握りしめた。
「こちら、ヘルメス7、ハシモト・アキラ。……聞こえますか、本部。信じられないでしょうが、聞いてください」
モニターに映る壮大なDNAの螺旋を見つめながら、僕は告げた。スピーカーからは、再びショパンのノクターンが、今度はかつてないほど鮮明に、そして優しく流れていた。
「どうやら僕たちは、宇宙から招待されたようです」
星々のノクターン
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