色喰らいの空、無音の筆
第一章 砂に還る瑠璃
俺の名は千景。光を失ったこの眼に映るのは、ありふれた色彩ではない。人の記憶が放つ、魂の彩りだ。歓びは黄金の輝きを、悲しみは底なしの藍を宿す。俺は盲目の浮世絵師として、その束の間の色を和紙に写し取って生きてきた。
江戸の町が、静かに、だが確実に蝕まれ始めたのは、いつからだったか。
「見てくれ、千景さん!うちの店の暖簾が……」
魚屋の辰五郎が、震える声で俺の腕を引いた。彼の記憶は、焦りと恐怖で濁った茶色に揺らめいている。店先へ導かれると、鼻を突くのは潮の香りではなく、乾いた土埃の匂いだった。本来そこにあるべき、大漁を願って染められた鮮やかな「藍色」の暖簾。俺の心眼には、その色が急速に白茶け、繊維が解けて砂のようにハラハラと崩れ落ちる様が見えた。
「三代続いた、大事な暖簾なんだ。それが、まるで陽に灼けた古紙みてえに……」
辰五郎の記憶から、暖簾の「藍色」に宿っていた誇りと愛情が、陽炎のように掻き消えていく。色が失われる。すると、その色を依り代としていた物が、存在そのものの輪郭を失い、風化して消える。
近頃、町ではそんな怪事が頻発していた。ある家の軒先で咲き誇っていた朝顔の「瑠璃色」が失せ、花弁は触れる間もなく塵と化した。恋文に重ねた想いの「紅色」が薄れ、文はただの反故紙になった。人々はそれを「色喰らい」と呼び、空を見上げては不吉な影に怯えていた。
俺だけが見ていた。失われた色は、虚空に溶けるのではない。周囲の風景から不気味に浮き上がり、誰にも届かない悲鳴のように、最後の輝きを放っているのを。
第二章 透明な硝子の絵筆
「どうか、この子の思い出を……描いてはいただけませんか」
ある雨の日の夕刻、一人の母親が幼い娘の手を引いて、俺の侘しい仕事場を訪れた。娘の名はお咲。彼女の記憶は、ほとんどの色を失い、まるで淡い墨絵のようにか細く揺れていた。
母親が差し出したのは、一本の小さな木彫りの櫛。そこにかつて施されていたはずの、山吹の花の「黄色」は、もうどこにもない。櫛自体も、縁から脆く崩れ始めていた。
「病で亡くなった父親が、最後にこの子に遺した物なのです。お咲は、あの日以来、笑うことを忘れてしまいました」
母親の記憶は、深い哀しみの灰色に沈んでいる。だが、隣に立つお咲の心の中、その一点だけにかろうじて残る光があった。父親の大きな手が頭を撫でる温もりと、その手に握られた櫛の、陽だまりのような山吹の「黄色」。それは、失われゆく記憶の断末魔の輝きだった。
俺は黙って頷き、桐箱から一本の絵筆を取り出した。光を透かす『透明な硝子の絵筆』。失われた記憶の色を、この世に束の間だけ繋ぎ止めるための、俺の唯一の道具だ。
筆先をお咲の小さな額にそっと近づける。すると、硝子の筆が共鳴するように微かに震え、彼女の心に残る「黄色」の残滓を吸い上げていく。筆の内部で、淡い光が渦を巻いた。
和紙に向かい、息を詰める。俺は見えない。だが、お咲の記憶が、父親の温もりが、俺の腕を導く。硝子の筆が和紙の上を滑ると、そこには鮮やかな山吹色が咲き誇った。それは単なる黄色ではない。愛情の深さを映した、柔らかな光沢を帯びていた。
「まあ……!」
母親が息を呑む。お咲が、その絵を食い入るように見つめている。彼女の瞳には、ただの黄色い絵が見えているはずだ。だが、この絵は見る者の失われた記憶を呼び覚ます。彼女の心の中で、絵の具の黄色が、父親との思い出の「山吹色」に変わるのだ。
お咲の頬を、一筋の涙が伝った。その涙の記憶は、ほんのりと温かい、澄んだ水色をしていた。
第三章 褪せる絆の色
俺は、失われゆく色を紙に写し取ることに没頭した。それが唯一、この狂った世界に抗う術だと信じていたからだ。色喰らいの速度は、日増しに増していく。特に、人々の「絆」を象徴する色が危うかった。
祝言の日に交わされる盃の「朱色」。友との誓いを込めた揃いの手拭いの「萌黄色」。祭りの日に人々を一つにする提灯の「橙色」。それらの色が薄れるたび、町の空気から温もりが失われ、人々は互いに背を向け、疑心暗鬼の冷たい影を心に宿し始めた。
俺の描いた絵は、人々に一時的な慰めを与えた。絵を囲み、人々は失われた記憶を語り合い、涙した。だが、それは焼け石に水だった。和紙の上に定着させた色は、しょせん写し世の幻。世界の風化を止める力はない。
「千景、もうよせ」
ある夜、筆を握り続ける俺の肩に、馴染みの版元である宗助が手を置いた。彼の記憶は、心労でくすんだ鉛色をしていた。
「お前の絵は素晴らしい。だが、お前自身がすり減っていくのが俺には見える。その絵筆、お前の命を削っているんじゃないのか」
硝子の絵筆は、記憶の色を写す代償に、俺自身の記憶の色を少しずつ吸い上げていた。俺の心からも、かつてあったはずの鮮やかな色が失せ、世界は次第に単調な濃淡へと変わっていく。
それでも、俺は筆を置けなかった。このままでは、世界から全ての情が消え失せてしまう。思い出も、文化も、愛さえも。無色の沈黙だけが支配する世界など、想像するだけで息が詰まった。俺は、最後の色まで描き尽くしてやるという、悲壮な決意に駆られていた。
第四章 忘れられた社の巫女
色の消失の根源に、何か巨大な意志が働いている。そう直感した俺は、町外れにある、人々から忘れられた古社へと足を向けた。そこは、かつてこの土地の全ての記憶が集積する場所だったと、古老から聞いたことがある。
苔むした石段を登ると、ひやりとした空気が肌を撫でた。社の境内は、不思議なほどに色彩が保たれている。だが、それは鮮やかな色ではない。永い時を経て磨かれた、静かで深みのある色たちだ。
本殿の前に佇んでいると、背後から鈴を転がすような声がした。
「視えぬ眼で、何を視ようとしておりますか」
振り返ると、そこに一人の老婆がいた。巫女のような白い衣を纏い、年の頃は分からない。だが彼女の記憶は、俺がこれまで見たこともない色をしていた。虹色の光が幾重にも重なり、それでいて完璧な調和を保つ、清澄な輝き。
「あなたは……」
「わたくしは時音。この社の番人。そして、この世界の調律を見守る者です」
彼女は俺の硝子の絵筆に目をやった。
「その筆で、失せゆく色を繋ぎ止めておられるのですね。……哀れな絵師よ」
時音の言葉には、憐憫と、そして俺には理解できない諦観が滲んでいた。
「あなたは、必死に過去を守ろうとしておられる。ですが、千景殿。失うことは、本当に悲劇なのでしょうか?」
彼女の問いは、俺の信念の根幹を揺さぶる、静かで鋭い刃だった。
第五章 世界の調律
時音は俺を社の奥、禁じられた聖域へと導いた。そこは洞になっており、壁面には無数の亀裂が走っていた。その亀裂から、おびただしい数の「色」が、まるで傷口から流れ出る血のように滲み出ていた。
「これが、この世界の記憶の源流」
時音の言葉と共に、俺の心眼に凄まじい光景が流れ込んできた。それは、歴史の中で積み重ねられてきた、人々の記憶の奔流だった。歓喜の金色、愛情の紅色、希望の青色。だが、それ以上に多かったのは、憎悪のどす黒い赤、嫉妬の腐った緑、絶望の冷たい紫。色と色は互いに混じり合い、濁り、淀み、世界全体を覆う巨大な汚泥と化していた。
「世界は、記憶の色で飽和してしまったのです。あまりに多くの色が重なり、互いを打ち消し合い、もはや新しい色を生み出す余地もない。だから世界は、自ら『調律』を始めたのです」
彼女が指し示した先で、俺は見た。町から失われたはずの色たちが、この洞に集い、互いに混じり合っている様を。だがそれは混沌ではない。無数の不協和音が、次第に一つの壮大な和音へと収斂していくように、全ての濁った色が洗い流され、巨大で純粋な「無色の光」へと昇華されようとしていた。
「世界は、一度すべてを無色透明に戻そうとしているのです。過去のしがらみ、対立、憎しみの記憶を浄化し、新たな調和の秩序を築くために。それは、世界の壮大な自己再生」
息が止まった。では、俺が今までやってきたことは?
「あなたが色を描き留める行為は、その淀んだ記憶を世界に繋ぎ止め、この神聖な調律を妨げること。良かれと思って振るったその筆が、世界の再生を遅らせ、古い苦しみに満ちた世界を延命させていただけなのです」
正義だと信じていたものが、最大の過ちだった。俺は、世界の救済者ではなく、破壊者だったのだ。足元から、世界が崩れていくような感覚に襲われた。
第六章 藍色の決別
仕事場に戻った俺は、茫然自失としていた。硝子の絵筆が、ずしりと重い。それはもはや救済の道具ではなく、呪いの鉄枷に思えた。
窓の外では、また一つ、色が消えた。夕暮れの空から「茜色」が失せ、灰色の帳が急速に下りてくる。人々の嘆く声が、遠く聞こえた。俺は、その声を聞きながら、ただ無力に座り込んでいることしかできなかった。
その時、ふと心の奥底に、一つの色が浮かび上がった。俺にとって、何よりも大切で、決して失いたくない色。幼い頃に俺に絵を教えてくれた、今は亡き師匠との思い出の「藍色」だ。師匠が染めた着物の色、彼が愛用した墨の色、そして俺の未来を案じてくれた深い眼差しの色。
この色だけは、失わせない。
俺は最後の力を振り絞り、硝子の絵筆を握った。和紙を広げ、師匠の記憶に意識を集中する。筆が震え、藍色の光を吸い上げ始めた。だが、その光に触れた瞬間、師匠の言葉が雷のように脳裏を貫いた。
『千景。良いか、物はいつか朽ちる。色はいつか褪せる。だが、真実は心に残る。お前は心の眼で、物事の奥にある真実を描くのだ』
真実を描け、と師匠は言った。俺が今、描こうとしているのは、真実か?それとも、過去への執着という名の、美しいだけの幻か?
この藍色を描き留めることは、師匠の教えに背くことになる。師匠の記憶を、古い世界の淀みの一部として、未来永劫縛り付けることになる。
指から力が抜けていく。俺は、ゆっくりと硝子の絵筆を床に置いた。
第七章 無色の夜明け
俺は、描かないことを選んだ。
ただ静かに座り、心に満ちる師匠の「藍色」が、一滴ずつ世界に還っていくのを感じていた。それは、身を切られるように切ない時間だった。だが不思議と、恐怖はなかった。藍色が完全に消え去った瞬間、俺の心に訪れたのは、深い静寂と、そして今まで感じたことのない解放感だった。
ふと顔を上げると、世界の様子が変わっていることに気づいた。
物理的な形は曖昧になり、全てが灰色の濃淡で描かれた水墨画のようだ。だが、その代わりに、新しい感覚が芽生え始めていた。隣家の赤子の泣き声は、ただの音ではない。その生命力そのものが、温かい波動として肌に伝わってくる。風に揺れる木の葉の音は、静かな喜びの歌のように聞こえる。
色というフィルターがなくなった世界では、存在の本質が、魂の響きが、直接心に届くのだ。
人々はまだ戸惑い、静まり返っている。だが、その静寂の中には、微かな共鳴が生まれていた。言葉を交わさずとも、互いの不安や、それでも生きていこうとする小さな希望が、さざ波のように伝わり合っている。これは、色に満ちた世界では決して得られなかった、魂の直接的な繋がりだった。
夜が明け、灰色の空が白んでいく。それは、俺が知っているどんな夜明けとも違っていた。だが、その無色の光の中に、俺は確かに新しい世界の始まりの気配を感じていた。無限の可能性を秘めた、透明な世界の始まりを。
俺は立ち上がり、窓を開けた。頬を撫でる風は、もう過去の匂いを運んではこない。そこには、まだ名前のない、未来の香りが満ちていた。