「ご自身の記憶でお間違いないですね? コード734、被験者リョウ・サイトウ。幼少期、父親との遊園地での一日。推定評価額、10万クレジット」
無機質な合成音声が、くたびれた診察室に響く。俺、リョウは、ニューロ・インターフェースが繋がれたヘッドギアの冷たさを感じながら、こくりと頷いた。借金返済には、これっぽっちじゃ足りない。だが、無いよりはマシだ。
「……それで頼む」
父親の顔なんて、もうろくに覚えていない。そんなガラクタみたいな思い出に、10万の値がついただけでも儲けものだ。軽い目眩とともに記憶抽出が完了すると、俺の頭の中から、確かに何かがすっぽりと抜け落ちた感覚がした。代わりに、冷たいクレジットチップが手のひらに乗せられる。これが2077年の東京。魂の一部だって、切り売りできる時代だ。
取引所を出た直後、異変は起きた。路地裏のネオンが明滅する中、黒いスーツを着た男たちが無言で俺を取り囲んだのだ。その目には、獲物を狩る捕食者の光が宿っていた。
「リョウ・サイトウだな。大人しく来てもらう」
「何のようだ!」
咄嗟に走り出す。背後からエネルギー弾が空気を焼き、壁に焦げ跡を作った。冗談じゃない、ただ記憶を売っただけだ。なぜこんなことに?
雑踏に紛れ込もうとした瞬間、腕を強く引かれた。細身の女だった。
「こっち!」
彼女は俺を強引に地下鉄のメンテナンス用通路へと引きずり込んだ。
「あんた、一体何を売ったの?」
息を切らしながら問いかける女に、俺は正直に答えた。
「ガキの頃の、親父との遊園地の記憶だ。価値なんてないはずだ」
「アキラだ」と名乗った彼女は、信じられないという顔で俺を見た。「ありえない。奴らが動くなんて……。あんたの記憶には、何か特別なものが隠されてる」。
アキラはレジスタンスの一員だった。世界最大の巨大企業「メモリー・バンク」が、記憶売買を通じて人々の思考を巧みに誘導し、社会を支配していること。そして、彼らは都合の悪い記憶を徹底的に消去している、と。
「俺の親父は、ただのしがないサラリーマンだったはずだ……」
「本当にそうかしら? メモリー・バンクは完璧よ。記憶を消すだけじゃない。偽の記憶を植え付けることだってできる」
アキラの言葉が、俺の中で眠っていた疑念を呼び覚ます。そうだ、あの取引、何かがおかしかった。ガラクタのはずの記憶に、なぜ即金で10万もの値がついた?
俺たちは、真実を確かめるためにメモリー・バンクの本社ビルへ潜入することを決意した。アキラがハッキングで作り出した偽のIDを使い、厳重なセキュリティを突破していく。目指すは最上階のデータ保管庫、サーバー・コアだ。
レーザーグリッドをかいくぐり、巡回ドローンをやり過ごし、俺たちはついにサーバー・コアにたどり着いた。白く輝く巨大な球体が、無数の光ファイバーに繋がれ、静かに脈動している。そこには、人類から買い取られた膨大な記憶が眠っていた。
「あった! コード734!」
アキラが叫ぶ。俺は震える手でコンソールを操作し、自分の記憶データを再生した。
モニターに映し出されたのは、色褪せた遊園地の光景だった。幼い俺の手を引く、見知らぬ男。これが、俺の父親? メリーゴーラウンドに乗り、楽しそうに笑っている。そのBGMが、やけに耳に残った。ありふれた、チープな電子音のメロディだ。
「……待て」俺は映像を止めた。「この音楽、何か変だ」
アキラが音声データを解析にかける。すると、単純なメロディの裏に、複雑な構造のデジタルノイズが隠されていることが判明した。それは、ただのノイズではなかった。暗号化された、膨大なデータパッケージ。
「これは……!」アキラが息を呑む。「メモリー・バンクの全システムを停止させる、マスターキーよ!」
全てを理解した。俺の父親はしがないサラリーマンなどではなかった。彼はメモリー・バンクの創設に関わった天才科学者で、自らが作り出した技術が悪用される未来を予見していたのだ。そして、誰にも気づかれないよう、システムの心臓部を破壊する鍵を、最も安全な場所―――息子の、何気ない思い出の中に隠した。追っ手は、それに気づいたバンクの特殊部隊だったのだ。
その瞬間、背後で警報が鳴り響き、武装した警備兵たちが突入してきた。
「リョウ、早く!」
アキラが叫ぶ。俺は迷わなかった。父親が未来に託した希望。それを無駄にはできない。俺は震える指で、マスターキーの起動コマンドを打ち込んだ。
エンターキーを押す。
世界から、音が消えた。サーバー・コアの脈動が止まり、ビルの照明が落ちる。静寂の中、警備兵たちが呆然と立ち尽くしていた。彼らの頭の中にある命令の記憶が、消え去ったのだ。
ビルを出ると、東京の街は奇妙な静けさに包まれていた。人々は立ち止まり、空を見上げている。偽りの平穏、植え付けられた欲望、作られた憎しみ。それらが一斉に消え、空白になった頭で、彼らは本当の自分を取り戻そうとしていた。
「世界は、変わるわね」アキラが隣で呟く。
「ああ」俺は頷いた。「俺たちが、変えたんだ」
失われたはずの父親の温かい手の感触が、なぜか少しだけ蘇った気がした。俺はもう、何もない空っぽの人間じゃない。俺は、世界の記憶を解放した男だ。これから始まる混沌も、未来への責任も、全て引き受けてやる。俺はアキラと共に、夜明け前の街へと、力強く一歩を踏み出した。
忘却のメリーゴーラウンド
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