天窓から落ちてくる小夜曲

天窓から落ちてくる小夜曲

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第一章 侵食する追憶

汐田湊(しおだみなと)の日常は、古書のインクの匂いと、規則正しくページをめくる音で満たされていた。都心の片隅にある古書店『時の栞』で働き、築五十年のアパートの一室で眠る。変化を嫌い、静謐を愛する彼にとって、その単調さは心地よい毛布のようなものだった。誰かの物語を読むのは好きだが、自分の物語に新たな登場人物が増えるのはごめんだと思っていた。

その均衡が、ある朝、音もなく崩れた。

目覚めると、枕元に、見慣れないものが一つ、静かに鎮座していた。鈍い銀色の光を放つ、懐中時計。細やかな彫刻が施された蓋は固く閉ざされ、鎖は千切れたように途中で途絶えている。湊は寝ぼけ眼をこすり、昨夜の自分の行動を必死に遡った。しかし、こんなものを持ち帰った記憶はどこにもない。そもそも、こんな優美なアンティークは、彼の趣味とはかけ離れていた。

指先でそっと触れると、ひんやりとした金属の感触が、夢ではないことを告げていた。蓋を開けようとしたが、錆びついているのか、びくともしない。耳を当てても、時を刻む音は聞こえなかった。死んだ時計だ。

気味の悪い冗談か、あるいは空き巣だろうか。しかし、部屋を見渡しても、荒らされた形跡も、鍵が開けられた様子もない。ただ、この懐中時計だけが、まるで最初からそこにあったかのように、彼の日常に紛れ込んでいる。湊はそれを机の引き出しの奥にしまい込み、鍵をかけた。忘れてしまおう。日常に戻ろう。

だが、その奇妙な出来事は序章に過ぎなかった。翌朝、湊の部屋には、片方だけになったレースの手袋が。その次の日には、角が丸くなったトランプのスペードのエースが。さらにその次の日には、インクが掠れた外国の切手が、ベッドサイドのランプシェードに寄りかかるように置かれていた。

毎日、一つ。昨日までそこにはなかったはずの、誰かの記憶の欠片のようなものが、彼の部屋に出現するようになったのだ。それらは皆、一様に古びていて、持ち主の体温がとうに失われているかのような冷たさをまとっていた。湊の部屋は、彼の知らない誰かの追憶によって、静かに、しかし確実に侵食され始めていた。

第二章 失われた欠片の地図

奇妙な現象が始まって一ヶ月が経つ頃には、湊の戸惑いは諦観にも似た好奇心へと変わっていた。彼はアンティークの木箱を用意し、毎朝現れる「漂着物」をそこに収めるのが日課になっていた。箱の中は、持ち主不明の遺品で満たされていく。錆びたブリキのコマ、色褪せたリボンのついた栞、万年筆のペン先だけが収められた小さな桐箱。それらは、声なき語り部のように、それぞれの物語を秘めて沈黙していた。

湊は、仕事の合間に、古書店の知識を総動員してそれらの品々の来歴を調べ始めた。それは、誰かの物語の断片を繋ぎ合わせ、失われた地図を復元するような作業だった。外国の切手は、一九六〇年代の東ドイツで発行されたものだと分かった。万年筆のペン先は、今はもう存在しない国内メーカーの、限定生産品だった。

情報が増えるたび、湊の頭の中には、見知らぬ持ち主の人物像が立ち上がってくる。音楽を愛し、旅を好んだ人。手紙を書くのが好きで、物を大切にする人。その人物は、湊の静的な日常に、微かな彩りと温かみをもたらし始めていた。いつしか彼は、毎朝、今日はどんな品物が現れるだろうかと、少しだけ期待している自分に気づくようになっていた。

ある雨の日の朝、彼の目に飛び込んできたのは、一枚の楽譜の断片だった。黄ばんだ五線譜には、インクで手書きされたであろう流麗な音符が並んでいる。それは、どんな有名な作曲家のものとも違っていた。個人的な、おそらくは未完成の旋律。湊は、その楽譜を手に取った瞬間、強い衝動に駆られた。この旋律を聴いてみたい。そして、この曲を作った人に、会ってみたい、と。

それは、人との関わりを避けてきた彼にとって、革命的な感情の変化だった。漂着物たちは、もはやただのガラクタではなかった。それは、湊を未知の世界へと誘う、招待状のように思えた。彼は、これまでの品々と楽譜の断片を鞄に詰め、アパートの大家の元を訪ねることにした。このアパートの、過去の住人について何か知らないだろうか。地図の最後のピースは、案外すぐ近くにあるのかもしれない。

第三章 通気口の向こう側

「ああ、その品々…たしかに見覚えがあるような…」

アパートの大家である老婆は、湊が並べた品々を見て、皺の刻まれた目を細めた。そして、一つの可能性を口にした。湊の真下に住んでいた、桜木千代さんという老婦人の遺品ではないか、と。千代さんは、一ヶ月半ほど前に、老衰で静かに亡くなったのだという。

湊の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。奇妙な現象が始まった時期とぴったり一致する。大家の話によれば、千代さんの部屋は、今、遺品整理業者が入って片付けをしている最中だという。

まさか。湊は自分の部屋に戻り、天井を見上げた。古いアパートだ。天井裏の構造に何か欠陥があり、階下の部屋のものが、何かの拍子で自分の部屋に落ちてくる…? 彼はクローゼットの天井にある点検口を開け、懐中電灯の光を差し込んだ。すると、薄暗い闇の中に、古びた通気口のダクトが見えた。そして、その一部が腐食して、ぽっかりと穴が空いているではないか。穴の真下は、ちょうど湊のベッドの枕元にあたる。

謎は、あまりにもあっけなく解けた。幽霊でも、超常現象でもない。ただの、建物の欠陥。遺品整理業者が、千代さんの部屋で品物を箱詰めする際の振動か何かで、天井裏に紛れ込んでいた小さな品が、この穴を通って湊の部屋に落ちてきたのだ。あまりにも現実的で、詩情のかけらもない真相に、湊はがっくりと肩を落とした。彼が紡ぎ上げていた持ち主の物語は、ただの空想に過ぎなかったのか。

翌日、湊は遺品整理業者に連絡を取り、事情を説明した。業者は平謝りし、千代さんの部屋の確認をさせてくれることになった。がらんどうになった千代さんの部屋は、主を失った静寂に満ちていた。残された数個の段ボール箱の中に、湊の集めた品々と同じ空気をまとったものたちが眠っていた。

作業員が「これも処分するものでして」と手渡してくれたのは、一冊の古い日記帳だった。湊は、何か見えない力に導かれるように、そのページをめくった。そこに綴られていたのは、千代さんの穏やかな日常。そして、湊の心を根底から揺るがす記述があった。

『上の階に越してきた汐田さん親子。湊くんは、まだ五歳。お母様を亡くしたばかりで、いつも寂しそうな目をしている。あの子の笑顔が見たい』

『湊くんが、お母様の形見だと言って、青いビー玉の入った小さなお守り袋を見せてくれた。なんて綺麗な瞳の色だろう。でも、公園で遊んでいるうちになくしてしまったらしい。一晩中泣いていたと、お父様から聞いた。可哀想に』

『今日、公園の砂場で、あのお守り袋を見つけた。湊くんに返そうとしたけれど、あの子たちはもう、遠くに引っ越してしまっていた。いつか、また会えた日のために、私が大切に預かっておこう』

湊は、息を呑んだ。忘れていた。完全に記憶の底に沈んでいた、幼い日の喪失感。母の死後、父とこのアパートに一時的に住んでいたこと。そして、母が作ってくれた、世界で一つの宝物だったお守り袋。人との繋がりを信じられなくなった、彼の原風景。

日記の最後のページに、一枚の色褪せた写真が挟まっていた。若い頃の千代さんと、そして、自分の知らない、優しく微笑む母。その腕に抱かれているのは、幼い自分だった。

第四章 色褪せない景色

湊は、遺品整理業者に頭を下げ、千代さんの日記と、日記と共に段ボール箱の底から見つかった、古びた布製のお守り袋を譲り受けた。指先でそっと袋に触れると、中から硬い感触が伝わってくる。あの頃の、青いビー玉だ。母の瞳の色に似ていると、そう思っていた。

部屋に戻り、湊は自分が集めた「漂着物」の入った木箱を開けた。懐中時計、レースの手袋、楽譜の断片。それらはもはや、単なる偶然の産物ではなかった。一つ一つが、千代さんという一人の女性が生きた証であり、そして巡り巡って、湊が忘れてしまった過去の温もりを、彼の元へと届けてくれた奇跡の欠片だった。

通気口から品物が落ちてきたのは、物理的な偶然に過ぎない。しかし、その偶然がなければ、湊は千代さんのことを知ることも、母との記憶が詰まったこの宝物と再会することもなかっただろう。人と人との繋がりは、時にこんなにも予期せぬ、非合理的な形で結ばれることがあるのかもしれない。

湊は、窓を開けた。湿った夜の空気が、部屋の淀みを洗い流していくようだ。彼は、千代さんが遺した未完成の楽譜をピアノアプリにかざし、拙い音で再生してみた。静かで、少し切ないけれど、どこまでも優しい旋律が部屋に満ちる。それはまるで、遠い昔に聴いた子守唄のようだった。小夜曲(セレナーデ)。おそらく千代さんが、寂しがり屋の幼い隣人のために、あるいは、もう会えない誰かのために紡いだ曲なのだろう。

彼の日常は、明日からも変わらない。古書店に行き、本に囲まれて過ごし、この古いアパートに帰ってくる。しかし、その日常を眺める彼の心は、もう昨日までとは違っていた。この世界のありふれた景色の向こうには、数え切れないほどの誰かの物語が息づいている。そして、自分もまた、その物語の一部なのだ。

湊は、机の上に、千代さんの写真と、母のお守り袋を並べて飾った。彼の無機質だった部屋に、確かな体温を持つ、色褪せない景色が生まれた瞬間だった。彼はもう、新たな登場人物を恐れないだろう。なぜなら、失われたと思っていた繋がりは、ずっとすぐそばで、彼が見つけてくれるのを待っていたのだから。

窓の外では、街の灯りが静かに瞬いている。その一つ一つの光の中に、誰かの人生のセレナーデが流れている。湊は、その音に耳を澄ませるように、静かに目を閉じた。

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