虚構の霧と時喰いの鎮魂歌
第一章 霧の診察室
嘘が吐かれるたび、この町には灰色の霧が降る。それは人々の肺腑を湿らせ、建物の石畳に染み込み、世界の輪郭を曖昧にする。私の名はリヒト。この霧深き町で、医者を営んでいる。
診察室の窓の外は、今日も濃密な『嘘の霧』に閉ざされていた。ガラス越しに触れれば、じっとりと冷たいだろう。手の中では、繊細な手術器具の歯車が噛み合わず、虚しく空転している。私は静かに息を吸い、左腕を器具にかざした。皮膚の下で、何かが蠢く感覚。私の内に棲む『時を食う虫』が、命令を待っていた。
「戻れ」
囁きと共に、器具の時間が逆行を始める。砕けた歯車は継ぎ目なく繋がり、錆は輝きを取り戻し、数秒後には新品同様の光沢を放っていた。だが、代償は支払われる。左腕に彫られた『命脈の刻印』――生命線を模した複雑な紋様が、また一筋、インクが滲むように薄れた。この力が私の命を喰らう証。いずれこの刻印が完全に消えた時、私もまた、時間の中から消え去るのだろう。
ここ数週間、町の霧は異常だった。ただ濃いだけではない。腐臭にも似た甘い澱みが混じり、人々の精神を蝕んでいた。そして、奇妙な噂が霧と共に流れ始めた。過去の亡霊が、生者のように町を徘徊している、と。ドアを叩くノックの音。誰もいないはずの路地から聞こえる囁き声。霧は、ただの嘘の蓄積物ではなかった。それは、忘れられた過去を呼び覚ます、巨大な墓標と化しつつあった。
第二章 彷徨う過去の亡霊
「先生、あいつらが……また!」
恐慌に駆られた男が、息を切らして診察室に駆け込んできた。彼の腕には、実体のない何かに掴まれたかのような、青黒い痣が浮かんでいる。私は消毒液を浸したガーゼを当てながら、彼の震える肩に手を置いた。
町の広場は、悪夢そのものだった。数百年前の古風な衣服を纏った人々が、音もなく彷徨っている。彼らは『幻影』だ。この異常な霧が生み出した、過去に語られた嘘や隠蔽された真実の澱。特に人々の恐怖を掻き立てていたのは、濡れ衣を着せられ処刑されたという、一人の少女の幻影だった。その虚ろな瞳は、生者の中に憎むべき誰かを探しているようだった。
「これは、町の創設期に起きた『大粛清』の犠牲者たちです」
声の主は、エリアナと名乗る若い歴史家だった。彼女は埃っぽい古書を抱え、恐怖よりも強い探求心で目を輝かせていた。彼女によれば、幻影たちは、ある巨大な陰謀によって歴史から抹消された人々だという。
その時、例の少女の幻影が、ふらりとこちらへ近づいてきた。その小さな手が、私の白衣の裾に触れる。冷気とも違う、時間の真空に触れたかのような奇妙な感覚。私は覚悟を決め、その手に自らの手を重ねた。
「喰らえ」
虫が、少女の残留思念から時間を喰らう。脳裏に、灼けつくような怒りと悲しみの奔流が流れ込んできた。『違う、私は、私たちは裏切ってなどいない!』――無実の叫びが鼓膜を震わせ、左腕に激痛が走った。命脈の刻印が、またひとつ、その輪郭を失っていく。
第三章 嘘の根源を求めて
エリアナの協力は不可欠だった。彼女は歴史の知識を、私はこの異質な力を。私たちは二人で、この異常事態の根源である巨大な『嘘』を探し始めた。町の記録保管所は、まるで嘘の墓場のようだった。大粛清に関する記述は、不自然なほどに削り取られ、黒く塗り潰されていた。誰かが意図的に、真実を葬り去ったのだ。
「これほど巨大な嘘を維持するには、相当な力が必要です。おそらく、町の創設そのものに関わる何か……」
エリアナが呟いた。霧はもはや、視界を遮る завеса (ヴェール) ではなく、町を窒息させる汚泥と化していた。幻影たちはより明確な敵意を剥き出しにし、生者に襲いかかる。商店は閉ざされ、人々の家からは祈りの声と嗚咽だけが漏れ聞こえてくる。この町は、自らが吐き出した嘘によって、過去に喰われようとしていた。
私は、この全ての元凶が、最も神聖で、最も嘘から遠いとされる場所に隠されているのではないかと直感した。人々の信仰を集め、町の揺るぎない基盤となっている場所。
「初代為政者が眠る、中央霊廟だ」
私の言葉に、エリアナは息を呑んだ。そこは、この町の創世神話が祀られた聖域。そして、最大の嘘が眠るに最も相応しい場所でもあった。
第四章 創設者の聖域
中央霊廟への道は、怒れる幻影たちの巣窟と化していた。彼らは、聖域を守る番人のように行く手を阻む。
「道を開けろ!」
私は叫び、迫りくる騎士の幻影の時間を加速させた。彼の鎧は瞬く間に赤錆び、崩れ落ちて塵と化す。崩落した通路の前では、時間を巻き戻して瓦礫を元の天井へと復元させた。そのたびに、左腕の刻印は急速に色を失い、皮膚に溶けていくかのように薄れていく。命の蝋燭が、激しい風の中で燃え尽きようとしていた。
霊廟の最深部。巨大な石棺の前で、威厳に満ちた壮年の男の幻影が我々を待っていた。初代為政者、その人だった。彼の口から語られたのは、英雄譚とは程遠い、苦渋に満ちた真実だった。
数百年前、この地は不毛で、人々は飢饉によって死に絶える寸前だった。為政者は民を救うため、一つの巨大な『嘘』をついた。「この土地は神に祝福され、やがて豊穣の奇跡が起こる」と。その嘘を信じさせるため、隣国からの援助を取り付けるため、彼は現実を訴える反対派を『反乱分子』として粛清し、その存在を歴史から抹消した。少女も、その一人だった。
「我が嘘は、町を救うための善意の嘘だった」幻影は静かに告げる。「だが、嘘は嘘。長い年月を経て腐敗し、お前たちの吐き出す小さな嘘を養分に、今やこの町そのものを飲み込む怪物と化したのだ」
全ては、人々を絶望から救うための、悲しい偽りから始まっていた。
第五章 時喰いの決断
「真実を暴けば、この町の土台は崩れる」為政者の幻影は続けた。「人々は拠り所を失い、歴史は意味をなさなくなる。だが、この嘘を放置すれば、町は過去の亡霊に喰い尽くされる。さあ、医者よ。お前はどうする?」
エリアナは唇を噛み締めていた。歴史家として真実を求める心が、その真実がもたらすであろう破滅を前に揺れている。人々の誇りと秩序を守るための『救いの嘘』か。それとも、犠牲者の魂を弔うための『破滅の真実』か。
どちらを選んでも、待っているのは絶望だ。
私は、ほとんど消えかかった左腕の刻印を見つめた。もう、時間がない。だが、この僅かに残された時間で、成すべきことがある。どちらかを選ぶのではない。過去の痛みも、未来への欺瞞も、どちらも人々を縛る鎖に変わりはない。
「真実も嘘も、人々を縛る鎖ならば」
私は静かに顔を上げた。
「その両方を、時間の中から断ち切る」
それが、私の出す答えだった。この命を喰らい続けてきた『時を食う虫』に与える、最後の、そして最大の仕事だ。
第六章 空白のレクイエム
「エリアナ、君が信じる歴史を、未来を、見届けてくれ」
それが、彼女に聞こえた最後の言葉だったかもしれない。私は残された全ての命を、腕の中で蠢く虫に注ぎ込んだ。意識が肉体を離れ、光の奔流となって時間を遡る。
――為政者が苦悩の末に、救いのための嘘を宣言した瞬間。
――無実の少女が、偽りの罪によって命を奪われた瞬間。
二つの時間は、歴史という織物の中で固く結ばれた結び目だった。私はその結び目に喰らいついた。悲劇の真実を、善意の嘘を、その両方を歴史の流れから掬い上げ、引き剥がし、永遠の『無』へと封印する。
世界が、白く染まった。
私の身体は足元から光の粒子となり、霧散していく。左腕の刻印は、最後の線を失い、完全に消滅した。エリアナが何かを叫んでいる。誰かの名を呼んでいるようだった。だが、その名は彼女の記憶から、まるで水に溶けるインクのように消えていく。
……やがて、光が収まった時、町には嘘の霧一つない、澄み渡った朝日が差し込んでいた。幻影は消え、人々は何事もなかったかのように新しい一日を始めていた。ただ一つ、変わったことがある。誰もが知るはずの、この町の創設史に、ぽっかりと説明のつかない『空白の時代』が生まれていた。
歴史家となったエリアナは、生涯をかけてその空白の謎を追い続けた。なぜだか分からない。けれど、その歴史の空白部分に触れるたび、胸の奥が温かくなり、理由の分からない涙が頬を伝うのだった。そこには、誰にも記憶されることのない、一人の医者の犠牲によって生まれた、未来への希望が静かに息づいていた。
町には、決して語られることのない、しかし人々が光を求めて探し続けるであろう、希望に満ちた『空白の真実』が、永遠に残された。