共感の収穫者

共感の収穫者

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第一章 静寂のスコア

相馬拓人(そうま たくと)の世界は、常に静寂に満ちていた。ガラスと鋼鉄でできた共感庁のオフィスは、音を吸収する壁材で覆われ、職員たちのキーボードを叩く音すら、遠い雨音のように微かに響くだけだ。彼の精神もまた、このオフィスと同じだった。感情の波紋を立てず、常に平坦で、凪いでいる。それが、この社会における「理想の市民」の姿だった。

近未来の日本。政府は「共感社会実現法」を施行し、全国民の「共感能力」を数値化するシステムを導入した。手首に装着されたウェアラブルデバイスが、脳波や心拍、微細な表情筋の動きを読み取り、「共感スコア」をリアルタイムで算出する。高いスコアを持つ者は、進学、就職、さらにはローンの金利まで優遇される。逆に、スコアが低い者は「非協調的」と見なされ、社会の隅へと追いやられる。

拓人は、そのシステムを管理するエリート機関「共感庁」の若きエースだった。彼のスコアは常に95ポイント以上を維持している。悲しいニュース映像を見れば、彼のデバイスは即座に適切な同情パターンを検出し、スコアを加算する。他人の成功を耳にすれば、模範的な祝福の反応を示し、さらにスコアは上がる。それはもはや技術であり、拓人にとって呼吸をするのと同じくらい自然な行為だった。彼自身、そのシステムが社会から無用な争いをなくし、人々を幸福に導くと信じて疑わなかった。

そんな彼の完璧な日常に、ある日、一枚の報告書がノイズを走らせた。

「対象名:伊吹 宗一郎。共感スコア、計測不能。継続的エラーを確認。コードネーム『ゴースト』」

報告書に添付された、古びた写真の老人は、深い皺の刻まれた顔で静かに笑っていた。計測不能――そんなことはありえない。システムは完璧なはずだ。拓人の上司は、低い声で命じた。「相馬君、君が行ってくれ。このシステムのバグを、直接その目で見て、原因を特定し、排除したまえ」

拓人は、都心から外れた古い街並みの一角にある、伊吹が営むという古書店『時の忘れ物』へと向かった。埃っぽい空気に満ちたその場所は、まるで拓人が生きる世界とは異なる時間が流れているかのようだった。古い紙とインクの匂いが、彼の無菌の嗅覚を戸惑わせる。

店の奥のカウンターで、一人の老人が静かに本を読んでいた。伊吹宗一郎だった。彼の腕には、旧式の腕時計があるだけで、市民の義務であるはずのデバイスはなかった。拓人が近づいても、伊吹は顔を上げない。

「伊吹さん。共感庁の者です。あなたのデバイスについて調査に…」

「ああ、お役人さんか」

伊吹はゆっくりと顔を上げた。その目は、拓人がこれまで見てきたどの人間の目とも違っていた。スコアの高い人間が浮かべる計算された同情でも、低い人間が見せる卑屈な怯えでもない。ただ、静かで、底なしの深淵のように、拓人の内面を見透かしているような瞳だった。

「わしのスコアがどうかしたのかね。そんなもの、とうの昔に壊れて捨てたよ」

「それは法律違反です」拓人は冷静に返した。

「法律ねぇ…」伊吹はふっと笑った。「君、雨の匂いが好きかね?それとも、夕焼けに染まる雲の色は?そういうものに心を動かされた時、君のスコアは何ポイントになるんだい?」

その問いに、拓人は答えられなかった。システムが評価するのは、あくまで他者に対する「共感」だ。自然や芸術に対する感動は、スコアの対象外。無価値な感情だ。だが、伊吹の言葉は、拓人の静寂な心に、小さな石を投げ込んだ。その波紋は、ごく微かだったが、確かに彼の足元を揺るがしていた。

第二章 色褪せた古書店の温もり

拓人の調査は、奇妙な日課となった。彼は毎日、仕事帰りに『時の忘れ物』へ通い、伊吹と、そこに集う人々を観察した。彼らは皆、一様に共感スコアが低い「社会不適合者」の烙印を押された者たちだった。職を失った中年男性、夢を諦めた若い芸術家、世間話をするのが苦手な主婦。システムが支配する世界では、彼らは透明な壁で隔てられた存在だった。

しかし、その古書店の中では、誰もスコアを気にしなかった。彼らは互いの失敗談を笑い合い、淹れたての少し苦いコーヒーを分け合い、黙って隣に座るだけで互いを慰めているようだった。そこには、共感庁が掲げる「模範的な共感」のテンプレートは存在しない。だが、冷たいガラス張りのオフィスには決してない、不器用で、ざらついた、しかし確かな温もりが満ちていた。

ある雨の日、拓人は店先でずぶ濡れになっていた子猫を見つけた。どうすればいいか分からない。システムは、こういう時、動物愛護団体に連絡するという「正解」を示すだろう。だが、体が動かなかった。その時、伊吹が黙って出てきて、子猫をそっとタオルで包み、温かいミルクを与えた。

「可哀想に、なんて思ってやるだけじゃ、こいつの腹は膨れんよ」伊吹は拓人を見ずに言った。「心が動くってのは、数字になることじゃない。体が動くことだ」

その言葉が、拓人の胸に突き刺さった。彼はこれまで、数えきれないほどの「可哀想」をスコアに変えてきた。しかし、実際に手を差し伸べたことは一度もなかった。それが最も効率的で、正しいやり方だと教えられてきたからだ。

拓人は、店の片隅で、若い芸術家が描いた一枚の絵に目を留めた。それは、灰色だけの世界に、一輪だけ真っ赤な花が咲いている絵だった。

「いいね、それ」声をかけてきたのは、その絵の作者だった。スコア32ポイント。拓人なら普段、会話すらしない相手だ。

「この赤は、何を表しているんですか?」拓人は無意識に尋ねていた。

「怒り、ですかね」青年は照れくさそうに笑った。「社会とか、自分自身とかに対する。でも、怒りって、悪いことばかりじゃないと思うんです。何かを変えたいって思う、最初のエネルギーだから」

怒り。拓人が久しく忘れていた感情だった。システムは、怒りや嫉妬といったネガティブな感情を「非共感的」としてマイナス評価する。だから、人々はそうした感情に蓋をし、穏やかで無表情な仮面を被って生きている。拓人も、その仮面を完璧に着こなしている一人だった。だが本当に、それでいいのだろうか。

その夜、拓人は自宅のアーカイブから、幼い頃の自分の映像記録を再生した。そこには、泥だらけになって泣き、些細なことで大笑いし、友達と本気で喧嘩する、感情豊かな少年がいた。今の自分とはまるで別人だ。いつから、自分は心を殺して生きるようになったのだろう。伊吹という「バグ」は、拓人自身の内に潜んでいた、人間性のバグを浮かび上がらせていた。

第三章 共感の収穫者

疑念は、一度芽生えると、恐ろしい速さで心を蝕んでいく。拓人は、自らが仕えるシステムの根幹に、何か巨大な嘘が隠されているのではないかと感じ始めていた。彼は共感庁のトップエリートとしての権限を使い、深夜のオフィスで、システムの最深部にある極秘データへのアクセスを試みた。幾重にも張り巡らされたセキュリティを、自身の知識と技術のすべてを駆使して突破していく。背中を冷たい汗が伝った。これは、彼のキャリアと人生のすべてを破壊しかねない行為だった。

そして、彼はついに核心へとたどり着いた。そこに記されていたのは、共感社会の理想などではなかった。それは、国家による壮大な搾取システムの設計図だった。

『プロジェクト・ハーヴェスト』

その名が付けられた計画の全貌は、拓人の呼吸を止めるのに十分だった。「共感スコア」システムは、人々の共感を測定しているのではなかった。それは、人々が他者に共感する際に脳内で発生する特殊な神経活動パターン、いわば「感情のエネルギー」を、デバイスを通じて密かに**収穫(ハーヴェスト)**するためのものだったのだ。

収集された純粋な感情エネルギーは、超高度なAIの演算資源や、国家の意思決定システムの動力源として利用されていた。国民は、自分たちの最も人間的な部分を、知らず知らずのうちに国家に吸い上げられ、社会を動かすための「燃料」にされていたのだ。

高いスコアを持つ者ほど、より効率的に、より多くのエネルギーを搾取される「優良な家畜」に過ぎなかった。拓人自身、誰よりも多くを収穫されてきた一人だった。そして、伊吹のような「ゴースト」は、なぜ計測不能だったのか。その答えもそこにあった。彼らは、システムが解析できない、あるいは規格外の、あまりに複雑で豊かな感情パターンを持つため、エネルギーとして「収穫」できないのだ。だから、システムは彼らを「バグ」や「エラー」として社会から排除しようとしていた。

拓人は愕然とした。全身の力が抜け、椅子に崩れ落ちる。彼の信じてきた正義、彼が築き上げてきた人生、そのすべてが、巨大な欺瞞の上に成り立っていた。人々を幸福にするためのシステムではなかった。人々を管理し、感情を収奪するための、見えざる檻だったのだ。

静寂なオフィスの中で、拓人は初めて、心の底からの「怒り」が燃え上がるのを感じた。それは、スコアのためではない、計算されたものではない、本物の激情だった。騙されていた自分自身への怒り。人々を家畜のように扱う国家への怒り。その熱い感情は、青年が描いていた絵の中の、一輪の赤い花のように、彼の灰色の世界を鮮烈に染め上げた。彼はもはや、システムの忠実な僕ではなかった。彼は、システムを内側から破壊する、解放のノイズになることを決意した。

第四章 解放のノイズ

計画は、静かに、しかし着実に進められた。拓人は伊吹にすべてを打ち明けた。伊吹は驚くでもなく、ただ静かに頷き、「君が君自身の心で決めたことなら、手を貸そう」と言った。古書店に集う人々も、拓人の協力者となった。彼らは、システムの監視網から外れたアナログな方法で連絡を取り合い、それぞれの持つささやかな技術や知識を結集させた。

決行の夜。拓人は再び共感庁のサーバーに侵入した。しかし、今回は破壊が目的ではなかった。彼は、収穫され、データとして貯蔵されていた膨大な「感情エネルギー」を、本来の持ち主へと返すプログラムを起動させた。それは単なるエネルギーではなかった。一つ一つが、誰かの喜びであり、悲しみであり、愛であり、失われた記憶の断片だった。

プログラムが実行されると、日本中の人々のデバイスが一斉に光を放った。スコア表示が消え、代わりに、彼ら自身が忘れていた感情の奔流が、映像や音、そして言葉にならない感覚として脳内に流れ込んできた。初めて我が子を抱いた日の歓喜。愛する人を失った日の絶望。些細なことで笑い合った友人の顔。人々は街中で立ち尽くし、泣き、笑い、あるいは困惑した。数値という軛から解き放たれた生身の感情が、社会に溢れかえったのだ。

システムは崩壊し、社会は一時的に大混乱に陥った。しかし、それは破壊ではなかった。再生の始まりだった。人々は、スコアを気にすることなく、隣にいる人間と、不器用に、しかし懸命に言葉を交わし始めた。

拓人は、追われる身となった。彼はすべての痕跡を消し、人々の前から姿を消す前に、最後に一度だけ『時の忘れ物』を訪れた。店には伊吹が一人、いつものように静かに座っていた。

「これから、世界はどうなるんでしょうか」拓人は尋ねた。

「さあな。わしにも分からんよ」伊吹は微笑んだ。「だが、きっと前よりは少しだけ、面倒で、やかましくて、面白い世界になるだろうさ。人間が、人間のままでいられる世界に、な」

伊吹は、カウンターの引き出しから一枚の色褪せた写真を拓人に手渡した。それは、共感庁が彼の個人データから削除していた、幼い拓人と両親の写真だった。太陽の下で、三人ともが、感情のままに、くしゃくしゃの笑顔を浮かべている。

その写真を見た瞬間、拓人の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみでも喜びでもない、ただ、失っていた自分自身を取り戻した証の、温かい雫だった。

拓人は誰にも告げず、夜の街へと消えていった。彼がどこへ向かったのか、誰も知らない。しかし、人々が再び本当の繋がりを模索し始めたこの世界のどこかで、彼はきっと、雨の匂いや、夕焼けの雲の色に、静かに心を動かしていることだろう。数値では測れない、そのかけがえのない瞬間の価値を、誰よりも深く噛み締めながら。

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