火曜九時のアリーナ

火曜九時のアリーナ

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毎週火曜日の午前九時、スーパー「ヤマダヤ」の自動ドアは、決戦のゴングのように開く。私、佐藤恵(さとうめぐみ)は、この街に越してきて一ヶ月。いまだ、この戦場で勝利の栄光を手にしたことがない。

「本日限り! 新鮮たまご1パック98円! お一人様一点限り!」

拡声器から響く店長の声は、開戦の合図だ。その瞬間、静寂は破られる。ベテラン主婦たちのカートは地を駆け、棚に並んだばかりの卵パックは、ものの数秒で蜃気楼のように消え去る。私が呆然と立ち尽くす前線跡地には、空の棚が横たわるだけ。これが私の火曜日、いつもの惨敗の記録だ。

「あんた、新入りだね」
敗北感に打ちひしがれる私の背中に、しわがれた声がかけられた。振り返ると、買い物カゴを片腕に提げた小柄な老婆、田中さんがいた。カゴの中には、私が夢にまで見た98円の卵が、鎮座している。
「ここはね、ただ走るだけじゃ勝てない。ヤマダヤにはヤマダヤの『理(ことわり)』があるんだよ」
田中さんはそう言ってニヤリと笑うと、鮮魚コーナーへと消えていった。理、だって?

その日から、私の火曜日は変わった。商品を獲りに行くのではない。戦場を、そして支配者たちを「観察」するのだ。
まず気づいたのは、カートの動き。猛者たちは、一直線に目当ての品には向かわない。店内のBGM、照明の明るさ、そして何より「店長のネクタイの色」に反応して、まるで示し合わせたかのように進路を変えるのだ。

青いネクタイの日は、乳製品が安い。赤い日は、精肉に隠し玉が出る。そして、今日のような黄色のストライプ柄は……「お惣菜コーナーに、揚げたての限定メンチカツが出る」というサイン。私は息を呑んだ。これは単なる買い物ではない。高度な情報戦だ。

私はメモ帳を片手に、観察で得たデータを暗号のように書き留めていった。
『BGMが演歌に変われば、乾物コーナーに動きあり』
『鮮魚担当の鈴木さんが眼鏡をかけ直したら、三分後にタイムセール開始』
『店長がレジで咳払いを二回したら、レジ横のワゴンに規格外野菜が並ぶ』

数週間のフィールドワークを経て、私はついに反撃の狼煙を上げる決意をした。
決戦の火曜日。午前九時。
私は卵には目もくれず、一直線に乳製品コーナーの死角に身を潜めた。店長のネクタイは、予習通りの青。案の定、主婦たちの第一波は卵コーナーへと殺到する。その喧騒を背に、私は店長の口元に全神経を集中させた。彼は、拡声器のスイッチを入れる直前、ほんのわずかに口角を上げる癖がある。それは「本命」のタイムセール告知のサインだ。

来た!

「ただいまより、北海道産プレミアムバターを、お一人様一個限定、半額にてご提供いたします!」

店長の声が響き渡るより先に、私はスタートを切っていた。卵争奪戦を終えた主婦たちが我に返ってこちらへ殺到するが、もう遅い。私の手の中には、黄金色に輝くバターの箱が、確かにあった。初めての、完全勝利だった。

呆然とする集団の中に、この一帯を支配する女王、「氷眼の奥様」の姿があった。彼女は一切の無駄な動きなく、常に最高効率で獲物を狩る、このアリーナの絶対王者だ。彼女は、私を値踏みするように一瞥し、フンと鼻を鳴らした。まだ、認められてはいない。だが、確かな手応えを感じていた。

家に帰り、戦利品のバターを眺めながら、私は笑みをこぼした。退屈だった日常が、今は暗号と謎に満ちた、胸躍る冒険の舞台に変わったのだ。

来週の火曜日は、年に一度の創業感謝祭。伝説の「A5ランク黒毛和牛のブロック肉」が市場価格の十分の一で放出されるという。氷眼の奥様との直接対決は避けられないだろう。

いいだろう。私の日常は、もう退屈じゃない。
さあ、次の火曜日は、どんな謎を解き明かしてやろうか。冷蔵庫の扉に貼ったヤマダヤのチラシが、まるで挑戦状のように、私を睨みつけていた。

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