明日のための付箋

明日のための付箋

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***第一章 予言する付箋***

佐久間亮平の朝は、挽きたてのコーヒー豆の香りと、規則正しい秒針の音で始まる。寸分の狂いもなく淹れられたハンドドリップのコーヒーを、決まったマグカップで飲む。時刻は午前七時。窓から差し込む光は、彼の緻密に設計された日常の舞台を、いつもと同じ角度で照らし出していた。

亮平は、変化を嫌う男だった。三十ニ歳、デザイン事務所勤務。彼の仕事はクライアントの要望という予測不能な変数と戦うことだが、だからこそ私生活では、徹底して不確定要素を排除していた。同じ時間に起き、同じ電車に乗り、同じコンビニで昼食を買う。その繰り返しが、彼にとっての平穏であり、心の鎧だった。

その日も、すべてがいつも通りのはずだった。玄関で革靴に足を通し、ドアノブに手をかけた、その瞬間。視界の端に、鮮やかな黄色の異物が映り込んだ。ドアの内側に、一枚の付箋が貼られている。普段、彼の部屋に存在するはずのない、彩度の高い色。

『今日は、赤い傘を忘れないこと。』

見慣れない、少し丸みを帯びた、それでいて丁寧な筆跡だった。亮平は眉をひそめる。空は一点の曇りもない快晴。天気予報も一日中、晴れを告げていた。誰の仕業だ? 同居人はいない。昨夜、友人が訪ねてきたわけでもない。鍵は確かに閉めた。悪質な悪戯だろうか。彼は舌打ちし、その付箋を乱暴に剥がすと、くしゃりと丸めてゴミ箱に投げ捨てた。

忘れることにした。日常に紛れ込んできたノイズなど、無視すればいい。

しかし、そのノイズは、夕方になって現実の音を立てて彼の日常を侵食した。オフィスを出ると、ついさっきまでの青空は嘘のように分厚い灰色の雲に覆われ、大粒の雨がアスファルトを叩きつけていた。ゲリラ豪雨。天気予報が外れることなど珍しくもない。だが、亮平はコンビニで百五十円のビニール傘を買いながら、脳裏に焼き付いて剥がれない、あの黄色い付箋と、そこに書かれた『赤い傘』という文字を思い出していた。胸の奥が、ちりりと焦げるような、奇妙な感覚に襲われた。

それは、彼の完璧にコントロールされた日常に、初めて生じた小さな亀裂だった。

***第二章 灰色の世界に射す光***

翌朝、亮平は半ば恐る恐る玄関のドアを確認した。すると、昨日とまったく同じ場所に、またしても黄色い付箋が貼られていた。心臓がわずかに速く脈打つのを感じる。

『昼食は、いつものカツカレーではなく、B定食を選ぶこと。』

まただ。昨日と同じ、丸みを帯びた筆跡。亮平は混乱した。これは一体何なのだ。予言か、それとも何かの警告か。彼は付箋を剥がし、財布にそっとしまった。悪戯だと断じるには、昨日の雨はあまりに正確すぎた。

昼休み、彼はいつものように社員食堂へ向かった。今日のAランチはカツカレー。彼の揺るぎない定番メニューだ。しかし、彼の足は、自然とB定食――サバの塩焼き定食のサンプルへと向かっていた。普段なら見向きもしない、地味で健康的なメニュー。迷いの末、彼は「……Bで」と呟いていた。

席に着き、小骨を気にしながらサバを口に運ぶ。脂の乗った身が、ほろりと舌の上で崩れた。カツカレーの暴力的な満足感とは違う、じんわりと体に染み渡るような、穏やかな美味さがあった。そして、その日の午後の仕事は、驚くほど集中できた。いつもなら昼食後に襲ってくる眠気もなく、デザイン案が次々と思い浮かぶ。B定食のおかげだろうか。些細なことだが、確かな変化だった。

それからというもの、付箋は毎日現れた。

『15時10分、窓の外を見ること。』――指示通りに目をやると、ビルの谷間に、雨上がりの鮮やかな虹がかかっていた。
『帰りは、一駅手前で降りて歩くこと。』――面倒に思いながらも従うと、道端にひっそりと咲く金木犀の甘い香りに気づき、幼い頃の記憶がふと蘇った。
『寝る前に、ストレッチをすること。』――翌朝の目覚めが、嘘のようにすっきりしていた。

亮平の日常は、少しずつ色を変え始めた。付箋は、彼に新しい視点を与えてくれた。それは、彼が効率と規則性のために切り捨ててきた、世界のささやかな美しさや、自分自身の身体の声に耳を澄ますということだった。灰色のキャンバスに、毎日一色ずつ、柔らかな絵の具が落とされていくようだった。

いつしか、彼は毎朝、玄関のドアを見るのが楽しみになっていた。この不思議な現象の送り主は誰なのか。ストーカーの類だとしたら恐ろしい。しかし、メモの内容は常に彼を良い方向へと導いていた。そこには、悪意のかけらも感じられない。むしろ、温かい眼差しのようなものさえ感じた。この見えざる誰かは、自分のことを、自分以上に理解しているのではないか。

亮平は、自分がこの奇妙な同居人を、受け入れ始めていることに気づいていた。そして、その正体を突き止めたいという気持ちと同じくらい、このままであってほしいと願っている自分もいた。

***第三章 過去からのラブレター***

秋が深まり、街路樹が赤や黄色に染まり始めたある朝。その日の付箋は、いつもと少しだけ雰囲気が違っていた。

『今日、大事なものを失う。でも、恐れないで。』

その一文を読んだ瞬間、亮平の心臓は氷水に浸されたように冷たくなった。失う? 何を? 財布か、スマートフォンか、それとも仕事のデータか。彼の頭の中を、あらゆる不吉な可能性が駆け巡った。一日中、彼は生きた心地がしなかった。何度もカバンの内ポケットを確認し、パソコンのバックアップを取り、クライアントへのメールも一字一句見直した。だが、何も起こらない。無事に終業時間を迎え、足早に帰宅する。

部屋の鍵を開け、電気をつける。見慣れた部屋。何も盗まれてはいない。何も壊れてはいない。彼は大きく息を吐き、ソファに深く沈み込んだ。一体、何だったんだ。拍子抜けするほどの安堵感と、得体の知れない不安が入り混じる。

翌朝。亮平は、いつものように玄関のドアを見た。
しかし、そこには何もなかった。
昨日までの黄色い付箋が、忽然と姿を消していたのだ。

亮平は呆然と立ち尽くした。まさか。昨日のメモが言っていた「大事なもの」とは、この付箋のことだったのか。あの不思議な繋がりが、終わってしまったのか。心にぽっかりと穴が空いたような、途方もない喪失感が彼を襲った。あの付箋は、いつしか彼の日常の、かけがえのない一部になっていたのだ。

失意のままリビングに戻った彼の目に、本棚の隅に置かれた一冊の古いノートが留まった。それは、一年前に病で亡くなった妻、美咲が遺した日記帳だった。彼女が亡くなってから、悲しみに蓋をするように、一度も開いたことのないものだった。

何かに導かれるように、彼はその日記を手に取った。ゆっくりとページをめくる。そこには、闘病生活の辛さを微塵も感じさせない、明るく、優しい文字が並んでいた。そして、最後の方のページで、亮平は息を呑んだ。

そこには、ここ数週間、彼が見てきた付箋と全く同じ筆跡で、こう書かれていた。

『亮平へ。もしあなたがこれを読んでいるなら、私はもうあなたの隣にはいないのでしょう。ごめんね。でも、泣かないで。あなたが一人になっても、ちゃんと前を向いて歩いていけるように、小さなお守りを遺しておきます。あなたが日常の小さな幸せを見逃さないように。あなたが、あなた自身の人生を、ちゃんと愛せるように。』

続くページには、日付と共に、彼がこれまで見てきたメモの内容が、びっしりと書き連ねられていた。『今日は、赤い傘を忘れないこと。』『昼食は、B定食を選ぶこと。』……すべて、ここにあった。

これは、未来からの予言ではなかった。
過去からの、美咲からの、最後のラブレターだったのだ。

涙が、堰を切ったように溢れ出した。亮平は嗚咽を漏らしながら、日記を胸に抱きしめた。美咲は、死の淵にありながら、自分のことではなく、遺される夫の、退屈で不器用な日常を心配していた。彼が世界を少しでも愛せるようにと、最後の力を振り絞って、未来への道標を書き記していたのだ。

その時、玄関の郵便受けが、カタン、と小さな音を立てた。覗き窓から外を見ると、見慣れた背中が遠ざかっていく。美咲の母親、つまり彼の義母だった。

全てを悟った。義母は、娘の遺志を継いでくれていたのだ。毎朝、合鍵でそっと家に入り、美咲の日記から一日分のメッセージを付箋に書き写し、彼が気づく場所に貼ってくれていたのだ。あの丸みを帯びた筆跡は、美咲のものによく似た、義母の文字だったのだ。

「大事なものを失う」――それは、付箋という形での妻との繋がりが終わること。そして、その喪失を恐れずに、自分の足で歩き出す時が来たのだと、美咲は伝えたかったのだ。亮平は、その場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。妻の深すぎるほどの愛情と、それを黙って支え続けた義母の優しさに、ただ打ちのめされていた。

***第四章 僕が書く未来***

メモがなくなった朝は、驚くほど静かだった。
だが、亮平の目に映る世界は、もう灰色ではなかった。窓から差し込む光の粒子が、部屋の埃をきらきらと輝かせている。コーヒーの香りが、いつもより深く、豊かに感じられる。美咲が遺してくれたのは、不思議な力ではなく、「見る」ための心だった。

その週末、亮平は手土産を持って義母の家を訪ねた。玄関で彼を迎えた義母は、何も言わずに彼を招き入れた。ぎこちない沈黙の後、亮平は深く頭を下げた。
「母さん……今まで、ありがとうございました」
声が震える。義母は、静かに微笑んだ。目元には、美咲の面影が宿っている。
「あの子がね、亮平さんならきっと大丈夫だって、信じてたから。あの子の願いを、少しだけ手伝っただけよ」

二人の間に、温かい沈黙が流れた。それは、言葉以上に多くのことを語り合っているような、優しい時間だった。

家に帰り、亮身は机に向かった。そして、買い置きしてあった真新しい黄色い付箋の束から一枚を手に取り、ペンを走らせた。そこには、自分の、少し角ばった不器用な文字が並んだ。

『明日は、新しい靴を買いに行こう。』

彼はその付箋を、玄関のドアの内側に、そっと貼った。
それは誰かに与えられた道標ではない。未来の自分自身へ向けた、ささやかな約束。美咲が教えてくれたように、自分の手で、自分の日常に彩りを添えるための、最初の一歩だった。

彼の日常は、これからも続いていく。時に退屈で、時に辛く、そして、時に輝きながら。
だが、もう彼は、その輝きを見逃すことはないだろう。心の中に、愛する人が遺してくれた、永遠の道標があるのだから。ドアに貼られた小さな黄色は、まるで夜明け前の空に輝く星のように、静かに明日を照らしていた。

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