小鳥遊渉の日常は、精密なガラス細工のように完璧だった。毎朝六時ちょうどにアラームが鳴り、七分間で身支度を整え、きっかり十五分かけてトーストとブラックコーヒーの朝食をとる。磨き上げられたシンクに水滴一つ残さず家を出るのは、七時半。寸分の狂いもないルーティン。それが彼の心の平穏を守る、唯一の方法だった。
変化は、隣の102号室に新しい住人が越してきた日から始まった。分厚い壁に隔てられた隣室から、夜ごと微かな音が聞こえてくるようになったのだ。それは、チェロの音だった。しかし、お世辞にも上手いとは言えない。まるで巨大な猫が壁を引っ掻くような、耳障りな不協和音。同じフレーズで何度もつまずき、そのたびに音が途切れる。几帳面な渉にとって、その不規則な音は日常に割り込むノイズでしかなかった。管理会社に苦情を入れようかと、スマートフォンの連絡先を睨んだ夜も一度や二度ではない。
だが、奇妙なことに、渉はいつしかその音を待つようになっていた。毎晩十時。壁の向こうから、あの不器用な練習曲が始まる。彼はそれを聞きながら本を読み、眠りにつくのが習慣になっていた。つまずいていた箇所を、隣人がやっとの思いで乗り越えた夜、渉は思わず自分の胸を撫で下ろしていることに気づいて、愕然とした。顔も知らない隣人の奏でる拙いメロディが、ガラス細工の日常に、いつの間にか柔らかな光を灯していたのだ。その音はもはや騒音ではなく、一日の終わりを告げる、ささやかな子守唄だった。
その夜、事件は起きた。時計の針が十時を回り、十一時を過ぎても、壁の向こうはしんと静まり返っていた。渉は本の内容も頭に入らず、ただ壁に耳を澄ませていた。耳鳴りのような静寂が、やけにうるさい。翌日も、その次の日も、チェロの音は聞こえなかった。完璧だったはずの日常に、ぽっかりと大きな穴が空いてしまった。規則正しい生活のリズムが、音を失ったメトロノームのように狂い始める。食事の味もせず、仕事にも集中できない。
一週間が経った夜、渉はついに耐えきれなくなった。これまで決して関わるまいと決めていた隣室のドアの前に、彼は立っていた。心臓が早鐘を打つ。意を決してインターホンを押すが、応答はない。そっと郵便受けを覗き込むと、数枚のチラシに混じって「転居のお知らせ」と印字された不在票が見えた。
頭を殴られたような衝撃だった。自分の日常を豊かに彩ってくれていた音が、何の予告もなく消えてしまった。あの音の主は、どんな顔で、どんな思いでチェロを弾いていたのだろう。もっと早く、ほんの少しの勇気を出していれば。後悔が津波のように押し寄せる。渉は衝動的に部屋を飛び出し、夜の街をあてもなく彷徨った。
どれくらい歩いただろうか。冷たい夜風が頬を撫でる公園の脇を通りかかった時、彼の足が止まった。聞き慣れた、あのメロディが聞こえる。不器用で、ひたむきで、そして何よりも懐かしいチェロの音色。吸い寄せられるように公園の奥へ進むと、月明かりの下、ベンチに腰掛けた小さな背中があった。そこにいたのは、想像していたような若い音楽家ではなく、深く皺の刻まれた小柄な老婆だった。彼女が、震える手で弓を動かしていたのだ。
渉の視線に気づいた老婆は、演奏をやめて、はにかんだように微笑んだ。「ああ、ごめんなさいね。毎晩うるさかったでしょう。隣に住んでいた者です」。彼女は、数年前に亡くなった夫が愛したチェロを、思い出をなぞるように弾き始めたのだと語った。しかし、やはりアパートでは迷惑だろうと、今日からはこの公園で練習することにしたのだという。「でも、もう指が思うように動かなくて。これが、最後の練習になるかもしれないわね」。そう言って彼女が再び奏で始めたメロディは、相変わらずつたなかった。だが、その一音一音が、渉の心の空洞を温かいもので満たしていく。どんな名演奏家の音楽よりも、それは力強く、美しく響いた。
渉は老婆の隣に静かに腰を下ろし、ただ耳を傾けた。完璧な日常は、もうどこにもない。しかし、そこには不規則で、予測不能で、それでいて確かな温もりを持つ「生」の響きがあった。
翌朝、渉はいつもより三十分早く家を出た。駅前の小さな花屋で、ささやかなブーケを一つ買う。それを手に、彼は公園へと向かった。彼の新しい日常が、壁の向こうから聞こえてきた練習曲に導かれ、静かに始まろうとしていた。
壁の向こうの練習曲
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