第一章 静寂を揺らす音
埃と古い紙、そして革装丁の甘い匂いが満ちる「時雨堂古書店」の片隅で、水島響は息を潜めるようにして生きていた。彼の日常は、静寂を装っている。だが、その耳には絶えず、世界が奏でる不協和音が鳴り響いていた。
響には、人が触れた物に宿る「感情の音」を聞く力があった。それは祝福ではなく、呪いに近い。レジカウンターに置かれた百円玉からは、持ち主の焦燥が軋むような金属音として聞こえ、客が手放したばかりの文庫本からは、退屈と倦怠が混じった気怠い吐息のような音がした。街はノイズの洪水だ。だから響は、この古書の森に逃げ込んだ。幾人もの手を渡ってきた古い本は、無数の音を内包しているが、長い年月がその角を丸め、一つの落ち着いた背景音のようなざわめきに変えてくれている。それが、彼にとって唯一許容できる世界の音だった。
その女性が、初めて店に現れたのは、木犀の香りが雨に溶けていた秋の日の午後だった。すらりとした姿に、落ち着いた色合いのワンピース。彼女は他の客のように棚から棚へと渡り歩くことはせず、まっすぐに詩集のコーナーへと向かった。そして、迷いなく一冊の本を手に取る。それは、海をテーマにした無名の詩人の、古びた小さな詩集だった。
彼女は本を買うわけではない。ただ、窓際の古い読書椅子に腰を下ろし、小一時間ほど、その詩集を静かに眺めているだけ。そして、そっと元の場所に戻して帰っていく。そんな不思議な習慣が、来る日も来る日も続いた。
響の日常に、奇妙な律動が生まれた。午後三時、ドアベルが澄んだ音を立て、彼女が現れる。響はカウンターの陰から、彼女がその詩集を手に取るのを見守る。そして彼女が帰った後、まるで儀式のように、響もその詩集にそっと指を触れるのだ。
その瞬間、彼の耳にはいつも同じ音が届いた。
他の古書から聞こえるような、混沌としたざわめきではない。それは、驚くほどに澄み切った音だった。寄せては返す、穏やかな波の音。そして、その背後で微かに響く、水晶を思わせるオルゴールのメロディ。それは悲しい調べのようでもあり、どこか懐かしい子守唄のようでもあった。
響は戸惑っていた。これほどまでに純粋で、一つの情景を描き出す音を聞いたのは初めてだった。まるで、誰かの大切な記憶そのものが、音となって本に封じ込められているかのようだ。彼は、他人の感情の奔流にうんざりしていたはずなのに、この音だけは、もっと聞いていたいと願うようになっていた。あの女性は、一体誰なのか。そしてこの音は、何を物語っているのか。
静寂を装っていた響の日常は、その澄んだ音色によって、静かに、しかし確実に覆されようとしていた。
第二章 勿忘草のメロディ
彼女の訪問は、響の日常における密かな光となった。カウンターの古時計が三時を指すのが待ち遠しく、彼女が詩集を手に取る姿に安堵し、彼女が残していった音の余韻に浸る。響は、自分の内側に芽生えたこの感情が何なのか、測りかねていた。
ある日、彼女が帰った後、響はいつものように詩集を手に取った。波とオルゴールの音が、彼の意識を優しく満たす。もっと深く、この音の源に触れたい。そんな衝動に駆られ、彼はゆっくりとページをめくった。すると、中ほどの一節、「君の瞳は、凪いだ海の色」と記されたページの間に、小さな栞が挟まっていることに気づいた。
それは、丁寧に押し花にされた、小さな青い勿忘草だった。
花弁はインクのように青く、歳月を経て少し色褪せてはいるが、その可憐な姿を保っている。響は、まるで聖遺物に触れるかのように、震える指先でそっと押し花に触れた。
その瞬間、いつも聞こえていた音に、新たな旋律が加わった。
『――綺麗だね、この花。君みたいだ』
それは、若い男性の、陽だまりのように温かい笑い声だった。驚いて指を離すと、声は消え、また波とオルゴールの音だけが残る。もう一度触れると、やはり同じ声が聞こえる。それは、この詩集と、勿忘草と、そしてあの女性にまつわる、大切な記憶の断片なのだと、響は直感した。
これまで響にとって、他人の感情の音は、意味をなさないノイズの集合体でしかなかった。怒りは不快な高周波となり、悲しみは重苦しい低音となって彼を苛む。だが、この詩集から聞こえる音は違った。それは一つの物語を奏でる、美しい音楽だった。彼は、自分の能力を初めて肯定的なものとして感じ始めていた。この音の物語を、最後まで聞いてみたい。
その日から、響の行動は少しだけ大胆になった。彼は彼女のために、窓際の読書椅子を毎日丁寧に拭き、埃がかからないよう、詩集の周りをこまめに掃除した。直接言葉を交わす勇気はない。だが、このささやかな行為が、自分と彼女、そしてこの音の世界を繋ぐ細い糸のように思えた。
彼は、自分がただの傍観者ではなく、この静かな物語の登場人物の一人になったような、不思議な高揚感を覚えていた。他人の心に触れることをあれほど恐れていた彼が、一つの心にこれほどまでに強く惹きつけられている。それは、響自身にとって大きな変化だった。勿忘草のメロディは、彼の閉ざされた日常に、確かな彩りを与え始めていた。
第三章 あなたに届ける音
季節が移ろい、冷たい雨が街を叩くようになったある日、彼女はいつもより遅い時間に、ずぶ濡れの姿で店に現れた。その顔は青白く、どこか追い詰められたような表情を浮かべている。彼女はいつものように詩集を手に取ると、読書椅子に崩れるように座り込み、その本を胸に強く抱きしめた。やがて、その肩が小さく震え始め、抑えきれない嗚咽が静かな店内に漏れた。
響は、カウンターの向こうで身を固くした。いつもは彼女の領域に踏み込むことを躊躇していたが、今日の彼女はあまりに痛々しく、見ていられなかった。無数の人々の感情のノイズが、彼の防御壁を突き破って流れ込んでくる。だが、それ以上に強く、彼女の絶望が、鋭いガラスの破片のように彼の胸を刺した。
彼は意を決して、カウンターから出た。ぎしり、と床板が軋む音に、彼女がびくりと顔を上げる。涙に濡れた瞳が、驚きに見開かれていた。
「あの…何か、お探しですか」
絞り出した声は、自分でも情けないほどにかすれていた。
彼女はしばらく言葉を失っていたが、やがてぽつり、ぽつりと語り始めた。
その詩集は、一年前に海で事故に遭い、今も行方不明のままの恋人が、彼女に贈ってくれた最後のプレゼントだったこと。彼はオルゴール職人で、この詩集の一節を、自作のオルゴールのメロディに乗せてくれたこと。そして、海辺でこの詩を読んでくれた思い出があること。
「悲しすぎて…一度、手放してしまったんです。この本も、思い出も全部。それで、このお店に売りに来ました。でも、やっぱり忘れられなくて…彼を、思い出せるものがこれしかなくて…。毎日、ここに来れば、彼に会えるような気がして…」
響は、ただ黙って聞いていた。彼が聞いていた音の正体が、一つ、また一つと明らかになっていく。波の音、オルゴールのメロディ、そして、あの優しい声。すべては、彼女の失われた愛しい記憶だったのだ。
彼女は涙を拭い、続けた。その言葉が、響の世界を根底から揺るがした。
「でも、今日が彼の命日なんです。もう一度だけでいいから、彼の声が聞きたくて…。でも、もう…思い出せないんです。悲しすぎて、彼の声がどんな音色だったか、どんなふうに笑ったか、靄がかかったみたいに…」
その瞬間、響は雷に打たれたような衝撃を受けた。
彼女には、聞こえていないのだ。
この詩集から響き渡る、あの澄んだ波の音も、オルゴールのメロディも、そして何より、あの温かい男性の声も。彼女はただ、必死に記憶を手繰り寄せようとして、この本に縋っていただけなのだ。
響が聞いていた音は、彼女の恋人の魂が宿ったものではない。それは、彼女の愛と喪失の記憶が、あまりにも強い想いとなってこの詩集に染み込み、それを響の特殊な能力が拾い上げ、増幅して聞いていただけの「記憶の残響」に過ぎなかった。
全身の血が下がるような感覚に襲われた。自分は、彼女の悲痛な心の叫びを、美しい音楽のように享受していたのか。彼女の物語を知りたいなどと、おこがましいことを考えていた。本当はただ、その類稀なる美しい「音」を、自分だけのものとして盗み聞きしていただけではないのか。激しい自己嫌悪が、彼を打ちのめした。
だが、同時に、熱い何かが胸の奥から突き上げてきた。彼女は、失われた音を探している。そして自分は、その音を知っている。自分のこの忌まわしい力は、この瞬間のためにあったのかもしれない。初めて、誰かのためにこの力を使いたいと、心の底から思った。
響は、震える声で彼女に告げた。
「もし…信じてもらえないかもしれませんが…僕には、この本から聞こえる音があります」
彼は、自分が聞いてきたすべてを、拙い言葉で、しかし必死に彼女に伝えた。穏やかに寄せては返す、夏の終わりの波の音。澄み切った空に響くような、少しだけ切ないオルゴールのメロディ。そして、彼女の名前を優しく呼び、勿忘草を「君みたいだ」と笑った、あの温かい声の響きまで。
彼女は最初、呆然と響を見つめていた。だが、響が語る情景があまりにも鮮明で、二人だけが知るはずの、かけがえのない時間そのものであることに気づくと、その瞳から再び大粒の涙が溢れ出した。それはもはや絶望の涙ではなかった。失ったはずの温もりに、もう一度触れることができたことへの、感謝と安堵の涙だった。
響は、その詩集を彼女の手にそっと押し返した。
「これは、あなたが持っているべき本です。彼の音は、ずっとここにありますから」
数日後、響の元に一通の手紙が届いた。差出人は彼女だった。そこには、丁寧な文字で感謝の言葉が綴られていた。そして、最後はこう締めくくられていた。
『あなたは、私の失くした音を拾ってくれました。本当にありがとう。もしよろしければ、今度は、私があなたの音を聞かせてくださいませんか』
響は手紙を胸に抱き、古書店の窓を開けた。夕暮れの街の喧騒が、湿った空気と共に流れ込んでくる。クラクション、人々の話し声、遠くで鳴る教会の鐘。今までノイズとしか感じられなかった雑多な音が、今は違って聞こえた。その一つ一つが、誰かの日常を奏でる、ささやかで、しかし確かな生活のメロディなのだ。
彼の世界から、不協和音は消え去ってはいない。だが、響はもうそれを恐れてはいなかった。彼の日常は、忌むべきノイズに満ちた世界から、無数の物語が交錯する音楽に満ちた世界へと、静かに変貌を遂げたのだった。彼は、手紙をもう一度読み返すと、小さく、しかし確かな声で呟いた。
「はい、喜んで」