影踏みたちのモノローグ

影踏みたちのモノローグ

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第一章 歪んだ輪郭

アスファルトに滲んだ夕陽が、僕の影を長く、長く引き伸ばしていた。ありふれた放課後の風景。隣を歩く親友、高槻陽太の屈託のない笑い声が、夏の終わりの気怠い空気に溶けていく。僕、柏木湊は、そんな陽太の完璧な横顔を盗み見ながら、当たり障りのない相槌を打っていた。すべてがいつも通りだった。ほんの数秒前までは。

「また嘘をついたな、湊」

不意に、足元から声がした。低く、感情の乗らない、それでいて僕の心の奥底を見透かすような声。周囲を見渡しても誰もいない。陽太はイヤホンで音楽を聴きながら、次のテスト範囲の話を続けている。空耳だろうか。そう思い込もうとした僕の耳に、それは再び、今度はもっとはっきりと届いた。

「さっき陽太に『楽しかった』って言ったろ。本当は、あのグループワーク、死ぬほど退屈だったくせに」

心臓が氷の塊になったかのように冷たく収縮した。声の主は、紛れもなく僕の足元から伸びる、黒々とした影だった。陽炎のように輪郭を揺らしながら、僕の影は、僕だけが知るはずの本音を暴き立てる。

ありえない。影が喋るなんて。熱中症か、過労か。僕は必死で平静を装い、陽太の話に適当に頷きながら、自分の影から目を逸らした。だが、意識すればするほど、影の存在感は増していく。それは単なる光の欠落ではなく、意思を持った何かとして、僕の足元に粘りついていた。

「お前はいつもそうだ。自分の感情に蓋をして、平気な顔で取り繕う。その絵だって、本当は誰かに見てほしくてたまらないくせに」

影の言葉は、無慈悲な刃となって僕の胸を抉った。スケッチブックに描き溜めた、誰にも見せたことのない風景画。それは僕だけの聖域であり、同時に、臆病さの象徴でもあった。

家に帰り着き、自室のドアを閉めた瞬間、僕は床に崩れ落ちた。電気をつけると、僕の動きをそっくり真似して、壁に影が映る。その黒い人型が、嘲るように口元を歪めたように見えた。

「どうして……お前は、何なんだ」

絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。

影は、壁の上ですうっと形を変え、僕を見下ろすように囁いた。

「俺は、お前だよ。お前が捨てた、お前の本心だ」

その日から、僕と僕の影との、奇妙で歪な対話が始まった。それは青春と呼ぶにはあまりにも奇妙で、孤独な秘密の始まりだった。

第二章 共鳴しない心

影との生活は、僕の内面を静かに、しかし確実に蝕んでいった。影は僕が押し殺した本音を、四六時中、遠慮なく突きつけてくる。朝、鏡の前で寝癖を直していれば「そんなに見た目を気にして、誰に良く思われたいんだ?」。昼休み、陽太たちと笑い合っていれば「作り笑いが上手くなったじゃないか」。夜、ベッドで目を閉じれば「今日一日、お前が本当に心から笑った瞬間は一度もなかったな」。

影は嘘をつけなかった。あるいは、嘘をつく必要がなかった。なぜなら、その言葉はすべて、僕自身が心の奥底に沈め、鍵をかけていた本心のかけらだったからだ。影は、僕という存在のネガフィルムであり、光の当たらない部分を正確に写し出す鏡だった。

最も僕を苦しめたのは、陽太との関係だった。陽太は太陽みたいだった。明るく、誰にでも平等で、その周りにはいつも人が集まる。僕は彼の唯一無二の親友というポジションに安住していた。だが影は、その安住が偽りであることを見抜いていた。

「陽太の隣にいると、息苦しいんだろ?」

ある日の夕暮れ、二人でコンビニのアイスを食べている時、影が囁いた。

「あいつの光が強ければ強いほど、お前の影は濃くなる。惨めにならないか?」

僕はアイスの棒を強く握りしめた。違う、と心の中で叫ぶ。陽太は最高の友達だ。だが、否定すればするほど、影の言葉は真実味を帯びて胸に突き刺さる。陽太が誰かに褒められるたび、僕の胸にはチリッとした痛みが走る。彼が僕の知らない話題で盛り上がっている時、疎外感を覚える。それは紛れもない嫉妬であり、劣等感だった。

陽太は僕の変化に気づいていた。「湊、最近なんか変だぞ。悩みでもあるなら聞くぜ」と、何度も心配そうに声をかけてくれた。その優しささえ、僕には眩しすぎて、目を細めてしまう。

「別に、何でもないよ」

そう答える僕の足元で、影が深いため息をついた。僕と陽太の間には、いつしか透明で分厚い壁ができていた。僕は壁の内側から、彼の背中をただ眺めることしかできなくなっていた。僕が本当に言いたい言葉は、すべて影に奪われ、アスファルトの上に黒い染みとなって広がっていく。夕陽が、その染みを一層、濃く、深く染め上げていた。

第三章 砕けた太陽の影

決定的な出来事は、秋風が吹き始めた九月の放課後に起きた。その日も僕は陽太と並んで、沈黙が支配する帰り道を歩いていた。何を話せばいいのか分からない。僕の口から出る言葉は、どうせ影に否定される上辺だけのものに決まっている。

不意に、陽太が立ち止まった。「なあ、湊」

彼の声は、いつもの快活さとは違う、少し掠れた響きを持っていた。

「俺たち、もう友達じゃないのかな」

心臓を鷲掴みにされたような衝撃だった。彼の表情は、傾きかけた西日に照らされてよく見えない。ただ、彼の足元に伸びる影が、奇妙に揺らめいているのが分かった。僕の影が何かを言おうと口を開きかけた、その時だった。

「――助けてくれ」

声は、陽太の影から発せられた。

僕の影とは違う、か細く、悲痛な響き。僕は息を呑んだ。陽太の影が、まるで意思を持った生き物のように蠢き、僕にだけ聞こえる声で訴えかけていた。

「あいつはもう、俺じゃない。笑い方も、話し方も、全部作ってるんだ。頼む、あいつを……陽太を助けてくれ」

混乱で頭が真っ白になった。僕だけじゃなかったのか。陽太も、影と……?

僕が呆然と立ち尽くしていると、陽太が苦しげに胸を押さえた。

「はっ……ひゅっ……」

彼の呼吸が急に浅く、速くなる。その場にずるずると座り込む陽太の姿に、僕は我に返った。

「陽太! しっかりしろ!」

駆け寄ると、彼の顔は青白く、額には脂汗が滲んでいた。過呼吸だ。僕はパニックになりながらも、中学の時に習った対処法を必死で思い出す。彼の背中をさすりながら、ゆっくり呼吸するように声をかける。その間も、陽太の影は悲鳴のような声を上げ続けていた。

「もう限界なんだ! 『みんなが期待する高槻陽太』でいることに、あいつはもう疲れ果てたんだよ!」

陽太の影が語っていたのは、僕の影が語る「認めたくない本心」とは違った。それは、陽太が押し殺し続けた「弱さ」そのものだった。完璧な太陽のように見えた親友が、その光の裏で、誰にも見せずに燃え尽きようとしている。その事実に、僕はハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。

僕が今まで見ていた陽太は、一体何だったんだ。僕が抱いていた劣等感は、一体何に対してのものだったんだ。

僕の足元で、僕自身の影が静かに言った。

「今度こそ、本当のことを言うんだろ、湊?」

それはいつものような嘲りではなく、ただ静かな問いかけだった。僕は、陽太の震える肩を抱きしめながら、何度も頷いた。

第四章 光と影のデュオローグ

保健室の白いベッドで、陽太は静かに眠っていた。駆けつけた先生のおかげで、彼の呼吸は落ち着きを取り戻していた。窓から差し込むオレンジ色の光が、彼の青白い頬を淡く染めている。僕はその隣で、消毒液の匂いに満ちた静寂の中、ただ待っていた。

やがて、陽太がゆっくりと目を開けた。

「……湊」

「気分はどうだ?」

「……最悪。一番見られたくないとこ、見られたな」

陽太は力なく笑った。その笑顔は、僕が知っているどの笑顔よりも、ずっと人間らしく、脆く見えた。

沈黙が流れる。何を言うべきか。僕の影が、足元でじっと僕を見上げている。今しかない。

「陽太」

僕は意を決して口を開いた。「ずっと、言えなかったことがあるんだ」

僕は自分のことを話した。陽太の隣にいるのが時々怖かったこと。彼の眩しさに嫉妬していたこと。自分が空っぽで、惨めに思えて仕方がなかったこと。そして、自分の影が、僕の本心を喋り続けることも、すべて打ち明けた。

陽太は黙って聞いていた。僕が話し終えると、彼は天井を見上げたまま、ぽつりと言った。

「そっか……お前も、だったんだな」

陽太もまた、彼の苦悩を語り始めた。父親の期待、「人気者」という周囲からのレッテル、それに応え続けなければならないというプレッシャー。本当は人付き合いが苦手で、一人で静かに本を読んでいる方が好きなこと。誰にも弱さを見せられず、ずっと孤独だったこと。

「俺の影も、何か言ってたか?」

おずおずと尋ねる陽太に、僕は頷いた。

「『助けて』って言ってた。お前がもう限界だって」

陽太の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。彼はそれを隠そうともせず、静かに泣いていた。

「そっか……。あいつ、ちゃんと助けを求めてくれたんだな……」

その言葉は、僕の胸に温かく響いた。僕たちが押し殺してきた影は、僕たちを苦しめるだけの存在ではなかったのかもしれない。それは、声にならないSOSであり、本当の自分へと繋がる、最後の命綱だったのかもしれない。

僕たちは、それからたくさんのことを話した。今まで一度も語り合ったことのない、互いの弱さや不安について。分厚い壁が、音を立てて崩れていくのが分かった。

帰り道、夕陽はすっかり地平線に沈みかけ、空は紫とオレンジのグラデーションに染まっていた。僕と陽太の影が、二本、くっきりと並んでアスファルトに伸びている。

「悪くない夕陽だな」

不意に、僕の影が言った。その声には、いつもの棘がなかった。

僕は自分の足元に目を落とし、初めて、自分の影に向かって微笑みかけた。陽太も、自分の影を愛おしそうに見つめていた。

影が話さなくなるわけでも、消えてなくなるわけでもないだろう。これからも僕たちは、自分の影が突きつける不都合な真実と向き合っていかなければならない。陽太は、仮面を脱ぐことの恐怖と戦い続けるだろうし、僕は、自分の空っぽな心に色を見つける旅を続けなければならない。

でも、もう一人じゃない。

光あるところには、必ず影ができる。その当たり前の事実が、今はどうしようもなく愛おしかった。僕たちは互いの影の輪郭を確かめるように、ゆっくりと歩き出した。それは、不器用で、未完成な僕たちの、新しい始まりのステップだった。

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