忘却の螺旋、あるいは創生の予感
第一章 硝子の未来
また、あの感覚が来る。
意識の縁が綻び、現実が薄い膜のように引き伸ばされる。目の前の景色がノイズ混じりの映像のように揺らぎ、遠い雷鳴のような耳鳴りが思考を掻き乱す。俺、カイの精神が、時間の流れから弾き出される兆候だった。
次の瞬間、カイは冷たいアスファルトの上に立っていた。
土砂降りの雨が体を打ち、街灯の滲んだ光が水たまりに砕けている。嗅いだことのない花の甘い香りと、鉄が錆びる匂いが混じり合っていた。遠くで甲高いサイレンが鳴り響き、すぐ側で誰かがガラスの割れるような悲鳴を上げた。誰かの絶望が、冷たい雨粒となって肌に突き刺さる。
「……っ!」
息を呑んで目を開けると、そこは自室の椅子の上だった。窓の外は穏やかな夕暮れが広がり、雨の気配などどこにもない。心臓だけが、全力疾走した後のように激しく鼓動していた。
未来への「量子スリップ」。
体験した出来事は、現在に戻ると急速に色褪せ、硝子の破片のような「漠然とした予感」として胸に残るだけだ。あの雨も、匂いも、悲鳴も、今では夢の残滓のように朧げだ。そして、その未来は観測した瞬間に確率が揺らぎ、必ずしも実現するとは限らない。俺は、起こるかもしれない無数の悲劇の予感に、常に心を引き裂かれていた。
「お兄ちゃん……?」
か細い声に我に返る。隣の部屋のベッドで、妹のミナが体を起こそうとしていた。その姿が、夕陽に透けているように見える。
この世界では、「過去の記憶」がエネルギーに変換され、人々の生活を支えている。そして記憶を消費すればするほど、その持ち主の存在は希薄になっていく。ミナは重い病で、自身の記憶を急速に失い続けていた。俺たちは大切な記憶を「記憶貯蔵庫(メモリー・バンク)」に預け、存在の消滅から逃れているが、ミナの希薄化は止まらない。
俺のこの忌まわしい能力が、ミナを救う鍵になるかもしれない。そんな不確かな希望だけを頼りに、俺は今日もまた、硝子のように脆い未来の予感を抱きしめるしかなかった。
第二章 記憶貯蔵庫の囁き
メモリー・バンクの内部は、冬の朝のように冷たい空気に満ちていた。磨き上げられた金属の壁が、カイの不安げな顔を鈍く映し出す。彼は自身の記憶――幼い頃にミナと見た花火の夜、初めて自転車に乗れた日の高揚感――をデータ化し、バンクのコアへと転送した。これで、ミナの存在を少しだけこの世界に繋ぎ止められるはずだ。
「あなたの記憶、とても揺らぎが大きいわね」
背後からかけられた声に、カイは弾かれたように振り返った。そこに立っていたのは、知的な光を宿す瞳が印象的な女性だった。白衣を着た彼女の胸には、考古学者エリナ、と記されたプレートが下がっている。
「未来の『残響』が聞こえるのでしょう?」
エリナの言葉は、核心を射抜く刃のように鋭かった。カイは息を呑み、言葉を失う。
彼女は周囲を気にするように声を潜め、カイをバンクの片隅へと誘った。
「この世界は、記憶の消費によって緩やかに終わりに向かっている。でも、ごく稀に、決して消費されることのない『起源の記憶』を持つ者がいるの」
エリナはカイの目を真っ直ぐに見つめた。
「その記憶は、世界の法則そのものを内包している。そして、あなたのその能力は、『起源の記憶』が活性化し始めている証拠なのよ」
彼女は、世界の法則を書き換え、記憶の消費を止められるかもしれない、という途方もない仮説を語った。そのためには、「起源の記憶」の持ち主と、それを読み解くためのキーアイテムが必要なのだと。
「協力してほしいの。あなたなら、世界を……あなたの大切な人を救えるかもしれない」
ミナの、消え入りそうな笑顔が脳裏をよぎる。カイは、目の前の女性が差し伸べる蜘蛛の糸に、迷いなく手を伸ばしていた。
第三章 無のキューブ
エリナがカイを連れてきたのは、閉鎖された市立図書館の地下深くに隠された研究室だった。黴と古い紙の匂いが鼻をつく。部屋の中央、スポットライトに照らされた台座の上に、それは鎮座していた。
「無のデータキューブ」
一辺が十センチほどの、完璧な透明の立方体。何の情報も持たない、ただの硝子の塊にしか見えない。だが、カイが恐る恐るそれに触れた瞬間、変化が起きた。
キューブが、心臓のように微かに脈動した。内側に、銀河を思わせる無数の光点が生まれ、ゆっくりと回転を始める。カイの手のひらに、温かいような、冷たいような、奇妙な感覚が広がった。
その時、また世界が歪んだ。
今度のスリップは、これまでになく鮮明だった。
崩れ落ちる高層ビル。空を引き裂くように浮かび上がる巨大な幾何学模様。そして、瓦礫の中で膝をつき、顔を覆って泣き崩れるエリナの姿。彼女の嗚咽が、時空を超えてカイの鼓膜を直接揺さぶる。
「やめろ……!」
現実に戻ったカイは、キューブから手を引き剥がしていた。肩で息をしながら、目の前の遺物に恐怖を覚える。
「……見たのね、世界の崩壊を」
エリナの声は震えていた。
「でも、それは無数の可能性の一つに過ぎない。私たちは、違う未来を選び取らなくちゃいけないのよ」
彼女の瞳には、狂気にも似た探究の光が宿っていた。もう後戻りはできない。カイは覚悟を決め、再びキューブへと手を伸ばした。
第四章 起源の活性化
「お願い、カイ。もっと強く、あなたの意識をキューブに集中させて」
エリナの声に促され、カイは両手でキューブを包み込み、強く握りしめた。目を閉じ、意識を一点に集める。ミナのことだけを考えた。彼女の笑顔、彼女の温もり、彼女の存在そのものを。
ゴォッ、と地鳴りのような音が響き、研究室が激しく揺れた。
本棚から古書が雪崩落ち、天井の照明が明滅を繰り返す。壁が粘土のように歪み、床が波打ち、重力の方向が狂い始める。世界の物理法則が、悲鳴を上げて崩壊していく。
そして、カイの脳内に、情報の洪水が流れ込んできた。
ビッグバンの閃光。原始の海で生まれた生命の産声。文明の興亡。無数の人々の喜び、悲しみ、怒り、愛。それら全ての記憶がエネルギーに変換され、消費されていく瞬間の、声なき絶叫。それは、この世界の真の姿だった。
意識が灼かれ、精神が砕け散りそうになる。だが、その情報の奔流の果てに、カイは一つの光景を見た。
誰もいない真っ白な空間で、一人の男が何かを想い、世界を描き出している。その男の顔は、カイ自身だった。
「――っ、ぁあアアアアアッ!」
絶叫と共に、カイの意識は暗闇に呑まれた。
第五章 創生の残響
カイが目を覚ました時、世界の音は変わっていた。
研究室の崩壊は止まり、静寂が支配していた。エリナが呆然と窓の外を指さしている。カイもふらつきながら窓辺へ向かい、そして息を呑んだ。
街の景色が一変していた。
消費され、データの中にしか存在しなかったはずの「過去」が、現実の風景に重なるように現れ始めていたのだ。半透明の古い路面電車が音もなく大通りを走り抜け、今はもうない時計台の鐘の音が、どこからか聞こえてくる。人々の影が、楽しげにカフェテラスで談笑している。
しかし、それらは奇妙だった。歴史上のどの記録にも一致しない、誰も知らない「過去」。
「どういうこと……こんな記録は……存在しない……」エリナが震える声で呟いた。
カイだけが、理解していた。
あの路面電車。あの時計台。あのカフェテラス。全て、自分が量子スリップで垣間見た、無数の「ありえたかもしれない未来」の断片だった。ガラスの割れる音、冷たい雨の匂い、誰かの悲鳴。あの漠然とした予感たちが、今、具体的な形を持って、失われた世界のキャンバスに新たな「過去」として描かれている。
キューブは、世界の法則を書き換えたのだ。記憶を消費する世界から、記憶を創造する世界へと。
そして、その創造の源は――俺の「予感」だった。
第六章 始まりの君へ
俺は、観測者であり、創造主だった。
俺が未来を観測し、「予感」として持ち帰るたびに、それが新たな世界の「過去」の種子となる。俺の精神は、このループする世界の始まりと終わりを繋ぐ、ただ一つの特異点だったのだ。「起源の記憶」とは、この循環そのものを指す言葉だった。
カイは、ミナの病室へと向かった。廊下を歩くだけで、彼の脳裏をよぎる未来の断片が、壁に新しい絵を飾り、床に美しい模様を描いていく。
病室のドアを開けると、ミナの姿はほとんど消えかかっていた。だが、カイが部屋に入った瞬間、彼女の輪郭が、ほんの少しだけ濃くなった。カイという「起源」に触れたことで、彼女の存在が世界に強く結びつけられたのだ。
「お兄ちゃん」
ミナが、か細く、しかし確かな声で微笑んだ。
「また、新しいお話、聞かせてくれる?」
カイは静かに頷いた。
これから俺は、無限の未来を観測し、この世界に与え続けなければならない。それは、出口のない永遠の螺旋を彷徨う孤独な旅路かもしれない。だが、その記憶がミナを、そしてこの世界を生かすのなら。
カイはミナの冷たい手を、そっと握った。その手は、彼の温もりに応えるように、微かに力を込めた。
窓の外では、カイの「予感」から生まれたばかりの新しい過去たちが、優しい朝陽を浴びて、きらきらと輝いていた。まるで、これから始まる物語を祝福するように。