佐藤健司の一日は、正確なルーティンで構成されている。午前七時に起床、トーストとコーヒー、七時四十五分に家を出て、八時二十分の電車に乗る。そして八時五十分、彼が勤めるIT企業が入る高層ビルのエントランスをくぐるのだ。今日も、昨日と何ら変わらない、コピー&ペーストしたような朝だった。
「開」ボタンを押し、乗り込んできた数人を待ってから「閉」を押す。静寂を運ぶ銀色の箱には、佐藤の他に三人の乗客がいた。いつも無表情でビルを掃除している老婆、派手なストライプスーツの営業部の中年男性、そして少し緊張した面持ちの新人らしい女性。行き先階のボタンパネルは、それぞれの日常を示すように、ばらばらな数字のランプを灯している。佐藤の戦場、十七階のボタンも、その一つだ。
滑らかに上昇を開始したエレベーターは、規則的なリズムで各階に停まり、人を降ろしていく。七階で営業マンが、十二階で新人の女性が降りた。残されたのは佐藤と、隅でモップに寄りかかって虚空を見つめる老婆だけだ。
次の停止階は十七階のはずだった。しかし、エレベーターは十六階を通り過ぎても、速度を緩める気配がない。
「あれ?」
思わず声が漏れた。階数を示すデジタル表示は、十七を飛ばして十八、十九と数字を増やしていく。最上階は二十五階だ。誰かが押し間違えたのだろうか。だが、パネルに二十階以上のランプは点灯していない。
「……おい」
今まで石像のように動かなかった老婆が、初めて低い声を発した。その皺だらけの顔が、ゆっくりと階数表示に向けられる。表示は「25」を通り過ぎ、奇妙な記号の羅列に変わった。「26」になるはずの場所には、見たこともない漢字のような、古代文字のようなシンボルが明滅している。
ゴウン、と重たい振動と共にエレベーターが急停止した。心臓が跳ねる。階数表示は、今はもう真っ暗だ。
やがて、沈黙を破って軽やかなチャイムが鳴り、目の前のドアがゆっくりと開いていった。
そこに広がっていたのは、十七階のオフィスではない。
息を呑む、とはこのことだろう。目の前には、地平線の彼方まで続くかと思われるほど広大な空間があり、そこに「忘れ物」が果てしない山脈を築いていた。
片方だけになった手袋が無数に絡み合って不気味な森を作り、持ち主を失った傘が色とりどりの巨大なキノコのように地面から生えている。錆びた自転車、黄ばんだ文庫本、電源の入らない古い携帯電話、持ち主の名前が消えかかった学生証。それらがすべて、小高い丘や谷を形成し、静かにそこに存在していた。空気は、微かな埃と、遠い日の記憶の匂いがした。
「……な、なんだ、ここは……」
呆然と呟く佐藤の横で、老婆が「やれやれ」と首を振った。
「ここは『狭間(はざま)』の階だよ。あんたみたいに運の悪いのが、時々迷い込むのさ」
「はざま……?」
「そうさ。世界と世界の綻び、忘れられた想いが流れ着く場所。このエレベーターは、たまにそっちへ道を通しちまうんだ」
老婆はこともなげに言うと、モップを杖のように突きながら、ゆっくりとエレベーターを降りた。
「ほら、ぼさっとしてないで。とっとと『呼び水』を探さないと、あんた、今日中に十七階へは戻れないよ」
「よ、呼び水?」
「ああ。このエレベーターを元の道筋に戻すための鍵さ。それは決まって、『この階にたどり着いたばかりの、一番新しい忘れ物』なんだ」
一番新しい、忘れ物。佐藤は必死に頭を回転させた。今朝、何か忘れただろうか。財布、スマートフォン、社員証。いや、どれもポケットに入っている。
「思い出せないかい? それもそのはずさ。持ち主が完全にその存在を忘れたものだけが、ここに流れ着くんだからね」
老婆はケタケタと笑いながら、傘の墓場へと歩いていく。
完全に忘れたもの。そんなものが、あるだろうか。
佐藤は茫然としながらも、忘れ物の山に足を踏み入れた。足元で、誰かの思い出の欠片がカランと音を立てる。一体、何を探せばいいのか。途方に暮れかけたその時、ふと、視界の隅に既視感のある光景が飛び込んできた。
積み上げられた古い雑誌の山の頂に、見慣れた白いケーブルが、まるで蛇のようにとぐろを巻いていたのだ。
「……まさか」
駆け寄って手に取ると、それは間違いなく自分のものだった。スマートフォンの充電ケーブル。昨日、会社のデスクの引き出しの奥に予備として入れた、新品のやつだ。そうだ、今朝、出がけに古いケーブルが断線していることに気づき、「会社に着いたら予備を使おう」と思ったはずなのに、電車に乗る頃にはすっかりそのことを忘れていた。
「……あった」
佐藤がケーブルを握りしめて叫ぶと、遠くで何かを探していた老婆が振り返り、にやりと笑った。
「見つけたようだね。なら、やることは一つさ」
エレベーターに戻り、老婆に指示されるがまま、ケーブルのUSBの先端を、行き先ボタンパネルの隅にある、鍵穴のような小さな穴に差し込んだ。
カチリ、と小さな手応えがあった瞬間。
エレベーター全体が柔らかな光に包まれた。階数表示に再び命が宿り、「17」という見慣れた数字が点灯する。ドアがゆっくりと閉まり始め、その隙間から見える「忘れ物のフロア」は、まるで陽炎のように揺らめいて消えていった。
チン、といつものチャイムが鳴る。
開いたドアの先には、見慣れたオフィスの光景が広がっていた。同僚たちのキーボードを叩く音、コピー機の作動音、微かなコーヒーの香り。時計を見ると、八時五十二分。まるで何もなかったかのように、時間はほとんど進んでいなかった。
エレベーターを降りると、背後で老婆が「じゃあ、あたしはこれで」と呟いた。振り返った佐藤に、老婆は片目を瞑って悪戯っぽくウインクし、再び上昇していくエレベーターの中に消えていった。
自分のデスクに着いた佐藤は、ポケットから例のケーブルを取り出した。それは確かに、先ほどまで忘れ物の山にあったはずのものだ。
退屈で、灰色だと思っていた日常。しかし、そのすぐ隣には、あんな不思議な世界が広がっているのかもしれない。
窓の外に広がる、いつもと同じビルの群れを眺めながら、佐藤の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
明日、あのエレベーターに乗るのが、少しだけ楽しみになっていた。
エレベーターは時々、道に迷う
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