観測者のレクイエム
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観測者のレクイエム

第一章 霞む世界の輪郭

思考が色を帯び、オーラとして人の輪郭を縁取るこの世界で、僕はひどく無口な男だった。僕の思考は常に霞がかっている。それは、考えないようにしているからだ。僕が自分の存在を強く意識すると、世界が軋む。

例えば、今。カフェのテラス席で、湯気の立つコーヒーカップが手から滑り落ちていく。スローモーションのような光景の中、僕は強く念じた。「俺は、ここにいる」。指先と陶器の間に、目に見えない粘性が生まれる。カップは空中でぴたりと静止し、僕はそれをそっと掴み直した。だが代償は大きい。僕の意識が世界に干渉した反動で、世界の側が僕を忘れるのだ。ウェイトレスが僕の空のカップに気づかず通り過ぎる。まるで僕が初めからそこにいないかのように。存在の天秤が、僕と世界の間で常に揺れている。

近頃、街の色彩は急速にその彩度を失っていた。かつて人々の頭上を漂っていた希望の金色、愛情の淡い桃色、探求心の青い光は鳴りを潜め、代わりに現れたのは"空虚"と呼ばれる漆黒のオーラだった。それは光を放つのではなく、周囲の光を貪欲に吸い込む、存在のブラックホール。その黒いオーラを纏った人間は、生きた彫像のように動きを止め、その周囲の風景までもが、インクが水に滲むように輪郭を失っていく。建物が、街路樹が、まるで存在することを躊躇っているかのように、ゆらゆらと霞んで見える。

そんな色褪せた世界の中で、一つだけ鮮やかな場所があった。公園の片隅でイーゼルを立てる、一人の女性。彼女の名前はユナ。彼女の思考は、新緑のような瑞々しい緑と、焼けるような夕日の赤が混じり合った、力強いオーラとなって輝いていた。彼女がキャンバスに筆を走らせるたび、そのオーラは弾け、周囲の空気にまで色を移していくようだった。彼女だけが、この世界で失われつつある「意味」を繋ぎ止めようとしているように見えた。僕は、彼女の放つ光に引き寄せられる蝶のように、ただその姿を見つめていた。

第二章 黒の侵食

ユナのアトリエは、古い絵の具の匂いと、陽光の匂いがした。壁一面に掛けられたキャンバスには、人々が失くした思考の色が溢れていた。笑い声の黄色、涙の青、怒りの赤。彼女は、世界の記憶をここに保存しているかのようだった。

「みんな、考えるのをやめてしまったみたい」

ユナは窓の外、黒いオーラを纏って歩く人々の群れを見つめながら、ぽつりと呟いた。その横顔を縁取るオーラが、わずかに揺らぐ。

「情報が多すぎるのよ。何を選べばいいのか、何を信じればいいのか分からなくなって、結局、何も選ばないのが一番楽だって、みんな気づいちゃったの」

彼女の言葉は、世界の真理を突いていた。街の大型ビジョンは意味のない記号の羅列を流し続け、人々はスマホの画面から無限に流れ込むどうでもいいニュースに視線を落としている。思考は飽和し、停止した。その結果が、あの"空虚"だった。

その日、僕は崩れかけた歩道橋で、足を踏み外した子供を見た。子供の身体が宙に浮き、その小さな身体から恐怖の紫色のオーラが迸る。僕は躊躇わなかった。「俺が、ここにいる!」。僕の意識が重力に干渉し、子供の落下速度が羽毛のように緩やかになる。地面にそっと着地した子供は、何が起こったのか分からないまま、泣きながら母親のもとへ走っていった。

僕はその場に膝をついた。激しい目眩。そして、喪失感。頭の中で、大切な何かが砂のようにこぼれ落ちていく。ユナとアトリエで交わした会話の断片が、ノイズ混じりの映像のように掠れて消えていく。彼女の笑顔が、声が、遠くなる。能力を使うたびに、僕という人間の輪郭が、この世界から削り取られていく。僕は恐怖に震えた。このままでは、ユナのことさえ忘れてしまうかもしれない。

第三章 無色のキャンバス

最悪の予感は、最も残酷な形で現実となった。ユナのアトリエを訪れた僕の目に飛び込んできたのは、変わり果てた彼女の姿だった。あれほど鮮やかだった彼女のオーラは、今はただの漆黒に染まり、アトリエの隅で椅子に座ったまま、虚ろな目で宙を見つめている。彼女の周りでは、壁の絵の具が色を失い、灰色に変わっていく。世界の終わりが、僕の一番大切な場所から始まっていた。

「ユナ……?」

呼びかけても、返事はない。彼女の思考は、完全に停止してしまった。絶望が僕の心を凍らせる。僕が守りたかった光が、目の前で消えた。

その時、アトリエの奥に立てかけられた一枚のキャンバスが、僕の注意を引いた。それは、何も描かれていない、ただ真っ白なキャンバス。だが、他とは明らかに違った。ユナの"空虚"のオーラがアトリエ全体を侵食しているというのに、そのキャンバスだけは少しも黒に染まらず、凛とした純白を保っている。まるで、この世界のいかなる法則も受け付けないかのように。

僕は、キャンバスの裏に挟まれていたユナのメモを見つけた。震える指で開く。

『これは無色のキャンバス。どんな思考にも染まらない。でも、たった一つの、純粋な"意志"だけを写し取ると言われている。世界の始まり、思考の原点を写す鏡。もし、この世界から色が消えてしまうなら、最後の希望は、ここから生まれるのかもしれない』

僕は悟った。情報や感情といった、混じり気のある思考ではない。ただ一つの、純粋な意志。このキャンバスは、それを具現化するための触媒なのだ。

そして、僕のこの忌まわしい能力の意味も。

世界が集団的に思考を放棄し、「無」へと向かう流れの中で、僕という存在は、世界が無意識に生み出した最後の抵抗だったのかもしれない。物理法則をねじ曲げる力は、世界に新たな「意味」や「意志」を刻み込むための、最後の切り札。だが、それを行使するには、僕自身の「存在」そのものを賭ける必要があった。

第四章 存在の証明

僕は無色のキャンバスを抱え、街の中央広場へと向かった。そこは、かつて様々な色のオーラが交差し、活気に満ちていた場所。今では、黒いオーラを纏った人々が静かに佇む、巨大な墓標のようだった。

キャンバスを広場の中心に立てる。僕の身体は、既に半分透けていた。足元のアスファルトが、自分の脚を透かして見える。存在が希薄になるにつれて、世界の音が遠のいていく。もう時間がない。

僕は目を閉じ、自分の存在を極限まで意識した。

初めて自分の能力に気づいた時の戸惑い。

誰にも認識されない孤独。

カフェのコーヒーの苦さ。

そして、ユナの笑顔。彼女のオーラの輝き。彼女と過ごした、色鮮やかな時間。

喜びも、悲しみも、怒りも、愛しさも。僕が「僕」として生きてきた、その全ての記憶と感情を、たった一つの想いへと収束させていく。

――存在したい。

それは、僕の、そしておそらくは、この世界が失いかけていた、最も根源的で純粋な願いだった。

僕は目を見開いた。キャンバスに向かって、力の全てを、存在の全てを解放する。

物理法則をねじ曲げるのではない。僕という「存在認識」そのものを、この無色のキャンバスに叩きつけるのだ。

「俺は、ここに、いる!」

声にならない叫びが、僕の内側で木霊した。

その瞬間、僕の身体は眩い光の粒子となり、風に溶けるように霧散した。僕という存在は、この物理世界から完全に消滅した。

だが、僕の最後の意志は、無色のキャンバスに確かに刻み込まれた。

キャンバスから放たれたのは、どんな色にも染まらない、純粋な「存在」の光。その光は巨大な波紋となって世界中に広がり、人々を包む漆黒のオーラを貫いた。

それは、命令でも強制でもない。ただの問いかけだった。「あなたも、ここにいるのだろう?」と。

凍てついていた人々の心に、小さな火が灯る。忘れていた感情が、記憶が、思考が、ゆっくりと蘇り始める。黒いオーラに亀裂が走り、内側から、微かな、しかし確かな色の光が漏れ出した。赤、青、黄、緑……。失われた色の洪水が、世界を再び満たしていく。

アトリエで、ユナがはっと目を覚ました。彼女のオーラは、再び新緑と夕日の色を取り戻している。彼女は窓の外、色を取り戻した街並みを見て、なぜか分からない涙を流した。何かとても大切なものを、今、永遠に失ってしまったような、胸を締め付ける切なさを感じながら。

世界は救われた。人々は再び語り、笑い、愛し、そして考えるようになった。

けれど、もう誰も僕のことを覚えてはいない。

僕は、名前も姿も持たない、世界を観測する「概念」となった。僕が放った「存在し続けたい」という強烈な願いは、皮肉にも僕自身の存在と引き換えに、この世界が存在し続けるための礎となったのだ。

永遠の孤独の中で、僕は見つめ続ける。

僕が愛した、この彩り豊かな世界を。

誰にも知られることなく、誰にも語られることなく。

それが、僕が存在した、唯一の証明だから。

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