僕と彼女と気象予報にはない晴れ

僕と彼女と気象予報にはない晴れ

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第一章 局地性感情過多

僕、水瀬湊は、世界から感情を一枚剥ぎ取られたような人間だ。少なくとも、周囲からはそう見えている。教室の隅で息を潜め、誰とも視線を合わせず、ただ窓の外を流れる雲の形を目で追う。それが僕の日常であり、僕が僕自身に課した、世界に対する最大限の配慮だった。

六月、梅雨入りを間近に控えた気だるい午後。数学教師の退屈な声が子守唄のように響く中、僕は一つの数式で完全に思考の迷子になっていた。解けない。なぜだ。焦りがじわりと胸の内側に染みのように広がる。それは小さな染みだったはずなのに、あっという間に僕の全身を支配した。やめろ、落ち着け。心の中で念仏のように唱えるが、一度回り始めた負の歯車は止まらない。

その瞬間だった。さっきまで気怠い陽光を投げかけていた空が、まるで巨大な灰色の絵の具をぶちまけたかのように、急速に暗転した。窓を叩く激しい雨音。ざあ、という生易しい音じゃない。ダダダダダ、と教室の窓ガラスが悲鳴を上げるほどの、局地的な豪雨。いわゆるゲリラ豪雨というやつだ。

クラスメイトたちが「うわ、まじかよ」「洗濯物干しっぱなしだ」と騒ぎ立てる中、僕だけが唇を噛みしめていた。誰も知らない。この唐突な天災が、僕のたった一つの解けない数式への焦燥感から生まれたことなど。

僕の感情は、天気に直結する。

喜びは晴天を、悲しみは霧雨を、そして怒りや焦りは、今窓の外で荒れ狂っているような嵐を呼ぶ。物心ついた頃からそうだった。原因不明の特異体質。両親は僕を気味悪がり、僕は自分の感情を殺す術を覚えた。平坦であれ。無感動であれ。凪いだ水面のように、心を波立たせるな。そうすれば、世界は平和なままだ。

だから僕は友達を作らず、本も映画も心を揺さぶらないものを選び、徹底的に「普通」を演じてきた。感情の振れ幅をゼロに近づけること。それが僕の青春のすべてだった。

そんな僕の視線の先、一番前の窓際の席に、木之下咲が座っていた。彼女は突然の豪雨にも驚くことなく、静かに窓辺に置かれた小さな観葉植物の葉を指で拭っている。その穏やかな横顔を見ていると、不思議と僕の胸のざわめきが少しだけ和らぐ気がした。彼女の周りだけ、降りしきる雨音が遠のき、まるで小さなひだまりが存在しているかのように錯覚する。僕が作り出した嵐の中で、彼女だけが別の法則に守られているようだった。

第二章 彼女の周りのひだまり

木之下咲のことが、気になって仕方がなかった。

彼女を意識し始めると、僕の心、つまり僕の世界の天気は、より一層不安定になった。彼女が朝の教室で「おはよう」と小さく会釈してくれるだけで、雲の切れ間からまばゆい光が差し込む。体育の授業で彼女が他の男子と楽しそうに話しているのを見れば、空は鉛色に曇り、冷たい風が校庭の砂を巻き上げる。僕の感情は、彼女というプリズムを通して、より鮮やかな天気となって世界に映し出された。

この力は呪いだ。彼女に近づけば近づくほど、僕の感情の揺らぎは大きくなる。それはつまり、この世界を僕の身勝手な天気で振り回すということだ。もし彼女にこの体質のことを知られたら、化け物を見るような目で見られるに違いない。そう思うと、僕は彼女から距離を置くことしかできなかった。

そんなある日の放課後。珍しく課題に手こずっていた僕は、一人、誰もいないはずの屋上へ続く階段を上っていた。少し風に当たって頭を冷やしたかった。重い鉄の扉を開けると、生ぬるい風が頬を撫でる。そして、そこに彼女がいた。

フェンスのそばに置かれたプランターの列の前で、木之下咲が小さなシャベルを手に、土をいじっていた。僕の存在に気づくと、彼女は少し驚いたように目を見開き、そしてふわりと微笑んだ。

「水瀬くん」

その声を聞いた瞬間、僕の心臓が跳ね、それに呼応するように突風が吹き荒れた。びゅう、と唸りを上げて、彼女の髪を乱し、プランターの土を舞い上がらせる。しまった、と僕は咄嗟に感情を押し殺そうとする。

「ご、ごめん」

何に対しての謝罪か、自分でも分からなかった。しかし、彼女は風に目を細めながらも、全く動じる様子がなかった。

「ううん、大丈夫。今日の風、なんだか優しいね」

優しい?こんなに荒々しいのに?

僕が困惑していると、彼女は枯れかけていたパンジーの小さな花にそっと指を触れた。「最近、元気なかったんだけど」と言いながら。僕が彼女の隣に立ち、ぎこちない会話を交わすうち、心の緊張が少しずつ解けていく。すると、あれほど吹き荒れていた風が嘘のように凪いでいき、西に傾いた太陽が、優しいオレンジ色の光を僕たちの間に落とした。

穏やかな夕陽に照らされた彼女の横顔は、僕が今まで見たどんな景色よりも美しかった。

「……不思議」と彼女が呟く。「水瀬くんといると、この子たちが元気になるみたい」

見ると、さっきまで萎れていたパンジーが、心なしかしゃんと背筋を伸ばしているように見えた。彼女は僕に向き直り、心の底から嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう」

その言葉は、僕が今まで呪いとしか思えなかったこの力を、初めて肯定してくれたように聞こえた。僕の内側で、何かが静かに、しかし確実に変わり始めていた。

第三章 雷鳴と蔦の告白

文化祭の準備期間は、僕にとって地獄だった。クラスメイトたちの熱気、高揚感、そして衝突。感情の坩堝のような教室は、僕の心を絶えず揺さぶり、天気は晴れたり曇ったり、小雨が降ったりと目まぐるしく変わった。僕はただひたすら目立たないように、壁のシミにでもなったつもりで作業をこなしていた。

事件が起きたのは、文化祭前日のことだった。僕が担当していた巨大な背景画のパネルを運んでいる最中、運悪く足を滑らせてしまった。ガシャン、という破壊音と共に、クラス全員が一週間かけて作り上げた大作が、無惨にも真っ二つに折れていた。

教室が、しん、と静まり返る。数十の視線が、僕に突き刺さる。非難、失望、呆れ。様々な負の感情が津波のように押し寄せ、僕の心のダムは一瞬で決壊した。

「ごめ……」

声にならなかった。代わりに、空が叫びを上げた。ゴロゴロゴロ、と地鳴りのような音が響き渡り、空は墨を流したように真っ黒に染まる。稲光が走り、教室の窓を激しく叩きつける大粒の雨。それはもう豪雨などというレベルではなかった。暴風雨だ。僕の自己嫌悪と絶望が、世界を終わらせんばかりの嵐を呼んでいた。

パニックに陥るクラスメイトたちを背に、僕は教室を飛び出した。もう、ここにはいられない。僕がいるだけで、世界を壊してしまう。

校庭を横切り、ずぶ濡れになりながら裏山へ続く道へと駆け込む。その時だった。ひときわ大きな雷鳴が轟き、閃光が空を裂いた。見上げると、雷が校庭の隅に立つ、樹齢百年はあろうかという巨大な楠木に向かって落ちていくのが見えた。

危ない!誰かに当たるかもしれない!僕のせいだ。僕のせいで!

絶望が頂点に達した、その瞬間。信じられない光景が目の前に広がった。

誰かが、楠木の前に立ちはだかっていた。木之下咲だった。彼女は雷光に照らされながら、両手を広げ、まるで木を庇うように立っている。馬鹿なことを!今すぐ逃げろ!そう叫ぼうとした僕の口は、次の光景に言葉を失った。

咲が立つ地面から、無数の蔦や枝が、まるで生き物のように急速に伸び始めたのだ。それらは見る間に楠木に絡みつき、天に向かって巨大な緑のドームを形成していく。そして、降り注いだ雷撃を、その緑のバリアがすべて受け止めた。バチバチ、と火花が散り、焦げた匂いが立ち込めるが、楠木も、そして咲も、傷一つ負っていない。

嵐が、嘘のように止んだ。僕が作り出した嵐が、僕の意志とは関係なく。

呆然と立ち尽くす僕に、咲がゆっくりと振り返る。彼女の瞳は雨に濡れ、決意に満ちていた。

「私の感情はね、植物を育てるの」

静かだが、凛とした声が、雨上がりの澄んだ空気に響いた。

「嬉しいと、花が一斉に咲く。悲しいと、葉が枯れて落ちてしまう。ずっと、この力を隠してきた。気持ち悪いって、思われるのが怖くて」

彼女は僕の足元に咲く、名も知らない小さな草花に視線を落とした。

「でも、水瀬くんがいたから。あなたの雨は、いつも私の花たちを潤してくれていた。あなたがたまに見せる晴れ間は、どんな栄養剤よりもこの子たちを元気にさせた。今日の嵐だって、この楠木に巣食っていた悪い虫たちを、全部吹き飛ばしてくれたんだよ」

咲は僕の目を見て、はっきりと告げた。

「あなたの天気は、私にとって迷惑なんかじゃなかった。ずっと、恵みの雨だったんだよ」

衝撃だった。僕が呪い、世界から隠し続けてきたこの力。それが、僕が焦がれていた彼女の世界を、知らず知らずのうちに支えていた。孤独だと思っていたのは、僕だけではなかった。僕たちは、それぞれの秘密を抱え、互いの力に気づかぬまま、惹かれ合っていたのだ。

第四章 気象予報にはない晴れ

僕たちは、互いのすべてを受け入れた。僕が感情を抑えるのをやめると、世界は驚くほど色彩豊かになった。

文化祭当日。僕は咲の隣で、心の底から笑っていた。クラスメイトたちが再建してくれた背景画の前で、みんなが楽しそうにしている。その光景が嬉しくて、誇らしくて、僕の心はどこまでも晴れ渡った。空には雲一つない、突き抜けるような青空が広がっていた。それは「快晴」なんていうありふれた言葉では表現できない、喜びの色をした空だった。

僕の隣で、咲が微笑むと、文化祭のために飾られた花々が一斉に満開になる。彼女の幸福感が、生命の輝きとなって世界に溢れ出す。僕の空と、彼女の花。僕たちは二人で、世界を彩ることができる。

あの日以来、僕は感情を隠さない。悲しい時は、ためらわずに雨を降らせる。すると咲は何も言わず、傘を差し出して隣に座ってくれる。彼女の育てた植物が、僕の涙を吸って新しい芽を出すことを、僕たちはもう知っているからだ。僕が誰かに腹を立てて雷を鳴らせば、彼女は「おかげで土が元気になる」と言って笑う。僕のどんな天気も、彼女は受け止めて、生命の糧に変えてくれる。

僕たちは今、あの裏山へと続く丘の上に立っている。手をつなぎ、眼下に広がる街並みを見下ろす。

僕が彼女への愛しさを感じると、空は完璧な茜色に染まり、心地よい風が吹く。その風を受けて、咲が幸せそうに目を細めると、足元から一面に、夕陽の色を映した月見草が咲き誇る。

それは、世界のどこにもない、僕と彼女だけが作り出せる奇跡の景色。

僕たちの青春は、きっとこれからも嵐や日照りの連続だろう。感情は気まぐれで、世界に迷惑をかける日もあるかもしれない。でも、もう怖くはない。二人でいれば、どんな天気だって乗り越えていける。

僕たちの未来の空模様は、どの気象予報にも載ってはいない。けれど、一つだけ確かなことがある。僕の隣で彼女が笑っている限り、僕の世界にはいつも、予報にはない、まばゆい光が満ちているだろう。

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