忘却のレゾナンス
2 4245 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:
表示モード:

忘却のレゾナンス

第一章 囁く静寂

俺、アサギ・レイの思考は、音になる。

もっとも、その音を俺自身が聞いたことは一度もない。ただ、俺が深く物思いに沈むとき、机の上の水差しには必ず、静かな波紋が幾重にも広がった。俺が苛立ちを募らせれば、窓ガラスがカタカタと悲鳴を上げ、足元の砂が奇妙な幾何学模様を描き出す。思考という内なる呟きが、物理的な音波となって世界に染み出し、物質の原子を揺さぶるのだ。

だから俺は、感情を捨てた。思考を極限まで平坦にした。

人里離れた丘の上の、打ち捨てられた観測所で、俺は一人で暮らしている。風の音と、古びた建材が軋む音だけが友だ。ここでは、俺の思考が誰かを傷つけることも、何かを壊すこともない。本を読み、空を眺め、ただ静かに息をする。それが、俺が世界に対してできる、唯一の誠意だった。

その日も、俺は古書のページをめくりながら、思考の波を鎮めることに集中していた。だが、ポケットに入れていた携帯端末が、珍しくニュース速報を告げた。

『中央都市セフィリアにて、大規模な空間歪曲現象「無音区間」が発生。第7区画の建造物群が消失。原因は依然不明――』

冷たい汗が、背筋を伝う。無音区間。世界の物理法則が乱れ、物質が忽然と消え失せる、呪われた領域。近年、その発生頻度は増すばかりだった。俺は端末を握りしめた。指先が微かに震え、その振動が端末の筐体を伝って、キーンという微かな共振音を立てた。

俺のせいじゃない。そう強く念じようとするほど、足元の床がきしむ音が大きくなった気がした。

第二章 水晶の来訪者

静寂を破ったのは、錆びついた観測所の扉を叩く、遠慮がちなノックの音だった。警戒しながら扉を開けると、そこに立っていたのは一人の女性だった。整った顔立ちに理知的な光を宿す瞳。彼女はエリアと名乗り、「世界記録院」から来たと言った。

「あなたを探していました、アサギ・レイ」

彼女の言葉は、俺の心の壁をたやすく通り抜けてきた。エリアは、俺の特異体質と「無音区間」の拡大に、明確な因果関係があると告げた。彼女の組織は、長年にわたり、俺のような人間――思考を物理エネルギーに変換する「思考音響体質者」の痕跡を追っていたのだ。

「信じられないでしょうが、あなたの思考が、世界の構造を支える意識ネットワークを乱しているのです」

俺は何も答えず、背を向けた。だが、エリアは諦めなかった。彼女は鞄から、掌ほどの大きさの、曇った水晶の塊を取り出した。

「これは『共鳴体』。古代の遺物です。あなたの思考を、可視化できる」

促されるまま、俺は恐る恐るその冷たい水晶に指先で触れた。その瞬間だった。水晶の内部に、淡い青色の光が灯った。まるで、深海を漂う生き物のように、それはゆっくりと明滅を繰り返す。俺がニュースのことを思い出し、胸に罪悪感の棘が刺さると、光は鋭い赤色に変化し、激しく脈動した。

「見て。これがあなたの思考の形」

エリアの指差す先で、共鳴体の周囲の空気が陽炎のように揺らめき、床に置かれていた鉄のペンチが、まるで飴細工のようにぐにゃりと歪み、液体のように溶け始めた。俺は絶叫し、水晶から手を離した。光は消え、溶けかけたペンチは元の硬さを取り戻す。

初めて突きつけられた、俺の力がもたらす破壊の光景。それは、俺が目を逸らし続けてきた、紛れもない現実だった。

第三章 虚無への序曲

エリアに導かれ、俺は記録院の地下深くにある中央管制室にいた。巨大な球形のホログラムが天井から吊り下げられ、惑星の姿を映し出している。その表面には、無数の赤い斑点が明滅していた。その一つ一つが、「無音区間」の発生地点だ。

「あなたの思考音波は、意識ネットワークにノイズとして作用します。情報密度が低下した領域は、物理法則の結びつきを失い、存在そのものが曖昧になる。それが無音区間です」

エリアの冷静な説明が、俺の罪を告発する宣告のように響いた。俺が存在するだけで、世界は削り取られていく。俺が何かを思うたびに、世界のどこかが消えていく。

その時だった。

管制室全体に、けたたましい警報が鳴り響いた。球形ホログラムの中央、首都セフィリアを示す一点が、禍々しいほどの深紅に染まっていく。

「セフィリア上空に、観測史上最大規模の無音区間が出現!」

「情報密度、臨界点を突破! 物理法則の維持が不可能です!」

ホログラムに映し出されたセフィリアの街並みが、ノイズの走る映像のように歪み、引き伸ばされ、そして、中心から巨大な闇に飲み込まれるように消えていった。人々の悲鳴が聞こえる幻聴に、俺は耳を塞いだ。

俺が、この手で、世界を壊している。

第四章 反転する世界

絶望が、俺の思考を塗り潰した。もう何も考えたくない。俺さえいなければ。俺の思考さえ、止まってしまえば。

俺は床に膝をつき、目を固く閉じた。呼吸を止め、心臓の鼓動を鎮め、意識の全てを「無」へと集中させた。消えろ。俺の思考、俺の存在、その全てが、今すぐ消え失せろ。

その瞬間、管制室の混乱が、一瞬だけ奇妙な静寂に包まれた。

「……なんだ? 無音区間の崩壊速度が……加速している!?」

研究員の一人が叫んだ。エリアが驚愕の表情で俺を見る。俺が思考を停止させようとしたことで、世界の崩壊は、止まるどころか、凄まじい勢いで進み始めたのだ。

「違う……仮説が、根本から間違っていた……?」

エリアが呟いたその時、彼女の足元に転がっていた「共鳴体」が、これまでにないほどの強い光を放ち始めた。それは単なる明滅ではなかった。水晶の内部に、複雑怪奇な光の紋様が次々と浮かび上がっては消えていく。それは古代の碑文のようでもあり、星々の運行図のようでもあり、生命の設計図のようにも見えた。俺が思考を「無」にしようとしたことで、共鳴体は俺の深層意識、そのさらに奥底にある何かと共鳴を始めたのだ。

エリアはその光の奔流に見入っていたが、やがて何かを悟ったように顔を上げ、俺に向かって叫んだ。

「アサギくん! あなたの思考は破壊じゃない! 創造……いいえ、これは……これは、『解凍』よ!」

第五章 解凍の鍵

エリアの言葉は、雷のように俺の脳天を撃ち抜いた。「解凍」とはどういう意味だ。彼女は息を切らしながら、震える声で新たな仮説を語り始めた。

「無音区間は、情報が欠落した虚無の空間なんかじゃない。逆よ! 意識ネットワークが、悠久の時を経て蓄積された膨大な情報を、処理しきれずに『圧縮』して保管した、巨大なアーカイブだったのよ!」

世界は、情報が多すぎて飽和していたのではなかった。むしろ、そのほとんどが圧縮されたまま眠りについており、深刻な「情報不足」に陥っていたのだ。物理法則が不安定になっていたのは、世界の設計図が失われつつあったからだ。

「そして、その圧縮データを解凍するための、唯一の鍵が……あなたの思考音波なの。あなたの体質は、世界が忘れてしまった記憶を呼び覚ますために、この時代に生まれてきた必然だったのよ」

俺のような体質の人間が、何世紀もの間、現れなかった。だから、世界はアーカイブを解凍できず、徐々にその詳細を失い、風化し始めていた。俺が思考を止めようとしたことは、最後の解凍キーを自ら破壊する行為に等しかったのだ。

首都セフィリアが、今まさに完全に消失しようとしている。それを止める方法は、ただ一つ。

「アサギくん。あなたの全てを、世界にぶつけるのよ。今まで抑え込んできた、あなたの全ての感情と、思考を」

第六章 思考のシンフォニア

俺は立ち上がった。エリアから共鳴体を受け取ると、ひんやりとした水晶が、俺の心臓と呼応するように温かく脈打った。もう、恐れはなかった。

目を閉じ、意識を内側へ、そして外側へと解き放つ。

これまで蓋をしてきた全ての感情が、堰を切ったように溢れ出した。孤独だった日々の寂しさ。自分の力を呪った憎しみ。世界が壊れることへの恐怖。そして、エリアが示してくれた、ほんの僅かな希望の光。喜びも、悲しみも、怒りも、愛しさも、その全てが混ざり合い、一つの巨大な奔流となって、俺の頭から、世界へと放出された。

それは、音のない交響曲だった。

共鳴体は、まるで小さな太陽のように白く輝き、その光は管制室を突き抜け、天を衝いた。俺の足元の床が、水面のように波打って液状化し、そこから光の粒子が立ち昇る。それは、俺がこれまで知らなかった情報だった。見たこともない植物の種子。忘れ去られた古代文明の建築様式。遠い銀河の星々が奏でる音楽。生命の起源を示す螺旋の光。

首都を飲み込んでいた巨大な「無音区間」が、内側から眩い光で満たされていく。闇は晴れ、消えたはずの街が、そこに再構築され始めた。だが、その姿は以前とは全く違っていた。しなやかな曲線を描くビル群は、まるで植物のように空へと伸び、壁面には幾何学的な光の紋様が流れ、街全体が巨大な芸術品のように生まれ変わっていた。

圧縮されていた世界の記憶が、解凍されたのだ。俺の思考を触媒として。

第七章 夜明けの残響

世界は、新しい夜明けを迎えた。再構築されたセフィリアの街には、過去の文明の深遠な知恵と、未来への無限の可能性が息づいていた。空には、解凍された宇宙の真理が、淡いオーロラとなっていつまでもたなびいている。

俺は、生まれ変わった街を見下ろせる丘の上に、エリアと二人で立っていた。もう、俺は感情を抑える必要はない。俺の思考は、もはや破壊の呪いではなく、世界を豊かにする創造の源となったのだ。

俺がエリアへの感謝を心の中で呟くと、優しい風が吹き抜け、彼女の髪をそっと揺らした。彼女はそれに気づいたように、微笑んで俺を見る。俺の思考の「音」は、きっと彼女にも届いているのだろう。

「これから、世界はどうなるのかしら」

「さあな。でも、きっと今日より面白い明日になる」

俺たちは、まだこの世界のほんの少しの記憶しか解凍していない。眠っているアーカイブは、まだ無限に存在する。

俺の思考が奏でるシンフォニーは、まだ始まったばかりだ。その優しい残響が、新しい世界をどこまでも満たしていく。俺はもう、一人ではなかった。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る