午前二時の調律師

午前二時の調律師

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壁の薄い安アパートに住む僕にとって、隣の部屋の住人は忌むべき存在だった。引っ越してきて三ヶ月、僕、相沢健太の安眠は、203号室の主によって常に脅かされている。

深夜一時を過ぎた頃、決まって聞こえてくるのだ。トントン、キリキリ、カチリ。まるで時代錯誤の時計職人か何かのように、精密で、それでいて神経を逆撫でする作業音が。一度、管理会社に苦情を入れたが、「佐藤さんは昔からの住人ですし、まあ、少し変わった方でして……」と歯切れの悪い返事が返ってきただけだった。

佐藤さんは、昼間はくたびれた作業着でうろつき、ゴミ捨て場から古びたラジオや壊れた扇風機を拾っては、宝物のように自室へ運び込む。白髪混じりの無精髭、猫背気味の背中。すれ違いざまに会釈をしても、焦点の合わない目でぼんやりとこちらを見るだけで、まともな会話になったためしがない。僕の中での結論は早々に出ていた。彼は、関わってはいけないタイプの、孤独で奇妙な老人だ。

その認識が揺らぎ始めたのは、ある火曜日の朝のことだった。
「うわ、まじかよ……」
出勤準備の途中、僕は腕に巻いた腕時計を見て声を上げた。祖父の形見である、スイス製の古い手巻き時計。昨日まで正確に時を刻んでいたはずの秒針が、ぴたりと止まっている。どんな時計屋に持ち込んでも「交換部品がないので修理は不可能」と匙を投げられた、僕だけの大切な時間。それが、ついに永遠の眠りについたらしい。

ひどく落ち込んだまま玄関のドアを開けると、廊下の先で佐藤さんがガラクタの山を抱えていた。僕の腕に目を留めた彼が、初めてはっきりとした声で言った。
「……いい時計だ。だが、少し疲れているようだ」
「え?」
「時間も、たまには休みたいのさ」
それだけ言うと、佐藤さんはギシリと音を立てる自室のドアの向こうに消えた。僕はその場に立ち尽くす。疲れている? 時間が? やはり、ただの変人だ。そう結論づけることで、胸のざわつきを無理やり押し込めた。

その夜、事件は起きた。午前二時。いつにも増して激しい金属音が隣室から響いてくる。もはや我慢の限界だった。今日こそ一言、いや、百言くらい文句を言ってやろうと、僕は勢いよく自室を飛び出した。

203号室のドアノブに手をかけようとした、その時。ドアが数センチ、開いていることに気づいた。そして、隙間から漏れ出しているのは、電灯のオレンジ色ではない、青白く揺らめく不思議な光だった。

怒りは、一瞬で好奇心に塗り替えられた。僕は息を殺し、そっと隙間に目をやる。

そして、言葉を失った。

部屋の中は、ガラクタの山ではなかった。壁一面に、分解された無数の時計や機械の部品が、まるで標本のように整然と並べられている。天井からは大小様々なレンズが吊り下げられ、床には見たこともない工具が転がっていた。まるで、ジュール・ヴェルヌの小説に登場する発明家の工房だ。
その中央で、作業台に向かう佐藤さんの背中があった。彼の目には多層レンズのゴーグルが装着され、その手元を青白い光が照らしている。

信じられないことに、作業台の上にあったのは、僕の腕時計だった。

佐藤さんはピンセットよりも細い器具を巧みに操り、時計の心臓部であるテンプに、米粒よりも小さな、光る何かを埋め込んでいた。カチリ、と澄んだ音が響く。すると、止まっていたはずの秒針が、まるで長い眠りから覚めたかのように、く、と小さく震えた。そして、ゆっくりと逆方向に一周してから、今度は正しいリズムで滑らかに動き始めた。

「……入ってきなさい。風邪をひく」
ゴーグルを外した佐藤さんが、振り向きもせずに言った。見られていた。僕は観念して、おずおずと部屋に足を踏み入れる。
「あの、僕の時計……どうして……」
「お前の時計が止まったのは、偶然じゃない」と佐藤さんは言った。「この辺り一帯の『時間』に、僅かな歪みが生じた。その影響をもろに受けたのが、お前の時計だ。古い機械ほど、そういう繊細なズレに敏感だからな」

時間の、歪み? 頭が追いつかない僕を尻目に、彼は話を続ける。
「俺の仕事は『時間調律師』だ。過去から未来へ流れる巨大な河。その流れの中に時折生じる、澱みや綻びを見つけ出し、修正する」
彼がゴミ捨て場から拾ってくるガラクタは、その時代の時間の流れを正しく吸い込んだ「基準点」であり、調律作業に必要な「部品」なのだという。夜中の騒音は、すべてこの世界の時間を守るための、聖なる作業音だったのだ。

「この時計は、歪みを知らせてくれたアンカーだ。礼を言う」
佐藤さんはそう言って、完璧に動き出した腕時計を僕の手に返した。ずしり、と伝わる重みが、昨日までとは全く違って感じられた。

翌朝、僕は小鳥のさえずりで目を覚ました。いつもの日常。しかし、世界はまるで違って見えた。腕で時を刻む時計は、ただの形見ではない。この世界の調和と、風変わりな隣人との秘密を共有する、特別な宝物になった。

ふと、隣の部屋から、トントン、と小さな音が聞こえる。
それはもう、僕にとって騒音ではなかった。世界のどこかで生まれた小さな時間の綻びを、誰にも知られず修復している男の、優しく、そして力強いノクターンだった。僕は窓を開け、昨日よりも少しだけ輝いて見える朝日を、深く、深く吸い込んだ。

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