第一章 霞の中の面影
江戸の片隅、昼なお薄暗い裏路地に、龍之介のささやかな画室はあった。煤けた障子に差し込む光は頼りなく、部屋には墨と顔料の匂いが静かに満ちている。彼は「夢絵師」だった。人の見た夢を聞き、それを一枚の絵として描き出すことを生業としていた。客は、亡き人を夢に見た者、吉夢を祝い形に残したい者、あるいは悪夢にうなされる者など様々だった。龍之介の筆は、形のない夜の記憶に、確かな輪郭と色彩を与えた。
ある雨の日の午後、彼の画室に不釣り合いなほど上等な駕籠が止まった。現れたのは、大目付の榊原忠顕(さかきばらただあき)その人であった。冷徹な仕事ぶりで知られ、その名を聞けば鬼も退くと噂される男だ。龍之介は背筋に冷たいものが走るのを感じながら、土間に深く頭を下げた。
「面を上げよ」
低く、しかしよく通る声だった。榊原は値踏みするように画室を見回し、やがて龍之介の瞳をまっすぐに射抜いた。
「そなたが、夢を絵にすると噂の龍之介か」
「は、はい。左様にございます」
「奇妙なことを頼みたい。引き受けてくれるか」
榊原の依頼は、まさに奇妙の一言に尽きた。毎夜、彼の夢に現れるという、名も知らぬ一人の女を描いてほしい、というのだ。
「その女は、いつも静かな水辺に佇んでおる。顔は……霞がかかったように、よう見えぬ。ただ、穏やかに微笑んでいることだけは分かるのだ。その微笑みを、どうしても形にしておきたい」
破格の報酬が提示された。しかし、龍之介の心を捉えたのは金子ではなかった。法の番人として恐れられる男が、なぜ夢の中の女にこれほど執着するのか。その謎めいた依頼に、絵師としての血が騒いだ。
「お引き受けいたします。まずは、その夢の景色を、些細なことでも結構ですのでお聞かせ願えますでしょうか」
龍之介は画仙紙を広げ、墨をする。榊原はぽつりぽつりと語り始めた。月明かりに照らされた水面、揺れる葦の葉、そしてそこに立つ女の朧げな姿。龍之介は全神経を集中させ、その言葉を絵に写し取ろうとした。しかし、何度描いても、肝心の女の顔だけが描けなかった。榊原の言葉通り、まるで深い霧の向こうにいるかのように、その面影は掴みどころがなかった。龍之介の筆が、初めて人の夢を捉えきれずにいた。その事実は、彼の内に静かな焦りと、抗いがたい好奇心を同時に掻き立てるのだった。
第二章 重なる夢、揺らぐ現実
それから、龍之介は幾度となく榊原の屋敷に呼ばれた。静まり返った書院で、二人は向き合った。榊原は、香を焚きしめ、目を閉じて夢を語る。龍之介は、その言葉のひだに隠された感情の色を探りながら、一心に筆を動かした。
描き直すたびに、絵は精緻になっていった。月光の冷たさ、水の匂い、風にそよぐ着物の裾。だが、やはり女の顔だけが、どうしても完成しない。榊原は、出来上がった絵をじっと見つめ、静かに首を横に振るのだった。
「違う。もっと……もっと、心が安らぐような微笑みだった」
龍之介は、次第に榊原という人間に惹きつけられていた。世間が噂するような冷血漢ではなく、彼の内には深い孤独と、癒やされぬ渇きのようなものが渦巻いているように思えた。夢の中の女は、彼の唯一の安息所なのだろう。
「その方は、どなたか心当たりのあるお方では?」
龍之介が思い切って尋ねると、榊原は寂しげに目を伏せた。
「いや……全く。もし実在の者なら、江戸中をひっくり返してでも見つけ出すのだがな」
その言葉に、龍之介はひとつの仮説を立てた。この女は、榊原が過去に出会った誰かではないか。本人は忘れていても、その記憶が夢となって現れているのではないか。もしそうなら、手掛かりは榊原の過去にあるはずだ。
龍之介は、絵師の仕事の傍ら、榊原がこれまでに関わった大きな裁きの記録を調べ始めた。古物商からこっそりと手に入れた瓦版や、噂話の類を丹念に拾い集める。無数の事件、無数の人々の名がそこにはあった。その膨大な記録の海の中から、夢の女に繋がる一筋の糸を探し出すのは、砂浜で針を探すような作業だった。
数週間が過ぎた頃、龍之介の目にひとつの記事が留まった。五年前に起きた、大店の暖簾分けを巡る不正事件。その首謀者として裁かれ、打ち首となった主人の横に、小さな文字で記された名があった。
『娘・小夜(さよ)、事件の後、行方知れず』
記事に添えられた粗末な木版画の似顔絵は、不鮮明ながらも、どこか夢の中の女の面影を宿しているように見えた。水辺に佇む女。もしかしたら、その店は川沿いにあったのではないか。龍之介の胸は高鳴った。彼はついに、霞の向こうにいる女の正体に、手をかけたのかもしれない。
第三章 偽りの肖像
龍之介は、かつて小夜の店があったという日本橋のたもとを訪れた。今はもう別の店が建っている。彼は近隣の古老たちに話を聞いて回った。五年前の事件を覚えている者は多く、皆一様に口を濁した。
「ああ、あの伊勢屋のご主人かい。欲に目がくらんだと役人様は言ったが、本当は嵌められたんだという噂さ。気の毒になあ」
「娘さん? 小夜さんだね。そりゃあ評判の、心根の優しい美人だったよ。父親が捕まってからは、心労で病に臥せって、ひと月も経たずに後を追うように亡くなったって聞いたが…」
龍之介は、小夜の儚い生涯に胸を痛めながらも、確信を深めていた。榊原が見る夢の女は、この小夜に違いない。彼は、小夜を知る人々から聞いた話を頼りに、再び筆を取った。柳眉、涼やかな目元、薄い唇。人々が語る「心優しい娘」の面影を、榊原が語る「安らぎの微笑み」に重ね合わせる。
そしてついに、一枚の肖像画が完成した。月明かりの下、水辺に佇み、慈愛に満ちた笑みを浮かべる女。それは、誰が見ても心が洗われるような、美しい絵だった。
龍之介は完成した絵を携え、榊原の屋敷へ向かった。書院に通された彼は、緊張しながら絵を榊原の前に差し出した。榊原は絵を一目見るなり、息を呑んだ。その目が見開かれ、かすかに震えている。
「……これだ。この顔だ。まさしく、夢の女だ」
榊原の声は感極まっていた。彼は絵から目を離さず、まるで聖母像に祈りを捧げるかのように、その表情に見入っている。龍之介は、安堵の息をつくと同時に、最後の謎をぶつけた。
「榊原様。この方は、五年前に貴方様が裁かれた伊勢屋の娘、小夜殿ではございませんか」
その名を聞いた瞬間、榊原の顔から血の気が引いた。だが、彼はすぐに平静を取り戻し、深く頷いた。
「…よくぞ突き止めた。そうだ。私は、無実と知りながら、幕府の威信のため、あの男に罪を着せた。その娘、小夜は、父親の無実を訴え続けた末に、病で死んだ。私のせいだ」
罪の告白。龍之介は、榊原の苦悩の深さを知り、言葉を失った。この美しい夢は、彼の罪悪感が生み出した贖罪の幻だったのだ。
しかし、その時、榊原が絞り出すように呟いた言葉が、龍之介の世界を根底から覆した。
「これで、ようやく私も……あの恐ろしい夢から解放される」
「恐ろしい、夢?」龍之介は聞き返した。「穏やかで、安らぎに満ちた夢ではなかったのですか?」
榊原は、まるで憑き物が落ちたかのように、虚ろな笑みを浮かべた。
「安らぎだと? 馬鹿を言え。私が毎夜見るのは、血の涙を流し、私を呪い、水底へ引きずり込もうとする小夜の姿だ。助けてくれと叫ぶ私を、ただ無表情に見下ろす悪夢だ。私は、その恐ろしい夢を、お前の筆で美しい夢に描き変えさせたかったのだ。この絵があれば、私の罪も、この美しい偽りの記憶に塗り替えられる……」
衝撃が龍之介の全身を貫いた。彼は、人の心を癒やすために絵を描いていると思っていた。だが、違った。自分は、権力者の罪を糊塗し、真実を捻じ曲げるための道具にされていたのだ。自分が精魂込めて描いたこの美しい肖像画は、榊原の醜い罪悪感を覆い隠すための、ただの「偽りの肖像」に過ぎなかった。画室に満ちていた墨の匂いが、途端に腐臭のように感じられた。
第四章 真実を写す筆
画室に戻った龍之介は、茫然と座り込んでいた。目の前には、榊原から受け取ったずしりと重い礼金の包み。そして、脳裏には、自分が描いた小夜の慈愛に満ちた微笑みが焼き付いている。それは、あまりにも美しい嘘だった。
自分の筆は何のためにあるのか。人の心に寄り添うとは、どういうことなのか。偽りの安らぎを与えることが、本当に救いになるのか。答えの出ない問いが、彼の心を苛んだ。もし、自分がこのまま金子を受け取り、口をつぐめば、絵師として安泰な暮らしが待っているだろう。だが、それでは、自分の魂を榊原に売り渡すのと同じことだ。
夜が明ける頃、龍之介は静かに立ち上がった。彼は榊原に返された「偽りの肖像」を手に取ると、ためらうことなく、びりびりと引き裂いた。そして、新しい画仙紙を広げ、一心不乱に筆を走らせた。
彼が描いたのは、榊原が本当に見ている夢。闇よりも深い水の中から現れ、濡れた髪を顔に貼りつかせ、怨嗟と悲しみに満ちた瞳でこちらを睨みつける小夜の姿だった。その表情には、もはや安らぎのかけらもない。あるのは、裁かれることのなかった真実の痛みと、裁いた者への消えることのない問いかけだけだった。
龍之介は、完成したその絵を抱え、再び榊原の屋敷の門を叩いた。彼は金子を突き返し、書院で待つ榊原の前に、新しい絵を突きつけた。
「貴方様が本当に見るべき夢は、こちらでございます」
絵を見た榊原は、顔面蒼白になり、わなわなと震えだした。彼は椅子から崩れ落ち、畳に手をついて嗚咽を漏らした。それは、彼の罪そのものが、そこにあったからだ。美化もされず、言い訳も許されぬ、ありのままの罪の姿が。
「……そうだ。これが……これが、私の夜だ」
榊原は、絵から目を逸らすことができなかった。龍之介は静かに言った。
「その痛みから目を逸らさぬことこそが、貴方様にとっての、唯一の弔いなのではございませんか」
一月後、大目付・榊原忠顕は、病を理由に全ての職を辞した。彼は私財を投じて小夜の菩提を弔うための小さな寺を建て、その余生を、決して消えることのない罪と共に生きていくことを選んだという。
龍之介は、夢絵師を続けていた。しかし、彼の筆は以前とは変わっていた。彼はもう、ただ心地よい夢や、美しいだけの幻を描くことはなかった。彼の描く絵は、時に人の心の奥底に眠る痛みや、目を背けたいと願う闇をも容赦なく写し取った。それは、依頼人にとって厳しい真実を突きつけることもあった。だが、その先にこそ、偽りの安らぎではない、真の救済があると信じていたからだ。
ある日、一人の老人が龍之介を訪ねてきた。
「先生。どうか、三十年前に亡くした妻の夢を描いてはいただけぬか。一番幸せだった頃の、あの笑顔を……」
龍之介は、老人の目をじっと見つめ、静かに頷いた。そして、墨をする。彼の筆がこれから描くのは、甘い思い出か、それとも隠された真実か。その答えは、まだ白紙の画仙紙の上に、静かに眠っている。