月曜日の朝は、いつもと同じ味がした。ぬるま湯のような、味気ない無感動の味だ。
俺、相田誠(あいだまこと)、29歳。システム開発会社の末席で、キーボードを叩く毎日。代わり映えのしない日々を、ただ消化しているだけの人生。
その朝も、会社のビルに入る前、いつものコンビニで眠気覚ましのコーヒーを買った。ぼんやりとレシートを受け取ると、その隅に奇妙な印字があることに気づいた。
【今日の善行:+1CP】
「CP…? クーポンポイントか何かか」
普段なら気にも留めず捨てるレシートだが、その日はなぜか妙に心に引っかかり、財布の隅に押し込んだ。
異変は、昼休みにも起きた。
公園のベンチで弁当を食べていると、風で飛ばされた老婆の帽子が足元に転がってきた。拾って渡してやると、老婆は深々と頭を下げて去っていく。まあ、当然のことだ。そう思って視線を戻した瞬間、目の前の噴水の水しぶきが、一瞬だけ「+3CP」という文字の形を作って、霧散した。
幻覚か? 俺は目をこすった。しかし、脳裏にはっきりとその形が焼き付いている。まさか、朝のレシートと関係が?
その日の帰り道、俺は実験してみることにした。駅前のゴミ箱の周りに散らばった空き缶を、わざとらしく拾い集めて分別して捨てる。誰か見てるか? いや、誰も気にしていない。
すると、俺のスマートフォンの画面に、プッシュ通知でもないのに、一瞬だけ広告バナーが切り替わった。『最高のあなたに最高の体験を! +2CP』。すぐに別の広告に戻ったが、見間違えようがなかった。
間違いない。この世界には、何か俺の知らない「採点システム」が存在する。
その日から、俺の退屈な日常は、壮大な実証実験のフィールドに変わった。
横断歩道で車椅子を押してやる。「+5CP」(通知は対向車のヘッドライトの明滅)。
雨宿りする親子に傘を貸してやる。「+10CP」(通知はアスファルトにできた水たまりの波紋)。
会社の誰も気づかない重大なバグを、こっそり修正しておく。「+30CP」(通知は自分のPCのスクリーンセーバーに浮かび上がる幾何学模様)。
どうやら、このポイントは「善行」に対して与えられるらしい。しかも、見返りを求めたり、誰かに見られることを意識したりすると、ポイントは極端に低いか、ゼロになることも分かってきた。評価されるのは、純粋で、誰にも知られない「徳」そのものなのだ。
CPが何に使えるのかは、全くの謎だ。ポイントが貯まっても、銀行口座の残高が増えるわけでも、宝くじが当たるわけでもない。日常は、表面的には何も変わらない。
だが、俺の心は変わった。
灰色の風景に見えた街が、隠しアイテムだらけのクエストマップに見えてくる。すれ違う人々は、イベントを発生させるNPC(ノンプレイヤーキャラクター)だ。今日はどんなクエストが隠れている? 高ポイント案件はどこだ?
退屈だった通勤電車は、新たなミッションを探すための偵察時間になった。意味のないルーティンだと思っていた仕事は、高難易度クエスト「サイレント・デバッグ」を遂行するダンジョンになった。
そして、ある金曜日の夜。
最終電車が迫る駅のホームで、よろけた男性が線路に転落した。周囲は悲鳴を上げたが、誰も動けない。警報が鳴り響き、遠くに電車のライトが見える。
気づいた時、俺は跳んでいた。理屈じゃない。高ポイントを狙ったわけでもない。ただ、体が動いた。
男性をホーム下に押し込み、自分も転がり込む。轟音とともに電車が頭上を通り過ぎていく。埃と鉄の匂い。静寂が戻り、駅員や乗客が駆け寄ってくる。
騒ぎの中、俺はそっと自分のスマホを見た。画面には、今まで見たこともない輝く文字が表示されていた。
【緊急クエスト:人命救助 達成】
【+1000CP 獲得】
【累計ポイントが規定値に到達しました。プレイヤー‘相田誠’のレベルアップを承認します】
【称号『街の守護者(ビギナー)』を獲得】
【特典:幸運値+5%(パッシブスキル)】
俺は、人々の喧騒の中で、思わず口元を緩めた。
幸運値+5%。それが具体的に何をもたらすのかは分からない。だが、そんなことはどうでもよかった。
世界は何も変わらない。明日も俺は満員電車に揺られ、会社でキーボードを叩くだろう。
だが、俺の日常は、もう二度と退屈なものにはならない。
「さて、次のレベルアップまで、あと何ポイントかな」
夜空を見上げ、俺は誰にも聞こえない声で呟いた。世界という広大なゲームボードの上で、俺だけの冒険は、まだ始まったばかりなのだ。
見えざるスコアボード
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