黒曜の鎮魂歌
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黒曜の鎮魂歌

第一章 幽明の街

夜の帳が江戸の街を包む頃、それは舞い始める。亡き人の想いを宿した『幽明の蝶』。青白い燐光を散らしながら、瓦屋根の隙間を縫い、柳の枝をかすめて飛ぶ。人々はそれを恐れ、あるいは慈しむように見送った。

朔(さく)は、その光景を独り、橋の欄干に凭れて眺めていた。彼の腰には、柄も鞘も闇を溶かし込んだような黒曜石の刀。人々が交わす声も、下駄の音も、遠くで鳴く虫の声も、彼の耳には届いている。だが、それは仮初めの世界に過ぎない。

ふと、彼は腰の刀に手をかけた。指が柄に触れた瞬間、覚悟を決めるように息を詰める。ゆっくりと刀を抜くと、世界は一変した。

蝉時雨が、ぴたりと止んだ。人々の喧騒が、墨絵のように固まる。鮮やかだった提灯の灯りも、娘の着物の緋色も、全てが色を失い、世界は濃淡の異なる灰色の濃淡に沈んだ。完全なる静寂。ただ、自身の内側で鳴り続ける、規則正しい心臓の鼓動だけが、どくん、どくんと、彼の世界の全てを支配していた。

これが朔の世界。『無音の剣』の理。この絶対的な静寂の中で、彼は常人には捉えられぬものを捉える。風が肌を撫でる微かな圧、空気の揺らぎ、遠くの地面を伝わる振動。そして、彼の研ぎ澄まされた感覚は、今、街の一角で起きた異変を捉えていた。ひときわ大きく、強く輝く蝶の群れが、ある商家から天へと昇っていくのを。

朔は欄干を蹴り、音もなく闇へと溶けていった。灰色の世界で、彼の鼓動だけが、事件の始まりを告げていた。

第二章 御霊蝶の囁き

現場は醤油問屋の離れだった。几帳面に整えられた室内に、主人が静かに横たわっている。その顔は、まるで満ち足りた夢でも見ているかのように、穏やかだった。しかし、朔の目には、その穏やかさが孕む異様さが映っていた。

部屋の隅で、老練な同心である藤兵衛が腕を組んでいた。「まただ、朔。これで三人目。皆、安らかな顔で逝きおる。だがな…」

藤兵衛が指さす先、開け放たれた窓の外では、常とは比較にならぬほど巨大な、人の掌ほどもある『御霊蝶』が、狂ったように乱舞していた。その光は月さえ霞ませるほどに強く、モノクロの世界に在る朔の目にも、その異常な輝きは焼き付くようだった。

朔は無言で主人に近づき、そっと刀の切っ先を、彼の胸元で明滅する一匹の御霊蝶に触れさせた。

瞬間、奔流が朔の心を打った。

それは、温かな日差しの中でまどろむような、至上の幸福感。満たされた安らぎ。

だが、その安らぎの底には、身を切られるような慟哭が、声にならない叫びが渦巻いていた。愛する者を失った絶望、未来を奪われた無念。相反する二つの感情が、朔の内で激しくぶつかり合い、彼の呼吸を乱す。

「どうだ、何か視えたか」

藤兵衛の問いに、朔は小さく首を振った。言葉にはできなかった。あまりにも矛盾した感情の渦は、ただ彼を混乱させるだけだった。彼は刀を鞘に納める。すると、堰を切ったように音が世界に溢れ返り、色彩が戻ってきた。現実の喧騒が、今はひどく耳障りに感じられた。

第三章 重なる影

事件は続いた。四人目は腕利きの石工、五人目は高名な書家。被害者に共通点は見いだせない。ただ一つ、彼らが皆、穏やかな死に顔をしていること、そしてその現場から、巨大な御霊蝶が飛び立つことを除いては。

朔は毎夜、藤兵衛と共に事件を追った。そして、その度に御霊蝶に触れ、同じ感覚を追体験した。甘美なほどの安らぎと、魂を引き裂くほどの慟哭。まるで、誰かが無理矢理に心を慰撫し、その奥底にある本当の悲しみに蓋をしているかのようだった。

「奇妙だ」藤兵衛が唸った。「被害者たちを調べ直した。一見、繋がりのない連中だが、ここ数ヶ月、ある事業に揃って関わっておった」

「…事業?」

「ああ。初代将軍・徳川家康公の太平の世二百年を記念する、巨大な顕彰碑の建立だ」

その言葉が、朔の心に小さな波紋を広げた。彼は蝶から視た断片的な記憶の断片を懸命に繋ぎ合わせる。安らぎと慟哭のビジョンの中に、繰り返し現れる一つの紋様があった。三つ葉葵ではない。蔦の葉を三つ、輪に描いたような、見覚えのない紋が。

藤兵衛にその紋のことを伝えると、彼の顔色が変わった。「それは…『三つ蔦輪』。確か、歴史の闇に消えた名だ。家康公が最も信頼し、そして最も恐れたと言われる男…」

第四章 将軍の庭

藤兵衛の手引きで、朔は月明かりの下、江戸城の深奥へと足を踏み入れた。厳重な警備を抜け、辿り着いたのは、歴代将軍の霊が眠る霊廟の、さらに奥。忘れ去られたように佇む、小さな庭だった。

その庭の中央に、苔むした墓標が一つだけ、ひっそりと立っていた。誰に弔われることもなく、二百年の風雪に耐えてきたそれは、歴史の澱そのものだった。墓標には、名も刻まれていない。ただ、あの『三つ蔦輪』の紋だけが、かろうじて見て取れた。

「景光…」藤兵衛が絞り出すように言った。「家康公の影と呼ばれた男、天海景光の墓だ。公の天下統一の最大の功労者でありながら、その名を歴史から完全に抹消された」

朔は、吸い寄せられるように墓標に近づいた。黒曜石の刀の柄に手をかける。刀身が鞘の中で、カタカタと微かに震え、熱を帯び始めている。まるで、旧友との再会を喜ぶかのように。

彼が墓標に指を触れた瞬間だった。

刀が、これまでとは比較にならないほど激しく共鳴した。朔の脳裏に、二百年の時を超えた鮮烈な記憶が、濁流となって流れ込んできた。

第五章 声なき絶叫

それは、裏切りの記憶だった。

天下統一を目前にした若き日の家康が、友である景光と二人、月を見ながら酒を酌み交わしている。家康は言う。「お主の才覚と人望がなければ、この戦は勝てなかった。だが、それ故に、わしは恐ろしいのだ。この太平の世に、お主という光は眩しすぎる」

次の瞬間、家康の刃が景光の胸を貫いた。

驚愕に目を見開く景光。痛みよりも、信じていた友からの裏切りという、理解を超えた仕打ちに、彼の魂は凍り付いた。叫ぼうにも、声が出ない。言葉にならない。その絶望、無念、悲しみ、裏切りの全てが、一つの巨大な感情の塊となり、音を失ったまま世界に刻み込まれた。

―――それが、『声なき絶叫』。

全ての『幽明の蝶』の源流。

そして、朔が持つ『無音の刀』の正体。

朔は、景光だった。いや、景光の『声にならない絶叫』そのものが、二百年の時を経て輪廻し、人の形を得た存在だった。彼が刀を抜くと音が消えるのは、この世界が景光の最後の瞬間を再現するからだ。彼の耳に心臓の音だけが響くのは、裏切られた瞬間の景光の鼓動が、今も彼の中で鳴り続けているからだった。

連続殺人の犯人は、景光の無念に深く同調した、彼の血を引く末裔だった。将軍家の栄光の象徴である顕彰碑の建立を、景光への冒涜とみなし、関係者を次々と手にかけたのだ。被害者が穏やかな顔をしていたのは、犯人が景光の無念を一時的に慰撫し、「安らぎ」を与えてから殺害していたからだった。だが、魂の根源にある慟哭は消せず、それが巨大な御霊蝶となって現れていたのだ。

全てを理解した朔の頬を、一筋の涙が伝った。それは二百年越しの、景光の涙だった。

第六章 鎮魂の刃

朔は、現将軍の前に立っていた。将軍は全てを知っていた。一族が背負う罪の重さも、朔の正体も。彼は静かに語った。「国の安寧のため、真実は闇に葬られねばならなかった。許せとは言わぬ」

朔は静かに黒曜石の刀を抜いた。

将軍のいる大広間から、音が消える。世界が灰色に染まる。将軍は覚悟を決めたように目を閉じた。

だが、朔は刃を振り下ろさなかった。

彼は刀を天に掲げ、目を閉じる。彼の内側で鳴り響いていた心臓の音が、二百年の時を超えた景光の鼓動と完全に重なり合う。そして、彼は刀を媒介に、その内に溜め込んだ全ての感情を、二百年分の『声なき絶叫』を、一気に解放した。

それは音ではなかった。

それは、城内にいた全ての者、歴代将軍の霊廟に眠る魂、そして江戸の街で眠る全ての民の心に、直接響き渡る巨大な波動だった。

裏切りの痛み。友を失った悲しみ。声にならなかった無念。二百年間、この国の礎の下で、たった一人で泣き続けていた魂の慟哭が、万人の心に流れ込んだ。

将軍の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。彼はその場に崩れ落ち、嗚咽した。それは将軍としてではなく、罪を背負う一人の人間としての涙だった。

やがて波動が収まった時、朔は刀を鞘に納めた。

音が、色が、世界に戻ってくる。

だが、何かが違っていた。彼の耳に、いつも戻ってくる喧騒とは別に、何か別の音が聞こえた。

―――さあ…

それは、夜風が彼の頬を撫でる、微かな音だった。

二百年の間、彼の世界を支配していた心臓の鼓動以外の、初めての音。呪いが解け始めた証だった。

朔は夜空を見上げた。舞い踊っていた幽明の蝶たちが、その光を和らげ、まるで安らかに眠りにつくように、一匹、また一匹と、夜の闇に溶けていく。

二百年の孤独が終わったのだ。朔の、そして景光の、長い夜が、ようやく明けようとしていた。

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