残響の色は黄金

残響の色は黄金

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第一章 色彩の牢獄

桐生弦之助の世界は、音ではなく色で満たされていた。

五年前、ある夜盗との斬り合いで頭に深手を負って以来、彼の耳は世の音の殆どを拾わなくなった。代わりに、彼の眼は常人には見えぬものを見るようになった。人の声、衣擦れの音、遠くで鳴く鳥の声、風が笹の葉を揺らす音。そのすべてが、色とりどりの光の粒子となって彼の網膜に焼き付くのだ。

静寂は、彼にとって絶え間ない色彩の洪水であった。誠実な言葉は澄んだ空色に、偽りに満ちた声は淀んだ泥のような褐色に、怒りは燃えるような深紅に。もはや彼は、人の言葉を耳で聞くのではなく、心の色を目で読んでいた。この力は、人を信じる心を彼から奪い、世を捨てさせ、城下の片隅にある離れで、ただ息をするだけの暮らしを選ばせた。

その日も、弦之助は縁側で目を閉じ、庭の木々が放つ静かな若草色の光のまたたきに身を委ねていた。聴こえぬ蝉時雨が、無数の金色の火花となって降り注ぐ。それは、彼にとって唯一、安らぎを感じられる時間だった。

その静寂を破ったのは、門を叩く控えめな音だった。それは鈍い鉛色の波紋となって、弦之助の意識を揺らした。渋々立ち上がり門を開けると、そこに立っていたのは、藩の勘定方筆頭、長谷部頼安の一人娘である小夜であった。麻の着物を着た彼女の周りには、深い悲しみを表す藍色のオーラが霧のように漂っていた。

「桐生様…」

その声は、震える銀色の細い糸となって弦之助の目に届いた。

「…小夜殿。このような場所に、何の御用かな」

弦之助の声は、彼自身にも錆びた鉄のような暗い赤色に見えた。人と話すのは、ひどく億劫だった。

小夜は俯いていた顔を上げた。涙で濡れた瞳が、必死の光を宿している。

「昨夜、父が…何者かに惨殺されました」

その言葉は、鋭い黒色の棘となって弦之助の胸に突き刺さった。長谷部頼安。清廉潔白で知られ、若い頃の弦之助に目をかけてくれた数少ない恩人だ。

「奉行所は、物盗りの仕業と。ですが、父の部屋からは何も盗まれてはおりませぬ。これは、ただの賊の犯行ではございません」

小夜の言葉は、一語一語が真実を示す、一点の曇りもない水晶の色をしていた。

「桐生様。あなた様が、かつて剣の腕だけでなく、人の心の奥底まで見抜く慧眼をお持ちだったと、父は申しておりました。どうか、お願いでございます。父の…父の最期の『声』を見つけてはいただけませぬか」

最後の言葉は、懇願の光を帯びた白金色となって、弦之助の世界を眩しく照らした。

最期の『声』を見つける。それは、彼にしかできぬ依頼だった。断ることはできた。再び、濁色に満ちた人の世の闇に関わるなど、考えるだけで吐き気がした。だが、恩人の娘が放つ、悲痛で純粋な光の色から、彼はどうしても目を逸らすことができなかった。

「…分かった」

錆びついた声でそう答えた時、弦之助は、止まっていた自分の人生の歯車が、軋みを上げて再び回り始めるのを感じていた。彼の色彩の牢獄に、一筋の光が差し込んだ瞬間だった。

第二章 濁色の残響

長谷部の屋敷は、重苦しい沈黙に支配されていた。弦之助が案内された惨劇の現場は、血の匂いこそ拭われていたが、そこにはまだ、忌まわしい色の残響が渦巻いていた。血飛沫が残したであろう赤黒い斑点。そして、部屋の隅々にこびりつくように漂う、恐怖と苦痛を示すどす黒い紫の粒子。弦之助は目を細め、その残響の中から、長谷部頼安本人が放ったであろう色を探した。

彼は、畳、柱、障子に残された微かな音の痕跡に意識を集中させる。犯人が放ったであろう殺意の色、頼安の断末魔の色。それらを見つけ出せば、何か手がかりが得られるはずだった。

しかし、いくら目を凝らしても、奇妙なことに頼安自身の恐怖や苦痛を示す色はどこにも見当たらなかった。あるのは、犯人のものと思われる、得体の知れない激情の赤黒い残響だけ。まるで、頼安は己の死を、何の抵抗もなく受け入れたかのようだった。

弦之助は、藩の重臣たちから話を聞いて回った。家老の屋敷、目付の詰所。彼らの言葉は、一様に頼安の死を悼む色をしていたが、その奥底には、奇妙な安堵や怯えを示す濁った色が混じっていた。特に、頼安と対立していたと言われる派閥の長、大槻主膳の声は、表面上は穏やかな藤色を装いながら、その芯には蛇のような粘りつく緑色の嘘が絡みついていた。

「長谷部殿の死は、当藩にとって大きな損失。一日も早い犯人逮捕を願うばかりだ」

その言葉が、どれほど空虚なものか、弦之助には痛いほど分かった。誰もが何かを隠している。この事件の裏には、藩全体を覆う巨大な闇が存在しているのだ。

調査を進めるほどに、弦之助は五年前の記憶に苛まれた。彼が聴力を失うきっかけとなったあの事件。藩の御用金を狙った盗賊団との乱戦。しかし、あれは本当にただの盗賊だったのか。あの時、斬りかかってきた男の背後に、藩の要職の者の影が見えた気がした。だが、深手を負った彼の証言は取り上げられず、事件は闇に葬られた。以来、彼は藩の闇から目を背けて生きてきたのだ。

「桐生様、何か分かりましたか」

離れに戻った弦之助を、小夜が不安げな表情で待っていた。彼女の周りには、変わらず純粋な藍色の悲しみが漂っている。その色を見るたび、弦之助の胸は締め付けられた。

「…まだだ。だが、皆、何かを隠しておる」

弦之助は、己の無力さに苛立ちを感じていた。この呪われた力は、人の嘘を見抜くことはできても、その奥にある真実までは届かない。ただ、不快な色の洪水に溺れるだけだ。

「父は、死の数日前、頻りに『藩の礎が腐っておる』と嘆いておりました。何か、大きな不正を掴んでいたのかもしれません」

小夜の言葉が、弦之-助の思考に一条の光を差した。不正。それこそが、皆が隠そうとしていることの正体ではないか。長谷部頼安は、そのために消されたのか。

その夜、弦之助は眠れずにいた。目を閉じれば、様々な人間の嘘の色が瞼の裏で渦を巻く。うんざりして目を開けると、月光が庭石を白く照らしていた。その時、ふと、ある違和感に気づいた。事件現場で感じた、あの犯人のものと思われる赤黒い激情の色。それは、殺意にしてはどこか歪で、まるで己を罰するような、自傷的な色合いを帯びていた。あれは、本当に他人へ向けられた殺意の色だったのだろうか。

疑念が、もやのように心に広がり始めていた。

第三章 黄金の遺言

弦之助は再び長谷部の屋敷を訪れた。もう一度、あの現場を確かめる必要があった。小夜の案内で部屋に入り、彼はすべての意識を集中させ、目を閉じた。視覚を断ち、この身に宿る不思議な感覚だけを研ぎ澄ます。

濁った色の残響の奥へ、さらに奥へ。時間の流れを遡るように、彼は事件の瞬間の「音」を探った。犯人の太刀筋、頼安の最期の息遣い。それらが残したであろう、微細な色の粒子を辿る。

すると、彼の意識の暗闇の中に、ふと、一点の光が灯った。それは、これまで見落としていた、部屋の最も奥、床柱の傷の中に埋もれるようにして残っていた、ごく微かな色の欠片だった。

弦之助はっと目を開け、その床柱に駆け寄った。そこには、刀傷と思われるものが深く刻まれている。その傷の最も深い場所に、それはあった。

黄金色。

後光が差すような、荘厳で、慈愛に満ちた黄金の色。それは、人が生涯で最も純粋な決意を固めた時や、深い愛を捧げる時にしか放つことのない、至高の色だった。苦痛や恐怖を示す色は、どこにもない。

弦之助は愕然とした。これが、長谷部頼安の最期の声の色だというのか。殺される人間の断末魔が、こんなにも美しく、穏やかな色であるはずがない。

全身に鳥肌が立った。思考が稲妻のように閃く。

あの現場にあった、犯人のものと思われた赤黒い激情の色。あれは、己を罰するような自傷的な色合いを帯びていた。そして、被害者の最期の色は、崇高な決意を示す黄金色。

二つの色が、弦之助の頭の中で結びついた。ありえない、だが、それしか考えられない結論が浮かび上がった。

犯人は、長谷部頼安自身だった。

彼は自ら、己の命を絶ったのだ。殺害に見せかけるために、わざと部屋を荒らし、己の体に凄惨な傷をつけた。あの赤黒い色は、自らを斬る痛みと、愛する藩と娘を遺していく悲しみが混じり合った、凄絶な激情の色だったのだ。

なぜ、そんなことを。小夜の言葉が蘇る。「藩の礎が腐っておる」。頼安は、藩を揺るがすほどの巨大な不正の証拠を掴んだのだ。だが、それを公にすれば、藩は幕府からお取り潰しの沙汰を受け、多くの藩士や民が路頭に迷うことになる。かといって、不正を黙認することも彼の正義が許さなかった。

進むも地獄、退くも地獄。その絶望的な状況で、彼が選んだ第三の道。それは、自らの死をもって不正の存在を告発し、同時に、その解決を信頼できる誰かに託すことだった。

そして、その「誰か」こそ、この桐生弦之助だったのだ。

頼安は、弦之助が音を色として見る能力を持つことを知っていた。だからこそ、彼は自らの死という、最も大きく、最も純粋な「音」を遺した。この黄金色の遺言は、弦之助にだけ届く、声なきメッセージだったのだ。

「そうか…長谷部殿…」

弦之助は床柱に手をつき、崩れ落ちそうになる体を支えた。恩人の壮絶な覚悟を前に、彼は言葉を失った。世を捨て、ただ無為に日々を過ごしていた自分に、これほどの信頼と覚悟が託されていた。その重みが、ずしりと両肩にのしかかってきた。

第四章 声なき声の行方

翌日、弦之助は登城した。彼の纏う空気は、以前の世捨て人のそれとはまるで違っていた。その背筋は真っ直ぐに伸び、瞳には鋼のような強い意志の色が宿っていた。

評定の間に呼び出された彼は、藩主と重臣たちが居並ぶ前で、静かに口を開いた。彼の声は、もはや錆びた鉄の色ではなかった。磨き上げられた刃のような、鋭い銀色を放っていた。

「長谷部頼安殿の死は、自刃にございます。されど、それは藩の巨悪を正さんがための、死を賭した諫言。皆々様が隠し通そうとしている、公金横領の事実を、長谷部殿は己の命をもって私に託されました」

彼の言葉に、場は騒然となった。特に大槻主膳は顔色を変え、濁った緑色の声を荒らげた。

「馬鹿なことを!乱心したか、桐生!そのような戯言、誰が信じるものか!」

「信じる信じないの問題ではござらん」

弦之助は大槻を真っ直ぐに見据えた。

「大槻殿、あなたの声は今、嘘と焦りを示す汚れた緑色に染まっております。こちらの勘定方の声は、怯えの灰色。そして…」

弦之助は、居並ぶ重臣たち一人一人の「声の色」を次々と暴いていった。それは、常人には理解不能な言葉だった。だが、彼の揺るぎない態度と、真実を射抜くような眼光は、嘘を重ねる者たちの心を激しく揺さぶった。彼らは、弦之助の目に、自分たちの魂が裸にされているような恐怖を感じていた。

やがて、追い詰められた一人の若侍が顔面蒼白となり、すべてを白状した。大槻主膳を中心とした公金横領の事実、そして、それに気づいた長谷部頼安を口封じしようとしていた計画まで。

事件の真相は、白日の下に晒された。

数日後、藩に大きな粛清の嵐が吹き荒れた。主犯の大槻は切腹を命じられ、不正に関わった者たちは然るべき罰を受けた。藩は大きな痛手を負ったが、膿を出し切ったことで、再生への道を歩み始めることになった。

弦之助は、再び城下の離れで静かな暮らしに戻った。だが、彼の見る世界は、以前とは全く違って見えた。かつては彼を苛むだけだった色彩の洪水は、今や、世界の様々な声が織りなす美しい交響曲のように感じられた。呪いだと思っていた力は、人の心を繋ぎ、声なき声を拾い上げるための天啓だったのかもしれない。彼は、ようやく自分自身と、この世界を許すことができた。

夕暮れ時、小夜が礼を言いに訪れた。

「桐生様。本当に、ありがとうございました」

彼女の声は、悲しみの藍色から、感謝と未来への希望に満ちた、温かい黄金色に変わっていた。それは、彼女の父が最期に遺した色と、まったく同じだった。

弦之助は、何も言わず、ただ穏やかに微笑んだ。

小夜が帰った後、彼は一人、縁側に座って空を眺めた。茜色に染まる空が、壮大な音楽を奏でているように見えた。風が彼の頬を撫で、笹の葉が優しい緑色の光を放ちながら囁きかける。

世界は、こんなにも美しい色で満ちていた。

聴こえなくとも、この世界に満ちる声は、確かに彼の心に届いていた。長谷部頼安の黄金の遺言は、桐生弦之助という男の魂を救い、そして未来へと繋がれていく。彼は静かに目を閉じ、世界の色彩に耳を澄ませた。

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