星屑の揺りかごで眠る

星屑の揺りかごで眠る

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第一章 蝕まれた夢の海

夜が、都市のすべてを飲み込む時間だった。地上では、ネオンの光が人工のオーロラを描き、人々はそれぞれの生活の続きを演じているのだろう。だが、俺、レンの仕事場は、そんな喧騒とは無縁の静寂に満ちていた。精神感応ヘルメットの冷たい金属がこめかみに触れる。目の前には、無数のコードが蛇のようにうねり、巨大な中央処理装置へと繋がっている。ここは「集合的無意識」――通称「夢の海」へとダイブするための、最前線基地だ。

人類は百年前に、眠っている人間の脳から放出される精神エネルギー「ソムニウム」を、新たな資源として発見した。以来、我々の文明はこの甘美なエネルギーの上に成り立っている。そして俺たち「夢鉱夫(ソムニウム・マイナー)」は、そのエネルギー源を求めて、夜ごと他人の夢が混ざり合う混沌の海へと潜る。

「レン、深度三百に安定した鉱脈を確認。ただ、情動ノイズが強い。昨夜の新作ドラマの影響だろう。恋愛感情の奔流だ。気をつけて」

管制室からの同僚、ユイの声がヘッドセットに響く。彼女の声には、いつも通りの事務的な響きの中に、わずかな気遣いが滲んでいた。

「了解だ。甘ったるい夢はこりごりだがな」

俺は短く応じ、意識を集中させる。瞼を閉じると、視界は真っ暗な現実から、万華鏡のような色彩の渦へと切り替わった。これが夢の海だ。空にはマシュマロの雲が浮かび、地面からはチョコレートの川が流れている。誰かの幸福な夢の一場面だろう。だが、その隣では、締め切りに追われるサラリーマンの悪夢が、灰色のインクを撒き散らして風景を汚染している。ここは、数百万人の夢が混濁し、互いを侵食し合う、精神のヘドロの海だった。

かつては、この仕事に誇りを持っていた。未知の夢の風景に心を躍らせ、高純度のソムニウム鉱脈を発見することに情熱を燃やしていた。だが、十年という月日は、俺の心をすり減らすには十分すぎた。五年前に親友のアキをこの海で失ってからは、特に。彼は高純度鉱脈を追って規定深度を越え、精神的な嵐に巻き込まれて、二度と意識が戻らなかった。夢はエネルギー源であると同時に、人の魂を喰らう底なしの沼でもある。

俺は慣れた手つきで精神プローブを操り、甘ったるい恋愛感情の奔流を避けながら、より深く、静かな層へと潜っていく。仕事は仕事だ。感傷に浸っている暇はない。ソムニウムを採掘し、今日のノルマを達成する。それだけを考えていた。

その時だった。

雑多な夢の残響が渦巻く中で、ふと、奇妙な「音」を感じ取った。いや、音ではない。それは、あらゆる感情や記憶のノイズが消え去った、完全な静寂の領域から響いてくる、低く、荘厳な振動のようなものだった。それは誰かの夢ではなかった。そこには喜びも、悲しみも、怒りも、恐怖も存在しない。ただ、途方もなく古く、巨大で、孤独な何かが、そこに「在る」という感覚だけがあった。

「ユイ、何か異常なシグナルを拾っているか? 座標デルタ774、深度四百付近」

「いいえ、レン。こちらでは通常ノイズの範囲内よ。どうしたの?」

「……いや、何でもない。気のせいだろう」

俺はそう答えながらも、その「響き」から意識を逸らせなかった。それはまるで、深海の底で、誰も知らない巨大な生き物がゆっくりと心臓を動かしているような、畏怖に満ちた感覚だった。日々の倦怠感に錆びついていた俺の心の奥で、何かが小さく、しかし確かに、軋む音を立てた。

第二章 沈黙の響き

あの奇妙な「響き」を発見してから数週間、俺はそのことが頭から離れなかった。日中の仕事でも、休息時間ですら、あの静かで巨大な存在感が、思考の片隅に居座り続けていた。それは、何十万、何百万という他人の夢の残骸を毎日浴び続けてきた俺にとって、初めて経験する感覚だった。誰のものでもない、純粋な「存在」の気配。

好奇心は、時に安全規則よりも強い力を持つ。特に、俺のように心をすり減らした人間にとっては、それは乾いた大地に染み込む一滴の水にも似ていた。俺は決意した。会社の規定を破り、単独で深層へダイブすることを。アキの事故以来、絶対に越えないと誓った一線を、自ら踏み越えようとしていた。

深夜、俺は非番を装ってダイブ施設に忍び込んだ。ユイや他のスタッフはもういない。冷たい静寂が支配する管制室で、俺は一人、精神感応ヘルメットを装着した。アラートが鳴り響くかもしれない。だが、構わなかった。あの響きの正体を突き止めなければ、俺は前に進めない気がした。

意識を夢の海へと投じる。いつもの混沌とした風景を最短ルートで突き抜け、記憶しておいた座標、デルタ774を目指した。深度が増すにつれて、周囲を流れる夢の断片は抽象的になっていく。個人の具体的な記憶は薄れ、人類共通の元型的なイメージ――空を飛ぶ感覚、落下する恐怖、見知らぬ誰かに追われる焦燥――が、古代魚のように俺の周りを漂っていた。

そして、深度四百を越えたあたりで、再びあの「響き」を感じ取った。今度は前よりもずっと鮮明だ。俺はすべての感覚を研ぎ澄まし、その響きだけを頼りに、さらに深くへと潜っていく。

深度五百。もはや、人間の夢の気配は完全に消え失せていた。そこは、完全な無が広がる空間のはずだった。だが、違った。目の前に広がっていたのは、俺が今まで見たこともない、壮絶な光景だった。

空はなく、ただ赤黒いマグマが大地を覆い、巨大な火柱を天に向かって噴き上げていた。原始の雷が絶え間なく暗闇を裂き、有毒なガスを含んだ分厚い雲が、すべてを押しつぶすように垂れ込めている。生命の気配はどこにもない。ただ、生まれたばかりの惑星が持つ、荒々しくも純粋なエネルギーだけが満ちていた。風の音も、海の音も、生き物の声も聞こえない。だが、あの「響き」は、この風景そのものから発せられていた。

言葉を失った。ここは、人間の集合的無意識よりも、さらに深い層。人類が誕生する遥か以前の、地球そのものの記憶。これは……「惑星の夢」だ。

俺の胸は高鳴った。恐怖はなかった。そこにあったのは、失いかけていた探求心と、目の前の未知に対する純粋な興奮だった。これは世紀の大発見だ。この「惑星の夢」からソムニウムを採掘できれば、それは計り知れない純度とエネルギー量を持つだろう。富、名声、すべてが手に入る。アキの死を乗り越え、俺は再び夢鉱夫として頂点に立てるかもしれない。俺は精神プローブを具現化し、ゆっくりと、灼熱の大地へとその先端を向けた。

第三章 惑星の慟哭

精神プローブの先端が、マグマで覆われた原始の大地に触れた瞬間、すべてが変わった。

俺が想像していたのは、高純度のソムニウムが噴き出す、輝かしい光景だった。だが、現実は違った。俺の脳内に叩きつけられたのは、エネルギーの奔流ではなく、凄まじいまでの「感覚」の洪水だった。

――痛い。

それは、無数の隕石が絶え間なく身体に降り注ぎ、地表を抉り、引き裂かれる痛み。

――熱い。

内部から核が燃え上がり、自身の血肉であるマグマが地表を焼き尽くす、終わりのない灼熱。

――寒い。

絶対零度の宇宙空間に、たった独りで何億年も晒され続ける、骨身に凍みる孤独。

そして、何十億年という、人間のスケールでは到底理解できない、長大な時間の記憶。生命の誕生。恐竜たちの闊歩。氷河期。大陸の移動。そのすべてを、ただ黙って見つめ、自らの身体の上で受け入れてきた、巨大な意識の記録。

それは、悲鳴を上げることも、涙を流すこともできない、沈黙の慟哭だった。

俺は理解した。これは単なる「惑星の夢」などではない。地球という巨大な生命体が持つ、意識そのものだ。俺たちが日常的に採掘しているソムニウムは、この巨大な意識が、その上に生きる我々――人間という、いわば皮膚細胞のような存在――の活動によって微かに漏れ出した、精神エネルギーの欠片に過ぎなかったのだ。

そして、人類が謳歌してきたこの百年の文明は、母なる星の魂を、その精神を、少しずつ、しかし確実に削り取って消費する行為に他ならなかった。我々は、自らが眠る揺りかごそのものを、食い潰していたのだ。

全身が総毛立った。五年前にアキを飲み込んだ精神的な嵐。あれは事故などではなかった。深層を掘りすぎた彼が、この惑星の意識の深い部分に触れてしまい、その痛みが生み出した防衛本能、拒絶反応だったのだ。俺たちは、星の痛みに気づかず、それをただの「災害」として処理していた。

富? 名声? そんなものは、この圧倒的な真実の前では、塵芥にも等しい、卑小な欲望だった。俺の心を支配したのは、興奮ではなく、とてつもない罪悪感と、何かをしなければならないという焦燥感だった。俺は、この星の悲鳴を聞いてしまった。聞いてしまった以上、もう知らないふりはできない。

俺は震える手で精神プローブを引き戻した。その瞬間、俺を見つめる「目」を感じた。もちろん、物理的な目などない。だが、この原始の風景全体が、何十億年も孤独だったこの意識が、初めて自分以外の知性体と接触したことへの、戸惑いと、ほんのわずかな好奇を向けているのが分かった。その視線に、俺はただ、頭を垂れることしかできなかった。

第四章 星屑の揺りかご

現実の身体に戻った時、俺はダイブ装置のシートの上で、冷たい汗にまみれていた。心臓が警鐘のように鳴り響き、呼吸は浅く速い。だが、混乱する頭の中で、やるべきことは一つしかなかった。

この発見を公表すればどうなる? 企業や国家は、目の色を変えて「惑星の夢」――地球意識の大規模採掘に乗り出すだろう。それは、人類に未曾有の繁栄をもたらすかもしれない。だが、その先にあるのは、母なる星の精神的な死だ。魂を抜かれた惑星の上で生きる未来に、何の意味があるというのか。

俺は、震える指でコンソールを操作した。ダイブログに記録された、デルタ774の座標データ。俺はそれを選択し、永久に消去した。さらに、システムに潜り込み、関連するすべてのセンサーログとバックアップデータに細工を施し、俺が体験したすべてを、ただの「機器の異常」として記録されるように偽装した。

これで、誰もあの場所へは辿り着けない。

だが、それだけでは不十分だった。俺自身が、再びあの場所へ行きたいという誘惑に駆られるかもしれない。俺は最後の作業に取り掛かった。医療ユニットにアクセスし、自らの脳神経パターンに不可逆のロックをかけるプログラムを起動させた。強い精神的ショックを与えることで、精神感応能力を永久に封じる、荒療治だ。夢鉱夫としての自分を、俺は自らの手で殺すことにした。

数年後、俺はかつてソムニウム採掘で栄えた大都市を離れ、海沿いの小さな町で暮らしていた。古い灯台を修理する、地味で静かな仕事だ。もう、他人の夢の海に潜ることはない。夜は、ただ深く、穏やかに眠るだけだった。

時折、夜空を見上げることがある。満天の星が、まるで巨大な揺りかごのように、この青い惑星を優しく包んでいる。風の音、打ち寄せる波の音に耳を澄ますと、あの深淵で感じた、巨大で孤独な「響き」の片鱗を感じるような気がした。

俺の選択が正しかったのか、誰にも分かりはしない。俺は、人類の無限の繁栄という「夢」から、たった一人で降りた。その代償に、この星が静かに夢を見続ける未来を、ささやかに守った。それだけの話だ。

かつてアキを失った時、俺は夢を呪った。だが今は違う。夢とは、誰かに採掘されるための資源ではない。それは、孤独な魂が、広大な宇宙の中で自らの存在を確かめるための、ささやかで、そして何よりも尊い営みなのだ。

今夜も、俺は眠りにつく。誰にも採掘されることのない、俺だけの夢を見るために。その夢の中で、俺は時々、青く輝く美しい星の上で、穏やかに呼吸をしている、ただそれだけの夢を見るのだった。

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