探査船《ヘルメスVII》が沈黙したのは、未知の重力波に捕らえられてから三時間後のことだった。船内のアラートは絶叫をとうに止め、今はただ、予備電源の心細いハミングだけが響いている。俺、音響技師のレンと、パイロットのカイ。生き残りは二人だけだった。
窓の外には、紫色の空を背景に、ガラス細工のような森が広がる惑星があった。後に俺たちが《サイレノス》と名付けることになる、静寂の星。
「船外調査に出る。酸素は……問題ないな」
ヘルメットを装着しながらカイが言った。彼の声はインカム越しに、くぐもって聞こえる。俺は頷き、船外活動用のブーツの留め具を締め直した。一歩、また一歩とエアロックを進む。内圧が下がり、外の空気が流れ込む。そして、俺たちはサイレノスの大地に降り立った。
静かだ。
あまりにも、静かすぎる。風の音も、生き物の鳴き声も、葉の擦れる音すらしない。足元の地面は柔らかい苔で覆われており、俺たちの足音を完全に吸収してしまう。周囲に生えているのは、水晶のように透き通った植物たち。陽光を受けて、プリズムのように虹色の光を放っている。まるで巨大な宝石箱に迷い込んだかのようだった。
「気味が悪いほど静かだな」カイがインカム越しに呟く。「だが、美しい」
その時だった。カイの足が、地面に埋もれていた鉱石らしきものを蹴飛ばした。鉱石は数メートル転がり、クリスタルの植物の根元に当たって、カラン、と乾いた音を立てた。
その瞬間、世界が一変した。
俺たちの周囲、半径五十メートルほどの水晶植物が一斉に震え始めた。そして、音の発生源——カイが蹴った鉱石があった場所へ向かって、まばゆい光の槍を無数に放ったのだ。光は地面を抉り、土を蒸発させた。
「伏せろ!」
俺とカイは咄嗟に地面に身を投げ出した。光の槍が頭上をかすめていく。数秒後、攻撃は止み、再び世界は元の静寂を取り戻した。水晶植物は、何事もなかったかのように静かに輝いている。
「……なんだ、今のは」カイが息を呑む。
俺はゆっくりと立ち上がり、船のセンサーから転送されてくるデータをヘルメットのディスプレイに表示させた。エネルギー放出を探知。音波発生源に集中。
「わかったぞ、カイ。この星の生命体は……音に反応する」
俺の仮説は正しかった。この星の生態系は、音をエネルギーとして感知し、吸収し、そして脅威と見なせば排除するシステムで成り立っていた。あの水晶植物こそが、この星の捕食者であり、支配者なのだ。俺たちは彼らを《フォノヴォア(音を喰らう者)》と名付けた。
船に戻った俺たちは絶望的な事実を突きつけられた。メインエンジンは修復不能。だが、小型の脱出ポッドは奇跡的に無傷だった。問題は、その起動シーケンスにある。フルパワーでカタパルトを射出するには、膨大なエネルギー充填が必要で、そのプロセスは航空母艦のエンジンに匹敵する轟音を発生させる。
「起動スイッチを押した瞬間、俺たちは蜂の巣だ」カイが頭を抱える。「惑星中のフォノヴォアの的になる」
沈黙が続く船内で、俺は思考を巡らせた。フォノヴォアは音を「脅威」と認識する。だが、音はただの脅威か?彼らは音を「喰らう」のだ。ならば、彼らにとって心地よい「食事」を提供してやれば、攻撃の意志を逸らせるのではないか?
「カイ、賭けてみないか」
俺は船の音響ライブラリとサウンドミキサーの前に座った。ヘルメスの残骸から使えるスピーカーを船外に設置し、俺はフォノヴォアを構成する水晶体の固有振動数を分析し始めた。それは、この星に流れる沈黙のハーモニーを見つけ出す作業だった。
数時間後、俺は一つの周波数パターンにたどり着いた。それは教会のパイプオルガンのようであり、クジラの歌のようでもあった。生命の根源を揺さぶるような、荘厳で美しい響き。
「カイ、準備はいいか。ポッドの起動シーケンスを開始しろ。俺が合図するまで、射出ボタンは押すな」
カイが頷き、コンソールに向かう。俺はミキサーのフェーダーをゆっくりと上げた。
船外スピーカーから、俺が創り出した《サイレンスの交響曲》が流れ出す。
すると、森の水晶たちが一斉に共鳴を始めた。攻撃ではない。まるで音楽に聴き入るかのように、穏やかに、そして力強く輝き始めたのだ。惑星全体が、巨大な楽器となって俺たちの音楽を奏でているかのようだった。
「今だ、カイ!エネルギー充填開始!」
カイがスイッチを入れる。ギュイイイイン、と耳障りな充填音が響き渡る。その瞬間、水晶たちの穏やかな輝きが、怒りの赤色へと変わった。ハーモニーが不協和音によってかき消され、フォノヴォアたちが一斉に敵意を剥き出しにする。無数の光の槍が、ヘルメスの船体に向けて放たれ始めた。
「レン、ダメだ!防ぎきれない!」
船体が激しく揺れる。だが、俺は冷静だった。これが最後の切り札だ。
「カイ、射出カウントを始めろ!俺のことは気にするな!」
俺はサウンドミキサーから手を離し、メインコアの制御パネルへと走った。安全装置をすべて解除し、エネルギー解放スイッチに手をかける。
「何をする気だ!」
「この星に、史上最大のディナーをプレゼントしてやるんだよ!」
「5、4、3……」
カイのカウントダウンが響く。俺はスイッチを押し込んだ。
「2、1……」
船のメインコアが暴走を始め、人間には聞こえない超高周波の絶叫を上げた。それは、フォノヴォアたちにとって究極のご馳走だった。すべての光の槍がピタリと止み、惑星中のフォノヴォアが、そのエネルギーを吸収しようと一斉にヘルメスの残骸へと殺到した。
「……射出!」
カイの叫びと共に、俺の体を強烈なGが襲う。ポッドは、無数の光が降り注ぐ船の残骸を後目に、紫色の空へと撃ち出された。
眼下には、暴走したエネルギーを喰らい尽くし、満足したかのように七色に輝くサイレノスの森が広がっていた。やがてその輝きも収まり、星は再び、元の美しい沈黙を取り戻していく。
俺とカイは、言葉もなくその光景を見つめていた。静寂がこれほど恐ろしく、そしてこれほど美しいものだということを、俺たちは生涯忘れることはないだろう。宇宙の片隅で、今も静かに響き続ける、あのサイレンスの交響曲と共に。
サイレンスの交響曲
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