忘却の霧と心に残るインク

忘却の霧と心に残るインク

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***第一章 罅割れた日常***

佐伯健人(さえきけんと)の日常は、精巧に組み上げられたガラス細工のようだった。寸分の狂いもなく、完璧な均衡を保っている。毎朝六時半に起床。七時十五分発の山手線内回り。二両目の左から三番目のドア付近。コンビニで買うのは決まってアメリカンコーヒーのホット、無糖。彼の人生は、この予測可能性という名の静かな砦に守られていた。変化は、彼の世界における最大の敵だった。

その砦に、最初の亀裂が入ったのは、霧雨がアスファルトを濡らす火曜日の朝だった。いつものコンビニの棚に、彼が三年以上買い続けてきたコーヒーの銘柄がなかった。ただの品切れだろう。健人はそう自分に言い聞かせ、別の銘柄を手に取った。だが、その翌日も、翌々日も、棚に補充される気配はない。店員に尋ねると、怪訝な顔でこう返された。「お客様、当店ではそのようなブランド、創業以来扱っておりませんよ」。

その日から、健人の精巧なガラス細工は、音を立てて罅割れていった。

通勤路の角にあった、季節の花をひっそりと売る無人のスタンドが消えた。いつも昼食をとる公園の、日当たりの良いベンチが一つ、忽然と姿を消した。まるでCGクリエイターがレイヤーを一枚ずつ削除していくように、彼の日常から、ぽつり、ぽつりと、モノが消えていく。

そして、決定的な出来事が起きた。彼のデスクから、亡き父の形見であるパーカーの万年筆が消えたのだ。深い森のような緑色の軸に、金のペン先。二十歳の誕生日に「これでお前の人生を、お前自身の手で書き記せ」と渡された、大切な宝物。

健人はパニックに陥り、隣の席の同僚、高橋に尋ねた。「なあ、俺のデスクにあった緑色の万年筆、知らないか?」「万年筆? 佐伯さん、そんなクラシックなもの持ってたっけ? いつもボールペンじゃないか」。高橋だけではない。部署の誰もが、健人がその万年筆を大切にしていたことなど、微塵も覚えていなかった。

世界が、健人の記憶を否定している。いや、もっと恐ろしいことに、世界そのものが「万年筆など最初から存在しなかった」という事実で上書きされているかのようだった。足元が崩れ落ちるような感覚。健人は、自分の正気すら疑い始めた。完璧だったはずの日常は、今や得体の知れない「忘却の霧」に覆われ、静かに侵食されようとしていた。

***第二章 忘却の共有者***

健人は抗うことにした。消えたものを手帳に克明に記録し始めた。コーヒーの銘柄、花屋のスタンド、公園のベンチ、そして父の万年筆。それは、狂気に抗うための、唯一の防衛線だった。

ある日の昼休み、健人はベンチが消えた公園を訪れた。ぽっかりと空いた空間を、まるでそこにまだ何かが見えているかのように見つめている女性がいた。年の頃は健人と同じくらいだろうか。淡い藤色のワンピースが、初夏の風に柔らかく揺れている。彼女の視線は、健人と同じ、何もないはずの空間に注がれていた。

「あの……何か、お探しですか」
思わず声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。澄んだ瞳が、健人の内側を見透かすように見つめる。
「探してはいません。ただ、覚えておこうとしているだけです。ここに、大きな桜の木の下に、二人掛けの背もたれの低いベンチがあったこと。座ると少しだけ右に傾く、あのベンチのことを」

健人は息を呑んだ。彼女も、覚えている。
「あなたも、気づいているんですね。この世界から、いろんなものが消えていくことに」
彼女は、水野栞(みずのしおり)と名乗った。

栞との出会いは、健人の孤独な戦いに一筋の光を投げかけた。彼女もまた、「忘却の霧」に気づいている稀有な存在だった。二人はカフェで落ち合い、互いの手帳に記された「消えたものリスト」を見せ合った。それは、まるで失われた文明の遺物を突き合わせる考古学者のようでもあった。

「消えるのは、きっと、誰からも忘れられたものからなのよ」。栞は、紅茶の湯気の向こうで穏やかに言った。「強く想われていないものから、世界はそっと手を放していく。まるで、もう必要ないですよ、って言われているみたいに」

非科学的で、詩的すぎる言葉だ。健人は初め、それを信じることができなかった。だが、彼女と話すうちに、奇妙な説得力を感じずにはいられなかった。彼女は、消えた花屋のスタンドで売られていた向日葵の逞しさや、健人が買い続けていたコーヒーの、雨の日の森のような深い香りについて語った。彼女の言葉は、ただの「モノ」に過ぎなかったはずのものたちに、血と体温を与えていく。

栞との交流は、健人の頑なな心を少しずつ溶かしていった。彼は気づき始めた。自分が守ろうとしていた「日常」とは、モノや人への想いを排除した、無機質なルーティンの繰り返しに過ぎなかったのではないか。父の万年筆を大切に思っていたはずなのに、最後にそのペンで何かを書いたのはいつだっただろう。仕事に追われ、父の命日さえ、今年は手帳で確認するまで思い出せなかった。

彼の砦は、変化という外敵からではなく、彼自身の無関心によって、内側から崩れていたのかもしれない。

***第三章 消えゆく幻影***

「忘却の霧」は、その勢いを増していった。もはや、些細なモノだけではない。健人が大学時代に所属していた写真部の、口数の少ない友人、木村。先日、久しぶりに部の同窓会の話が持ち上がった時、誰も彼の名前を口にしなかった。健人が「木村も誘わないか」と言うと、皆が「誰だっけ、それ?」と首を傾げるだけだった。集合写真から、彼の姿だけが綺麗に消えていた。

言いようのない恐怖に駆られた健人は、栞に連絡を取った。公園で会うと、彼女はいつもより儚げで、どこか透き通って見えるような気がした。健人が木村の話をすると、栞は悲しげに瞳を伏せた。
「健人さん。私ね、もうすぐ消えるの」

その言葉の意味を、健人はすぐには理解できなかった。
「どういうことだ? 君は、消えるものに気づいている側じゃないか」
「だから、なのよ」。栞は力なく微笑んだ。「私はね、この世界に実在する人間じゃないの」

栞が語った真実は、健人の思考を完全に停止させた。
彼女は、五年前に交通事故で亡くなった女性だった。いや、正確には、その女性が遺した「強い想い」が形作った、幻のような存在。彼女の祖母が、亡くなった孫娘のことを一日も忘れず、強く、強く想い続けることで、栞という存在はこの世界に留まることができていたのだという。
「でも、そのおばあちゃんが、先週亡くなったの。百歳の大往生だった。私を覚えていてくれる、最後の人がいなくなってしまった。だから、私も……この世界に繋ぎ止められる理由が、もうないの」

健人が彼女に出会えたのは、彼自身が「失われるもの」に強く意識を向け始めたからだった。彼の心が、消えゆく存在である栞の周波数に同調したのだ。

「あなたの大切なものも、消えかかっているのよ」。栞の瞳が、健人をまっすぐに見据える。「あなた自身が、それを忘れかけているから。あなたが守りたかった日常って、本当は何だったの? ただ同じことを繰り返すこと? 違うでしょう?」

父の万年筆が消えたのは、始まりに過ぎなかった。健人が本当に失いかけていたのは、万年筆というモノではなく、それにまつわる父との記憶、父への想いそのものだった。ルーティンという名の無味乾燥な日々は、彼の心から大切な感情を少しずつ削ぎ落としていたのだ。

「忘れないで、健人さん」。栞の声が、風に溶けるように震えた。「本当に大切なものは、あなたの心の中にしかないんだから」

***第四章 記憶の万年筆***

栞の輪郭が、夕陽の光の中で淡く揺らぎ始めた。まるで、陽炎のように。健人は、なすすべもなく彼女が消えていくのを見ていることなどできなかった。彼が今まで最も恐れ、避けてきた行為。それを、今こそ実行しなければならない。

「栞さん!」

健人は、震える彼女の肩を強く掴んだ。
「俺が覚えている。君のことを、絶対に忘れない」
彼は必死に記憶をたぐり寄せた。初めて会った日の、藤色のワンピース。紅茶を飲むときの、少し猫背になる癖。消えたものたちを語るときの、慈しむような優しい声。彼女と過ごした短い時間、交わした言葉、彼女が見せた笑顔。そのすべてを、脳裏に、心に、深く刻みつけようとした。それは、彼が失いかけていた、誰かを、何かを、ただひたすらに「強く想う」という行為そのものだった。

栞の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは夕陽を反射して、小さな宝石のようにきらめいた。
「ありがとう、健人さん。……私のこと、見つけてくれて」
彼女の体は徐々に透き通っていき、健人の腕をすり抜けて、無数の光の粒子となって空気に溶けていった。最後に残ったのは、ラベンダーの優しい香りと、胸を締め付けるような切なさだけだった。

栞が消えた後、世界から「忘却の霧」は晴れたように見えた。だが、消えたものが元に戻ることはなかった。公園のベンチも、父の万年筆も、そして栞も。

しかし、健人の世界は、もう以前とはまったく違っていた。

彼は、自分の心の中に、父親を取り戻していた。厳格な背中。不器用な優しさ。一緒に釣りに行った川の匂い。キャッチボールをした時の、古びたグローブの革の感触。そして、緑色の万年筆を渡された日、「お前は、お前の物語を生きろ」と言った、少し照れたような父の顔。無機質な日常の瓦礫の下に埋もれていた、温かく、かけがえのない記憶の数々。

健人はもう、変化を恐れなかった。翌朝、彼はいつものコンビニで、飲んだことのないカフェラテを買った。会社へは、わざと一本裏の道を通ってみた。そこには、小さなパン屋があり、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂っていた。

彼の日常は、もはやガラス細工の砦ではなかった。それは、日々の小さな発見や出会いに彩られた、豊かで愛おしい時間の連なりへと変わっていた。

その週末、健人は文房具店へ向かい、新しい万年筆を買った。栞の瞳を思わせる、澄んだ青色のインクも一緒に。家に帰ると、彼は真新しいノートの最初のページを開き、その万年筆で文字を綴り始めた。

『今日、新しい万年筆を買った。このペンで、忘れたくないことを書き記していこうと思う。水野栞という、優しくて儚い女性がいたこと。父が、私を深く愛してくれていたこと。そして、今日見つけたパン屋のパンが、とても美味しかったこと』

失われたものは戻らない。だが、心に刻まれた想いは、決して消えはしない。健人の書く文字は、確かな温もりを帯びていた。日常とは、守り固めるものではなく、日々を慈しみ、想いを紡いでいくことで、自分だけの物語として輝き出すのだ。健人は、そのことを知った。窓から差し込む光が、青いインクの文字を、きらりと照らし出していた。

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