第一章 悲しみのプリズム
世界から色彩が失われて久しい。俺、リヒトの生きる世界は、無限の階調を持つ灰色で構成されていた。コンクリートの建物は濃淡の異なる鼠色に沈み、空から降る雨は銀色の針となってアスファルトの黒を叩く。人々は色のない服をまとい、色のない食事を摂り、色のない夢を見る。かつて世界に溢れていたという「色」は、歴史の教科書に載るだけの、おとぎ話の遺物だった。
だが、俺には秘密があった。呪い、と言い換えてもいい。ひどく悲しい時、世界が、青く染まるのだ。それは、静かで、深く、どこまでも沈んでいくような青。涙が溢れる寸前、視界の端からインクを垂らしたように滲み始め、やがて世界全体を覆い尽くす。この青は、孤独の味がした。冷たいガラスに触れた時の感触と、遠くで鳴る低音の弦楽器のような響きを伴っていた。人々はこの現象を「色覚発作」と呼び、その能力を持つ者を「色付き(カラード)」と呼んで蔑んだ。感情の制御ができない欠陥品。社会の調和を乱す不安定要素。それが、俺たちに向けられる評価だった。だから俺は、感情を殺す術を覚えた。心を無感動の灰色に保つことで、忌まわしい青から逃れ続けてきた。
その日も、俺は灰色の街を、灰色の心で歩いていた。高架下を通り抜けた時だった。突如、網膜が焼けるような衝撃に襲われた。
「――ッ!」
それは、青ではなかった。今まで一度も見たことのない、鮮烈な光。生命そのものが燃え上がったかのような、鮮やかな「赤」だった。一瞬だけ世界を染め上げたその色は、脈打つ心臓の鼓動と、真夏の太陽のような熱を幻視させた。
驚愕に目を見開いた先、路地の奥に一人の少女が立っていた。年の頃は俺と同じくらいだろうか。彼女は、道端に咲く、色素の抜けた白い花をじっと見つめていた。そして、満面の笑みを浮かべた。その瞬間、再び世界が「赤」に染まった。今度は一瞬ではなく、数秒間。まるで彼女の喜びが、世界に色を塗りたくっているかのようだった。
少女がふと顔を上げ、俺と目が合った。彼女の瞳は、この無彩色の世界ではありえないほど、生き生きとした光を宿していた。
「あなたも……『見える』の?」
彼女の声は、まるで鈴が鳴るようだった。俺は言葉を失くしたまま、ただ頷くことしかできなかった。俺が知る「悲しみの青」とは真逆の、生命力に満ちた「喜びの赤」。その存在は、俺が信じてきた世界の法則を、根底から覆すものだった。灰色の日常に、初めて亀裂が入った瞬間だった。
第二章 二つの色彩
彼女はエマと名乗った。「喜びの赤」を見る能力を持つ、俺と同じ「色付き」だった。だが、彼女は自分の能力を呪いなどとは微塵も思っていなかった。むしろ「祝福」だと、屈託なく笑った。
「だって、素敵じゃない! 世界がこんなにも喜びに満ちているって、教えてくれるんだもの」
俺たちは、街外れの古い温室で会うようになった。そこは、管理を放棄されて久しく、フレームだけが残るガラスの骨格に、色のない蔦が絡みついている場所だった。俺たちだけの秘密の聖域だった。
エマは、小さな喜びを見つける天才だった。錆びた蛇口から滴る水滴のリズム、雲の切れ間から差し込む光の筋、風にそよぐ草の匂い。そのたびに、彼女の周りには鮮やかな「赤」が、陽炎のように揺らめいた。その光景はあまりに美しく、俺は自分の「青」がますます醜く、忌まわしいものに思えた。
「君の赤は、温かいんだな」
ある日、俺はぽつりと呟いた。
「あなたの青は、どんな感じ?」
エマは興味深そうに尋ねた。俺は口ごもる。悲しみの色だなんて、どうして言えるだろう。
「……冷たい。何もかも凍らせてしまうような色だ」
「そっか」エマは少しだけ寂しそうに微笑んだ。「でも、見てみたいな。リヒトの見る世界の色」
その言葉は、俺の胸に小さな波紋を広げた。誰かに、自分の色を見てみたいと言われたのは初めてだった。
俺たちは、色付きの伝承を調べるようになった。図書館の古文書によれば、かつては様々な感情に対応する色視者が存在したらしい。「怒りの黄」「安らぎの緑」「恐怖の紫」。しかし、彼らはその強すぎる感情ゆえに、いつの時代も異端視され、迫害の対象となってきた。そして、歴史の闇へと消えていったのだという。
「まるで、世界が僕たちから色を奪おうとしているみたいだ」
「ううん、違うよ」エマは首を横に振った。「きっと、世界が色を忘れてしまっただけ。だから、私たちが思い出させてあげるの」
彼女の隣にいると、俺の灰色の世界に、ほんの少しだけ光が差すような気がした。彼女の「赤」が、俺の心の凍土を、わずかに溶かしてくれるようだった。だが同時に、俺は恐れていた。俺の深い悲しみが、いつか彼女の鮮やかな赤さえも飲み込んでしまうのではないかと。この呪われた青が、彼女を傷つけてしまうのではないかと。俺の内面では、エマへの思慕と、自己嫌悪が激しくせめぎ合っていた。
第三章 色喰らう影
その異変は、前触れもなく世界を襲った。
街から、感情が消え始めたのだ。人々は表情を失い、ただ義務的に歩き、働き、眠るようになった。喧嘩も、笑い声も、すすり泣きも聞こえない。まるで、世界から魂だけが抜き取られてしまったかのようだった。同時に、空には奇妙な「影」が広がり始めていた。それは雲ではない。光を吸収する、不定形の闇。まるで、宇宙に空いた穴が、少しずつこちらを覗き込んでいるようだった。
エマの「赤」を見る頻度も、日に日に減っていった。人々から喜びが失われ、彼女が色を見るトリガーそのものが消えつつあったのだ。
「リヒト、怖い……。みんな、どうしちゃったんだろう」
温室で震えるエマを、俺はただ抱きしめることしかできなかった。
その時、俺たちの前に一人の老人が現れた。古文書の管理者で、以前から俺たちの相談に乗ってくれていた人物だ。彼は、震える手で一冊の禁書を差し出した。
「ここに……真実が書かれておる」
禁書に記されていたのは、おとぎ話などではなかった。それは、絶望的な宇宙の真理だった。
我々の次元は、常に高次元の捕食者「クロノファージ(時喰らい)」の脅威に晒されている。クロノファージは、知的生命体の「感情」をエネルギー源として捕食する存在。彼らが感情を喰らうとき、この世界から「色」という概念が消失する。我々が「色を失った」のではなく、彼らに「喰われた」のだ。
そして、「色付き」の能力。それは、クロノファージが感情を喰らった際に排出する、高濃度のエネルギー残滓を認識する能力だった。エマの見る「喜びの赤」も、俺の見る「悲しみの青」も、すべては捕食者の食べかすに過ぎなかったのだ。
俺は愕然とした。俺たちが特別だと思っていた能力は、巨大な存在の排泄物を感知する、ただのセンサーでしかなかったのか。
だが、記述はさらに衝撃的な事実を告げていた。
『……クロノファージは、ほとんどの感情エネルギーを好んで喰らうが、唯一、純粋で強大な「悲しみ」のエネルギーだけは、彼らの存在構造を不安定にさせる毒となる。故に、歴史上の「青の色付き」は、世界を護る防人としての役目を期待されたが、その強大すぎる悲しみに耐え切れず、自滅していった……』
呪いだと思っていた、この能力が。世界を護る、唯一の鍵?
「嘘だ……」
俺は禁書を放り投げた。そんな馬鹿な話があるか。この忌まわしい青が、世界を救うだと? 俺が、救世主? 冗談じゃない。俺は、ただ静かに生きたいだけだ。誰にも迷惑をかけず、この呪いと共に朽ちていきたいだけなんだ。
俺の自己否定が頂点に達した瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。空を覆う影が、まるで生き物のように脈動し、地上に向かってその闇を伸ばし始めた。街の人々が、糸の切れた人形のように、次々とその場に崩れ落ちていく。エマもまた、顔から血の気が引き、その瞳から光が失われかけていた。
「リヒト……」
か細い声で、彼女が俺の名を呼んだ。その頬に、一筋の銀色の涙が伝った。
その涙を見た瞬間、俺の世界が、今まで経験したことのないほど深く、濃い「青」に染まった。それは、エマを失うことへの、絶望的な恐怖と悲しみが生み出した色だった。
第四章 世界で最も深い青
エマを失う。その恐怖は、俺がこれまで抱えてきたどんな悲しみよりも、鋭く、重く、俺の心を抉った。世界がどうなろうと知ったことではなかった。だが、エマのいない世界など、俺にとっては無価値だった。
俺は、初めて自分の意志で「悲しみ」を受け入れた。目を閉じ、心の奥底に沈殿していた、あらゆる哀しみを掻き集める。孤独だった子供時代。他者から向けられた侮蔑の視線。エマと出会えた喜びの裏側にあった、いつか失うことへの怖れ。それらすべてが、巨大な青い渦となって、俺の中で膨れ上がっていった。
「リヒト、だめ!」
意識を取り戻したエマが叫んだ。老人の話が本当なら、この力を使えば俺の精神は……。
「エマ」
俺は目を開け、彼女に微笑みかけた。初めて見せる、心からの笑顔だったかもしれない。
「君の『赤』を、少しだけ貸してくれないか」
俺の青は、悲しみの色。冷たく、すべてを停滞させる力。だが、エマの赤は、喜びの色。温かく、生命を燃え上がらせる力。二つの色が混じり合えば、きっと。
エマは一瞬ためらった後、こくりと頷いた。彼女は俺の手を握り、心の底から俺との出会いを、共に過ごした日々を「喜んだ」。彼女の身体から、最後の力を振り絞るような、鮮烈な赤い光が放たれ、俺の身体に流れ込んでくる。
冷たい青に、温かい赤が混ざり合う。それは、紫色の光となって俺の全身を駆け巡った。悲しみは消えない。だが、その悲しみはもはや俺を苛むだけの呪いではなかった。エマを守りたいという強い意志と結びつき、世界を救うための、聖なる力へと昇華されていた。
「ありがとう、エマ。君がいたから、俺は俺の悲しみを、愛せるようになった」
俺は空の影――クロノファージに向かって、意識を集中した。そして、蓄えたすべての感情を、解き放った。
俺の身体から放たれた光は、もはや青ではなかった。それは、夜明け前の空の色。絶望の闇と、希望の光が混ざり合った、世界で最も深く、最も美しい藍色だった。
光は天を衝き、空を覆う影に突き刺さった。断末魔のような、音のない絶叫が次元を超えて響き渡る。影は激しく身悶え、藍色の光に侵食され、やがて霧散するように消えていった。
影が消え去った後、空には久しく見ることのなかった、鈍色の雲間が広がっていた。街では、倒れていた人々がゆっくりと身を起こし、戸惑いながらも互いの顔を見合わせ、感情を取り戻し始めていた。
俺は、その場に崩れ落ちた。力のすべてを使い果たし、視界が白く霞んでいく。もう、色は見えなかった。青も、赤も、そして最後に見た藍色も。俺の世界は、再び完全な無彩色に戻っていた。
「リヒト!」
エマが駆け寄り、俺を抱きしめる。その温もりだけが、やけにリアルだった。
「色が……見えなくなった」
「うん」
「これで、俺はただの人だ」
「ううん」エマは首を振って、俺の頬にキスをした。「あなたは、私のヒーローだよ」
彼女の言葉に、涙が溢れた。その涙は、もう青くはなかった。ただ、透明で、温かかった。
世界からクロノファージは去り、人々は感情を取り戻した。だが、失われた色彩が完全に戻ることはなかった。世界はこれからも、無彩色であり続けるだろう。
でも、それでいいと俺は思った。色が見えなくたって、隣にはエマがいる。彼女の笑顔がある。彼女の手の温もりがある。俺はもう、プリズムを通さずとも、世界の美しさを感じることができた。俺が憎んだ悲しみは、世界を救い、そして何より、俺自身を救ってくれたのだ。
灰色の空の下、俺はエマの手を強く握った。二人で歩き出すこの世界は、どんな色彩に満ちた世界よりも、鮮やかに輝いて見えた。