コーディネート・キューブ

コーディネート・キューブ

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古物商のケントが、その奇妙な金属塊を見つけたのは、埃っぽい骨董市の片隅だった。一辺が10センチほどの、継ぎ目のない滑らかな立方体。鈍い銀色で、手に取るとずっしりと重く、なぜか石鹸のようにほんのりと温かい。値札には「文鎮?」とだけ書かれていた。店主も由来を知らないらしい。ケントは得体の知れないガラクタに惹かれる性質で、二束三文でそれを買い取った。

その夜、事件は起きた。ガラクタが山積みの自室で、例の立方体が淡い青色の光を放ち始めたのだ。驚いて見つめるケントの前で、光は収束し、部屋の真ん中に立体的な映像――ホログラムを投影した。

そこに映し出されたのは、息を呑むような未来都市だった。空には無数のエアカーが川の流れのように行き交い、天を突く超高層ビルは虹色の光ファイバーで編まれたレースのようだった。音声はなかったが、ケントは毎日、その無音の映画に夢中になった。それは、退屈な日常に開いた、未来への窓だった。

一週間が過ぎた頃、ホログラムに変化が起きた。いつもの風景ではなく、切羽詰まった表情の女性が映し出されたのだ。美しい顔立ちだったが、その瞳には焦りの色が浮かんでいる。彼女は必死に何かを訴えかけているようだったが、やはり音声はない。

その日から、ケントの周りで奇妙なことが起こり始めた。アパートの前に見慣れない黒いセダンが停まっている。コンビニに行けば、いつも同じ黒いスーツの男が無表情にこちらを見ている。監視されている――その確信が、ケントの背筋を冷たくした。

恐怖に駆られたケントは、最後の手段に出た。スマートフォンのAIアプリに、女性のホログラム映像を読み込ませ、読唇術による解析を試みたのだ。数時間の処理の後、画面に震えるような文字が浮かび上がった。

『聞こえる?お願い、信じて。それは「座標固定装置」。時空の錨(いかり)よ。今すぐそれを破壊して。でないと、彼らがあなたの『現在地』を特定してしまう!』

メッセージを理解した瞬間、玄関のドアが壊れんばかりに激しく叩かれた。ドンドンドン!という金属的な音と共に、男たちの怒声が響く。
「時間保安局だ! 対象物の所有者、ただちにドアを開けろ!」

彼ら……!

ケントの心臓が跳ね上がった。立方体は、未来から来た誰かがこの時代に逃げ込むために設置した、時空のアンカーだったのだ。そしてホログラムの女性は、それを追う捜査官か、あるいは…。

思考する暇はなかった。ドアに亀裂が入り、特殊な工具でロックが破壊されようとしている。絶体絶命。

ケントは窓に駆け寄った。アパートは三階だ。彼は一瞬ためらい、そして意を決して腕を振りかぶった。

「悪いな、未来人さん!」

立方体を、夜の闇に向かって全力で投げつけた。銀色の塊は放物線を描き、アスファルトに叩きつけられて甲高い音と共に砕け散った。同時に、部屋のホログラムがノイズを発して掻き消える。

次の瞬間、ドアが蹴破られ、黒いタクティカルスーツに身を包んだ男たちがなだれ込んできた。しかし、彼らは部屋に何もないことと、窓が開け放たれていることを見て、リーダー格の男が腕の端末を睨みつけながら忌々しげに舌打ちした。

「座標ロスト……。逃げられたか」

男は一度だけケントを睨みつけると、「余計なことを」と吐き捨て、部下たちと共に風のように去っていった。

嵐が過ぎ去った部屋で、ケントは呆然と立ち尽くしていた。やがて彼は、窓の外を見下ろした。砕けた立方体の破片はどこにも見当たらず、まるで全てが夢だったかのようだ。

日常が戻ってきた。相変わらずガラクタに埋もれた部屋と、退屈な古物商の仕事。だが、ケントにとって世界はもう同じではなかった。この空の向こう、時間の彼方には、自分の知らない壮大な物語が続いている。

彼は夜空を見上げ、小さく笑った。ほんの数日間だけの、奇妙で刺激的な冒険。ケントは、自分の集めるガラクタが、以前よりもずっと愛おしく思えるようになっていた。

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