***第一章 錆びついたポストと亡霊の文字***
水野楓の二十八歳の誕生日は、冷たい雨の匂いから始まった。分厚い雲が空を覆い、朝から降り続く雨は、アスファルトを叩く音で世界を満たしていた。デザイン会社でのプレゼンは散々だった。練りに練ったはずの企画書は、部長の「既視感がある」という一言でゴミ箱行きとなり、楓の心には鉛のような疲労が沈殿していた。
「お疲れ様でした」
誰に言うでもなく呟き、古びたアパートの階段を上る。湿った空気が肺にまとわりつき、息苦しい。鍵を取り出し、冷たい金属のドアノブに手をかけた時、ふと、錆びついた集合ポストの自分の区画に、一通の封筒が差し込まれているのが見えた。
またか、と思った。
それは、五年前、高校生の時に亡くなった祖父からの手紙だった。毎年、必ず誕生日にだけ届く、奇妙な贈り物。差出人の住所はいつも空欄で、しかし、そこに書かれた宛名は、間違いなく祖父の、少し癖のある、温かい文字だった。
最初の年は、母が祖父の遺品から見つけて送ってくれたのだと思った。二年目は、祖父が生前に郵便局に頼んでいたのだろうと考えた。だが、三年、四年と続くうちに、それは日常に潜む静かな怪異として、楓の中に居座るようになった。消印が毎年、日本の全く違う場所から押されていることに気づいたのは、去年のことだ。
部屋に入り、電気もつけずにソファに倒れ込む。鞄から取り出した封筒は、雨に濡れて少しだけふやけていた。ゆっくりと封を切る。中から出てきた便箋には、たった一行だけ、万年筆のインクでこう書かれていた。
『君が一度も降りたことのない駅で降りて、一番最初に目に入った喫茶店に入りなさい』
馬鹿馬鹿しい。楓は自嘲気味に笑った。ただでさえ疲れているのに、なぜそんなことをしなければならないのか。これはきっと、祖父の悪趣味な悪戯だ。あるいは、誰かが祖父の名を騙って、自分をからかっているのかもしれない。
それでも、楓は手紙を捨てることができなかった。亡霊から届く指令。それは、色褪せた日常の中で、唯一、予測のつかない彩りを持った出来事だったからだ。
窓の外では、雨が少し強くなっていた。街灯の光が、濡れた路面にぼんやりと滲んでいる。このまま部屋で沈んでいくか、それとも亡霊の誘いに乗ってみるか。
「……行ってみるか」
呟いた声は、自分でも驚くほど乾いていた。楓は重い体を起こし、濡れたままのコートを再び羽織ると、傘も差さずにアパートを飛び出した。冷たい雨が、熱を持った頬を心地よく冷やしていく。どうせ最悪な一日なのだ。これ以上、悪くなることなどないだろう。
***第二章 ポラリスの灯る場所***
楓が降り立ったのは、通勤電車でいつも窓から眺めるだけだった、古びた木造駅舎の残る駅だった。名前さえ、今日初めて意識して見た。ホームに降り立つと、都心とは違う、土と草の混じった匂いがした。
駅の改札を出て、ロータリーを見渡す。祖父の指令は「一番最初に目に入った喫茶店」。視線を彷徨わせると、すぐに見つかった。通りの向かい側、古びたビルの二階に、控えめなネオンサインが灯っている。
『喫茶 ポラリス』
階段を上ると、カラン、とドアベルが優雅な音を立てた。店内は、外の喧騒が嘘のように静かだった。使い込まれた木のカウンター、深紅のベルベットが張られた椅子、そして壁際にずらりと並んだレコード。微かに珈琲豆を焙煎する香ばしい匂いが漂い、スピーカーからは穏やかなジャズのピアノが流れていた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、白髪の穏やかなマスターが顔を上げた。楓は少しだけ戸惑いながらも、カウンターの隅の席に腰を下ろした。
「ブレンドコーヒーを、お願いします」
「はい、かしこまりました」
マスターは慣れた手つきでサイフォンに火を灯す。コポコポと水が沸き上がる音と、豆を挽く軽快な音が、心地よく耳に響いた。目の前で一杯の珈琲が出来上がっていく様を眺めているだけで、ささくれ立っていた心が少しずつ凪いでいくのを感じた。
やがて、美しい琥珀色の液体がカップに注がれ、楓の前に置かれた。湯気と共に立ち上る、深く豊かな香り。一口飲むと、優しい苦味と柔らかな酸味が口の中に広がった。こんなに美味しい珈琲を飲んだのは、いつぶりだろう。
「いい店ですね」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
マスターは、カップを磨きながらふわりと笑った。「ありがとうございます。星が好きでね。ポラリス、北極星から名前をもらったんです。どんな時も、同じ場所で旅人を見守ってくれる星ですから」
「北極星……」
「ええ。この店も、誰かにとってのそんな場所になれたら、と思ってね」
楓は、マスターとの何気ない会話に、不思議な安らぎを覚えていた。いつもなら、見知らぬ人と話すことなど億劫でしかないのに。祖父の手紙がなければ、自分はこの場所を知ることも、この味を知ることも、この温かさに触れることもなかった。
家に帰り、机の引き出しの奥にしまい込んでいた過去の手紙を取り出してみた。『雨の日に傘をささずに少しだけ歩いてみなさい』『いつもと違う道で家に帰りなさい』『近所の神社の、一番大きな木に触ってみなさい』。ささやかで、少し奇妙な課題の数々。そのほとんどを、楓は実行せずに無視してきた。
もし、あの時、これらの課題を実行していたら。自分の日常は、もう少しだけ違ったものになっていたのかもしれない。楓は、初めて、手紙を無視してきた自分を少しだけ後悔した。
***第三章 約束の終わりと始まり***
喫茶ポラリスでの出会いから、楓の日常はほんの少しだけ変わった。週末には、ふらりと電車に乗って知らない街を歩いてみたり、普段は手に取らないようなジャンルの本を読んでみたり。祖父の課題を、自分なりに解釈して実行するようになったのだ。
そして、二十九歳の誕生日がやってきた。去年とは違い、楓の心には確かな期待があった。今年はどんな指令が届くだろう。あの不思議な手紙が、自分をどこへ連れて行ってくれるのだろう。
しかし、その日、手紙は届かなかった。
ポストは空っぽだった。翌日も、その次の日も。一週間が経っても、祖父の文字が書かれた封筒が現れることはなかった。
最初は、郵便の遅れだと思った。だが、時間が経つにつれて、楓の心を支配したのは、言いようのない喪失感と、じわりと広がる不安だった。あの手紙は、いつの間にか、楓の退屈な日常を照らす、ささやかな灯台になっていたのだ。その光が、突然消えてしまった。
もしかして、手紙を送っていた誰かが、もうやめてしまったのだろうか。それとも、何かあったのだろうか。いてもたってもいられなくなった楓は、週末、実家の自分の部屋にこもり、祖父が遺したものを片っ端から整理し直した。思い出のアルバム、古い万年筆、読み古された文学全集。その中に、一冊の小さな手帳を見つけた。
表紙には『楓へ』と、祖父の文字で書かれている。楓は、息を飲んでページをめくった。そこには、過去に自分に届いた手紙の課題が、リストとなって几帳面に書き留められていた。そして、いくつかの見知らぬ名前と住所が添えられている。
心臓が早鐘を打ち始める。ページをめくる指が、微かに震えた。そして、最後の一ページにたどり着いた時、楓は息を止めた。
『楓へ。この手紙を読んでいるということは、私からの手紙がもう届かなくなったということだろう。驚かせてすまなかったね。実は、あの手紙は、私の古い友人たちが、私の代わりに君に送ってくれていたものなんだ。私が死んだ後も、君がこの世界の美しさを見失わずに、自分の足で歩いていけるようにと、無理を言って頼んでおいた。
消印が毎年違ったのは、旅好きの友人たちが、旅先から投函してくれていたからだよ。
でも、いつまでも私が君の人生を縛るわけにはいかない。用意した課題は、これで終わりだ。
最後の課題は、もう君の中にある。それを、君自身の力で見つけるんだよ、楓。
いつでも君を愛している。 じいちゃんより』
涙が、ぽろぽろと手帳の上にこぼれ落ちた。悪戯でも、亡霊の仕業でもなかった。それは、祖父の深い、深い愛情そのものだった。自分の死後まで心配し、見ず知らずの友人たちが、何年もの間、その馬鹿げた約束を守り続けてくれていた。自分の冷めきっていた心の奥底が、熱いもので満たされていくのが分かった。温かくて、少しだけ痛い。楓は、その場で声を上げて泣いた。
***第四章 私だけの北極星***
涙が乾いた頃、楓は手帳に書かれた住所のリストをもう一度見つめた。その中の一つに、見覚えがあった。
『喫茶 ポラリス』
あの日、自分を導いた喫茶店の名前と住所が、そこにはっきりと記されていた。
翌日の午後、楓は再びあの古いビルの階段を上った。カラン、と澄んだベルの音。マスターはカウンターの奥で、静かに本を読んでいたが、顔を上げて楓を見ると、穏やかに微笑んだ。
「いらっしゃい。今日は、なんだか違う顔をしているね」
楓はカウンターに座り、震える手で祖父の手帳を差し出した。
「これを、読んでください」
マスターは驚いたように目を見開いたが、黙って手帳を受け取ると、ゆっくりと最後のページを読んだ。読み終えた彼は、静かに手帳を閉じ、ふう、と長い息を吐いた。
「……バレてしまったか。亮介さんらしい、粋な仕掛けだ」
亮介、というのは祖父の名前だった。
「亮介さんとは、学生時代からの友人でね。二人でよく、望遠鏡を担いで山に登り、星を眺めたものだよ。彼が亡くなる少し前、病室で君のことを頼まれたんだ。『俺が死んだら、あの子は世界を灰色に見てしまうかもしれない。だから、ほんの少しだけ、世界が色鮮やかに見える魔法をかけてやってくれないか』ってね」
マスターは、懐かしむように遠い目をした。
「手紙は、私を含めた五人の友人で、毎年持ち回りで送っていたんだ。亮介さんが遺した課題のリストを見ながらね。まさか、君がこの店に来るとは思わなかったよ。亮介さんが天国で、してやったりと笑っているだろうな」
祖父の愛情。そして、見ず知らずの友人たちの、長年にわたる優しさ。すべてのピースが繋がり、楓の胸に温かい光が灯った。
「ありがとうございました」
深く頭を下げると、マスターは「亮介さんにお礼を言いなさい」と優しく笑った。
楓は、あの日と同じブレンドコーヒーを注文した。カップから立ち上る香りは同じはずなのに、今日の珈琲は、今まで飲んだどんな飲み物よりも深く、温かく、そして少しだけ切ない味がした。
店を出ると、空は美しいグラデーションを描く夕暮れ時だった。西の空に、一番星が瞬いているのが見えた。
祖父からの手紙は、もう二度と届かないだろう。
でも、楓はもう大丈夫だと確信していた。祖父が教えてくれたのは、課題そのものではなく、「日常の中に隠された輝きを、自ら見つけ出す力」だったのだ。あの手紙は、道を示す地図ではなく、進むべき方角を教える、コンパスだったのだ。
「おじいちゃん」
楓は空を見上げて、心の中で呟いた。
「私、最後の課題を見つけたよ。これからは、私だけの北極星を、自分で見つけて歩いていくね」
明日からは、どんな小さな発見が待っているだろう。どんな新しい珈琲の味に出会えるだろう。未来への期待を胸に、楓は軽やかな足取りで、家路についた。その横顔を、夕暮れの優しい光が照らしていた。
北極星から届く手紙
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