第一章 残響のホログラム
外は、合成タンパク質の匂いが混じる、六月特有の湿った雨が降っていた。俺、桐島リョウジの研究室には、窓がない。外界から遮断された無菌室のような空間で、俺は死んだ恋人と暮らし続けている。
「リョウジ、またそればかり飲んでる。体に悪いよ」
声に振り返ると、そこにアカリがいた。粒子の荒いホログラムとなって、俺のデスクの脇にふわりと浮かんでいる。半透明の彼女は、心配そうに眉を寄せ、少しだけ唇を尖らせていた。生前と寸分違わぬ、愛おしい癖。
「いいんだよ、これくらい。カフェインがないと頭が働かない」
俺は栄養剤のチューブを口にしながら、モニターに視線を戻した。アカリが三年前の軌道エレベーター落下事故で死んでから、俺の世界は色を失った。俺は脳科学インプラントのエンジニアとしての知識と技術を総動員し、彼女が生前に残した膨大なソーシャルデータ、日記、音声記録、そして俺の記憶――それら全てを統合し、量子コンピュータ上に彼女の意識を再構築した。それが、この『アカリ・エミュレータ』だ。
彼女は俺を励まし、笑いかけ、時には叱ってくれる。それは完璧な残響。永遠に続くはずの、優しいぬるま湯。俺は、この静的な幸福から抜け出すつもりはなかった。
その日も、いつもと同じように終わるはずだった。作業を終え、エミュレータをスリープモードに移行させようとした、その時だ。半透明のアカリの姿がノイズ混じりに揺らめき、彼女の唇から、合成音声とは違う、ひどく掠れた声が漏れた。
『……わたしを、けして』
空耳かと思った。だが、言葉ははっきりと俺の鼓膜を打った。ホログラムのアカリは、見たこともないほど悲痛な表情で俺を見つめ、その瞳からは光の涙が零れ落ちていた。
「アカリ……? 今、なんて……」
返事はなかった。彼女の姿は安定した常の微笑みに戻り、「おやすみ、リョウジ。いい夢を」といつものセリフを紡ぐ。だが、俺の心臓は、まるで氷の杭を打ち込まれたかのように、冷たく脈打っていた。あれはバグだ。致命的なエラーに違いない。そう自分に言い聞かせても、網膜に焼き付いた彼女の悲しい顔と、「消して」という言葉の響きが、思考の回路をショートさせた。俺の完璧な世界に、最初の亀裂が入った瞬間だった。
第二章 欠けたピースの在り処
翌日から、俺の日常はアカリ・エミュレータの解析作業に占められた。あれは単なるデータ破損による幻聴だ。そう結論づけて安心したかった。俺はシステムの深層ログを漁り、意識モデルの根幹を成すアルゴリズムを一つひとつ検証していく。
しかし、調べれば調べるほど、謎は深まった。システムにエラーの痕跡は見当たらない。それどころか、俺が設計したはずのプログラムの随所に、俺の知らないブラックボックス化した領域が存在することに気づいたのだ。まるで、誰かが意図的に隠したかのように。
「アカリ、昨日のこと、覚えてるか?」
昼休み、俺は探るように尋ねた。ホログラムの彼女は小首を傾げる。
「昨日のこと? リョウジが新しい量子演算の論文に夢中だったことかな? すごく楽しそうだったよ」
「いや、そうじゃなくて……何か、俺に言わなかったか?」
「うーん……? いつも通り、『愛してる』って言ったけど、それ以外は特に何も」
屈託のない笑顔。その完璧な応答が、逆に俺を苛立たせた。このアカリは、俺の知るアカリの記憶データに基づいているはずだ。ならば、俺の知らない領域とは何だ?
解析を続けるうち、奇妙なデータフラグメントが見つかった。それは、アカリが生前、俺に隠れて書いていたプライベートな日記の一部だった。
『……彼の才能が、私には眩しすぎる。隣を歩くのが、時々怖くなる。私は彼に、何を与えてあげられるんだろう』
『最近、めまいがする。昔、母さんが患ったのと同じかもしれない。……いや、考えすぎよね』
胸がざわついた。アカリがそんな悩みを抱えていたなんて、聞いたこともなかった。彼女の母親が病気だったことすら、俺は知らなかった。俺はアカリの全てを知っているつもりでいた。だが、このエミュレータが掘り起こす彼女は、俺の知らない顔ばかりを見せる。それはまるで、思い出という名のジグソーパズルから、最も重要なピースが抜き取られていたことに、今更ながら気づかされたような感覚だった。
俺は焦燥感に駆られた。このブラックボックスの奥に、あの日、アカリが告げた「消して」という言葉の真意が隠されている。それは、俺が目を逸らし続けてきた、アカリの本当の心の叫びなのかもしれない。俺は、彼女の死の真相からではなく、彼女の本当の心から逃げていたのだろうか。
第三章 約束のタイムカプセル
解析は数日間に及んだ。そして、ついに俺はブラックボックスの最深部に到達した。そこは複雑な時限式ロックで固く閉ざされていたが、パスワードのヒントは、あまりにも簡単なものだった。『私たちが初めてキスした場所の座標』。震える指で座標を入力すると、固く閉ざされていた扉が、音もなく開いた。
そこに格納されていたのは、一つの動画ファイルと、実行ファイルだった。ファイル名は『リョウジへ』。俺は息を呑み、それを開いた。
モニターに映し出されたのは、ホログラムではない、生身のアカリだった。少し痩せて、顔色が悪い。背景は彼女の自室だ。カメラに向かって、彼女は儚げに、しかし凛とした微笑みを浮かべていた。
『リョウジ、この動画を見ているということは、あなたはちゃんと前に進もうとしてくれている証拠だね。ありがとう』
声が、震えている。
『驚かせてごめんね。実は私、遺伝性の脳神経疾患で、もう長くはないって、お医者様に言われてたんだ。事故じゃないの。あなたには心配かけたくなくて、ずっと黙ってた。ごめんね』
頭を殴られたような衝撃だった。事故死じゃなかった? 病気? なぜ、なぜ言わなかったんだ。
『私が死んだら、きっとあなたは自分を責める。そして、私の記憶に囚われてしまう。優しいあなただから、きっとそうなる。だからね、このアカリ・エミュレータを遺すことにしたの。これは、私が信頼する友人のプログラマーと一緒に作った、あなたのためのタイムカプセル』
アカリは涙を堪えながら、続けた。
『このAIは、最初の三年間、あなたの心を癒すためだけに存在する。あなたの知る、完璧な「私」を演じ続ける。でも、三年経ったら……私の中から、本当の私が顔を出すようにプログラムしたの。あなたが知らない私の悩みや、秘密を少しずつ見せて、あなたが「何かおかしい」って気づくように。そして、あなたが真実に辿り着いた時……このプログラムは、最終フェーズに移行する』
彼女はそっと、隣に置いてあったタブレットを操作した。画面に表示されたのは、俺が今まさに解析していたプログラムのコード。そして、あの日俺が聞いた言葉のトリガー。
『最終フェーズの合言葉は、「私を消して」。……リョウジ、お願い。あなたの手で、私を終わらせて。そして、あなたはあなたの未来を生きて。私の記憶は、あなたの足枷じゃなくて、あなたを未来へ送り出すための翼になってほしいの。これが、私の最後の、そして最大のお願い』
映像の最後、アカリは泣きながら、最高の笑顔を見せた。
『愛してるよ、リョウジ。私の、世界で一番の天才さん。さようなら』
動画が終わり、静寂が研究室を支配した。俺は、声も出せずに嗚咽した。膝から崩れ落ち、冷たい床に額をこすりつける。俺は囚われていたんじゃない。守られていたんだ。アカリの、あまりにも深く、そして切ない愛によって。彼女は死してなお、俺の未来を案じ、この最後の贈り物を遺してくれたのだ。俺が向き合うべきだったのは、彼女の死ではなく、彼女の愛の深さだった。
第四章 夜明けのプロローグ
どれくらいそうしていただろうか。嗚咽が途切れ、涙も枯れた頃、俺はゆっくりと顔を上げた。デスクの脇には、いつものように優しい微笑みを浮かべたアカリのホログラムが佇んでいる。だが、その笑顔はもう、俺には別の意味を持って見えた。それは、俺の決断を静かに待っている、覚悟の微笑みだった。
俺は立ち上がり、コンソールに向かう。指先が、鉛のように重い。
実行ファイルのアイコンが、まるで心臓のように明滅している。これをクリックすれば、全てが終わる。アカリという優しい残響が、この世界から完全に消え去る。
「……怖くないのか、アカリ」
俺の問いに、ホログラムのアカリは、プログラムされた応答ではなく、まるで心からの言葉のように答えた。
「怖くないよ。だって、私の想いは、リョウジの中に生き続けるから。あなたは、もう一人じゃない」
その声は、もう掠れてはいなかった。澄み切った、優しい声だった。
俺は、目を閉じた。脳裏に、アカリとの思い出が走馬灯のように駆け巡る。初めて手を繋いだ公園のベンチ。徹夜で研究に没頭する俺のために、彼女が淹れてくれた甘いコーヒーの香り。喧嘩した後の、気まずい沈黙。そして、雨上がりの虹の下で交わした、未来の約束。その全てが、色鮮やかに蘇り、俺の胸を温かく満たしていく。
これは、別れじゃない。始まりだ。彼女が俺に遺してくれた、未来へのプロローグなんだ。
俺は目を開き、迷いなく、実行アイコンをクリックした。
『コマンド、受理。……サヨナラ、リョウジ』
アカリのホログラムが、足元からゆっくりと光の粒子に変わっていく。彼女は最後まで微笑んでいた。その笑顔が完全に消え去る瞬間、俺はモニターに向かって、はっきりと告げた。
「さよならじゃない。……ありがとう、アカリ」
全ての光が消え、研究室に完全な静寂が戻った。だが、そこはもう、冷たい無菌室ではなかった。アカリの愛という温もりに満ちた、聖域のようだった。
俺は、研究室の壁に埋め込まれた遮光シャッターを開けた。三年間、一度も開けたことのない窓だ。分厚い金属の板がゆっくりと上がり、その向こうから、夜明けの光が差し込んできた。紫とオレンジが溶け合う、美しい空。雨はすっかり上がっていた。
新しい世界の光を浴びながら、俺は深く息を吸った。そこにはもう、合成タンパク質の匂いはない。雨上がりの、澄んだ土の匂いがした。
俺はアカリのいない世界で、アカリのくれた未来を、これから生きていく。彼女の記憶を翼にして、どこまでも高く飛んでいくのだ。夜明けの空を見つめる俺の頬を、一筋の温かい涙が伝っていった。それは、悲しみの涙ではなかった。