君が捨てた、世界の音色

君が捨てた、世界の音色

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第一章 焼却炉のレクイエム

僕、笹川湊には秘密がある。物に触れると、そこに込められた持ち主の強い記憶が見えるのだ。ただし、それは「捨てられた」物にだけ発動する、厄介なサイコメトリーだった。だから僕は、他人と深く関わることをやめた。彼らの感情の残滓に振り回されるのは、もううんざりだったからだ。

僕の日常は、人知れず捨てられたガラクタを拾い、その記憶の断片を覗き見ることで成り立っていた。それは他人の人生を盗み見するような、後ろ暗い慰めだった。

その日も、僕は放課後の校舎裏、古びた焼却炉のそばにいた。錆びた鉄の匂いと、湿った土の匂いが混じり合う場所。生徒たちが捨てた、ありふれた青春の残骸が散らばっている。そんな中で、一枚だけ、ひときわ異彩を放つものがあった。

風に飛ばされ、金網に引っかかっていた一枚の楽譜。それは手書きで、インクが少し滲んでいる。誰もが知る卒業ソングだが、そこには繊細で複雑なアレンジが加えられていた。まるで、ありふれた別れの歌に、特別な意味を与えようとするかのように。

好奇心に抗えず、僕はそっと指先でその楽譜に触れた。

瞬間、世界が反転した。

夕陽が差し込む音楽室。埃が光の筋となって踊る中、誰かがピアノを弾いている。鍵盤を滑る指の動きは、迷いなく、力強い。奏でられる音色は、歓喜と、どうしようもないほどの哀しみが溶け合った、胸を締め付けるような旋律だった。そして、そのピアノのそばで、一人の少女がうっとりと目を閉じて聴き入っている。逆光で、その横顔は影になって見えない。だが、その佇まいだけで、彼女がその音の世界のすべてを愛していることが伝わってきた。

ビジョンは数秒で消え、僕は焼却炉の前に立ち尽くしていた。心臓が早鐘を打っている。今のは、誰の記憶だ?

翌日、その楽譜の噂は、教室の片隅で囁かれていた。「あれ、月島響のじゃないか」。

月島響。二年生の、僕のクラスメイト。艶やかな黒髪を肩で切り揃え、いつもどこか遠くを見つめている少女。かつては「ピアノの天才」と持て囃されていたが、一年前のコンクールでの失敗を境に、ぴたりとピアノをやめてしまった。今では音楽室に寄り付かず、いつもワイヤレスイヤホンで耳を塞ぎ、自分だけの世界に閉じこもっている。

彼女が、あんなにもエモーショナルな音を? そして、あの記憶を捨てた?

僕は手の中の楽譜を強く握りしめた。これはただのガラクタじゃない。閉ざされた彼女の心につながる、唯一の鍵かもしれない。僕の退屈な日常が、初めて音を立てて動き出した瞬間だった。

第二章 断片のメロディ

月島響という存在が、僕の中で急速に大きくなっていった。授業中、無意識に彼女の背中を目で追ってしまう。昼休み、中庭のベンチで一人、イヤホンで音楽を聴く彼女の姿を遠くから眺める。彼女が聴いているのはどんな音楽だろう。僕が触れた、あの楽譜の旋律だろうか。

話しかける勇気は、まだなかった。僕のこの能力は、誰にも理解されない。それに、彼女の記憶を勝手に覗き見たという罪悪感が、鉛のように僕の足に絡みついていた。

だから僕は、もっと彼女の「捨てられた記憶」を探すことにした。彼女を理解するための、歪んだ手がかり集めだ。

最初に見つけたのは、古紙回収の箱に紛れていた、一本のシャープペンシルだった。使い込まれて、キャラクターのプリントが掠れている。それに触れると、テスト用紙に向かう真剣な横顔と、「ここ、間違えやすいから注意」という優しい声が聞こえた。声の主は、男の子だろうか。穏やかで、包み込むような響きがあった。

次に見つけたのは、体育館の隅に落ちていた、片方だけの白い手袋。指先が少し黒ずんでいる。触れた瞬間、真冬の冷たい空気と、二つの白い息が目に浮かんだ。手袋をはめた誰かの手が、響の冷たい頬をそっと包む。彼女は恥ずかしそうに俯き、その温もりに安堵しているようだった。

記憶はどれも断片的で、核心には触れさせてくれない。けれど、そこにはいつも、響の隣に誰かの気配があった。おそらく、恋人だったのだろう。その人物との間に何かがあり、それが彼女からピアノを奪ったのだと、僕は確信し始めていた。その誰かとの思い出が詰まった品々を捨てることで、彼女は過去を清算しようとしているのかもしれない。

拾い集めたガラクタが増えるほど、僕の心は奇妙な感情に満たされていった。それは、響への同情と、彼女の隣にいた名もなき誰かへの嫉妬が入り混じった、苦しくて甘い感情だった。

僕は彼女のストーカーのようだ、と自嘲した。捨てられた記憶を漁るだけの、臆病な傍観者。それでも、やめられなかった。もっと知りたい。君が失ったものは何なのか。君が捨てた世界の音色を、僕は聴きたかった。雨上がりの放課後、僕は彼女がよく通る渡り廊下で、小さなプラスチックの破片を見つけた。それに触れた時、僕はこれまでで一番鮮明な記憶に引きずり込まれた。

「――おめでとう!」

コンクールの表彰式。花束を抱えた響が、少し戸惑ったように笑っている。その隣で、心から祝福する声。やはり、その人物の顔は霧がかかったように見えない。だが、その声に含まれた純粋な喜びは、僕の胸を強く打った。

なのに、なぜ。なぜ、こんな幸せな記憶まで捨ててしまったんだ? 君と、君の隣にいたその人は、一体どこで道を違えてしまったんだ? 謎は深まるばかりで、僕の心は彼女の記憶の迷宮を彷徨い続けていた。

第三章 壊れたメトロノーム

答えは、思いがけない場所に打ち捨てられていた。

誰も使わなくなった、北校舎の旧音楽室。差し込む西日が、床に積もった埃を金色に照らし出す、時が止まったような空間。僕は、響がピアノをやめる前に使っていたという噂を頼りに、そこに足を踏み入れた。

グランドピアノには分厚いカバーがかけられ、譜面台は固く閉じられている。その部屋の隅、ひっくり返った椅子のかげで、僕はそれを見つけた。木製の、古風なメトロノーム。振り子の先端が折れ、もうカチ、カチ、と時を刻むことはできない。まるで、持ち主の止まってしまった時間を象徴するように。

これが、最後の手がかりな気がした。僕は唾を飲み込み、震える指で、その壊れたメトロノームにそっと触れた。

視界が、閃光で塗りつぶされる。

流れ込んできたのは、これまでの断片的な記憶とは比べ物にならないほど、鮮やかで、残酷な奔流だった。

ピアノを弾いている。夕暮れの音楽室で。でも、その手は響のものではなかった。少し日焼けした、快活で力強い指。そして、鍵盤の向こうに見える顔は、太陽のように笑う、知らない少女だった。

そのピアノを、幼い響が目を輝かせて見つめている。「お姉ちゃん、すごい! 天使みたい!」

姉……?

記憶は続く。コンクールで、プレッシャーに負けて大きなミスをした姉が、舞台袖で一人、声を殺して泣いている。その背中を、響が小さな手で必死にさすっている。僕がテスト勉強だと思っていた記憶は、姉が響に音楽理論を教えている場面だった。僕が恋人との温もりだと思っていた手袋は、冷えた響の手を温める姉の手だった。

あの楽譜も、卒業する姉が、妹の響のために特別にアレンジしてくれたものだったのだ。響は、天才なんかじゃなかった。彼女は、天才だった姉の音に憧れ、その背中を追いかけ続けていただけだった。

そして、ビジョンは最後の場面へ移る。雨の日の横断歩道。鳴り響くブレーキ音と、悲鳴。血の匂い。薄れゆく意識の中で、姉は響の手を握りしめ、最後の息で囁いた。

「ひびき……私の代わりに……私の音を……世界に、響かせて……」

それが、呪いになった。

響は姉の幻影を追った。姉の音を再現するために、すべてを捧げた。だが、どれだけ練習しても、どれだけ鍵盤を叩いても、あの太陽のような音色は生まれない。周囲の「天才」という賛辞が、彼女の心を抉る棘となった。彼女は、姉の模倣品に過ぎないという絶望に打ちのめされ、ついにピアノを、姉との約束を、すべて捨てたのだ。

僕が拾い集めていたのは、月島響の青春の欠片ではなかった。彼女が捨てようと必死にもがいていた、亡き姉の、そして姉との、痛々しい記憶そのものだった。

僕は旧音楽室の床に膝をついたまま、動けなかった。メトロノームから手を離しても、姉の最期の声が耳から離れない。壊れたのはメトロノームじゃない。月島響の、心そのものだった。

第四章 君だけのソナタ

真実を知ってしまった僕に、もう傍観者でいるという選択肢はなかった。これはもう、他人の記憶じゃない。僕が関わるべき、目の前の物語だ。

放課後、僕は中庭のベンチに座る月島響の元へ、まっすぐに向かった。彼女は僕の気配に気づき、イヤホンを外して訝しげな顔を向ける。その瞳には、他人を拒絶するいつもの光が宿っていた。

「月島さん」

僕の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

「君に、返したいものがあるんだ」

僕はカバンから、あの手書きの楽譜と、シャープペンシルと、片方の手袋を、彼女の前にそっと置いた。響の目が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。

「……なんで、あなたがそれを」

「拾ったんだ。君が捨てたから」

僕は、覚悟を決めた。そして、僕のこの奇妙な能力について、すべてを話した。物に触れると記憶が見えること。彼女の記憶を、勝手に覗き見てしまったこと。そして、壊れたメトロノームに触れて、すべてを知ってしまったことを。

響は黙って僕の話を聞いていた。表情は変わらない。けれど、その指先が微かに震えているのを、僕は見逃さなかった。

話し終えた僕に、彼女はか細い声で尋ねた。「……私のこと、可哀想だって、そう思う?」

「思わない」僕は即答した。「ただ、苦しかっただろうなって思っただけだ」

そして、続けた。

「君のお姉さんの音は、きっと太陽みたいに暖かかったんだろう。でも、君がこれから奏でる音は、君自身の音だ。誰かの代わりじゃない。雨上がりのアスファルトの匂いや、夜の静けさや、そういう、君だけが知ってる世界の音になるはずだ」

僕は楽譜を彼女の手に押し付けた。

「これは、お姉さんが君に遺した呪いじゃない。君が君自身の音を響かせるための、最初の一歩になるはずだ。君が、君の想いを込めて弾けば」

その瞬間、彼女の瞳から、一筋の涙が頬を伝った。それは、僕が記憶の中で見たどんな涙よりも、ずっとずっと、人間らしい涙だった。

数週間後の文化祭の日。校舎が賑やかな喧騒に包まれる中、僕はふと、ある音色に足を止めた。北校舎の方から聴こえてくる、ピアノの音。それは、あの卒業ソングだった。

旧音楽室の扉は、少しだけ開いていた。中を覗くと、夕陽に照らされたグランドピアノの前に、月島響が座っていた。

彼女が奏でる音は、姉の音とはまったく違っていた。時々、迷うように指が止まる。旋律は不器用で、たどたどしい。けれど、その一音一音には、深い哀しみと、それを乗り越えようとする切実な祈りと、そして、微かな希望が込められていた。それは紛れもなく、月島響だけの、世界のどこにもないソナタだった。

僕は扉を閉め、その場を離れた。もう、記憶を覗き見る必要はない。物に触れなくても、彼女の心が、その音色に乗って痛いほど伝わってきたから。

帰り道、僕はポケットから、いつも持ち歩いていた一個のビー玉を取り出した。これは、僕が物心ついた頃に拾った、最初のガラクタ。誰がどんな想いで手放したのか、もう思い出せない古い記憶の塊。

僕はそれを、夕暮れの道端に、そっと置いた。

さようなら、捨てられた記憶を拾うだけの僕。これから僕は、僕自身の記憶を、この手で紡いでいこう。

遠くで、いつまでも続くかのように、ピアノの音色が響いていた。それはまるで、新しい世界の始まりを告げるファンファーレのようだった。

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