月曜日が灰色なら、金曜日は煤けた銀色だ。僕、斉藤誠(さいとうまこと)にとって、週の彩りなんてそんなものだった。システム開発会社で働き、バグの出ないコードを書くことだけが正義とされる毎日。夕食はたいていコンビニ弁当か、たまに自炊したとしても味のしない野菜炒めが関の山だった。
その日、水曜日の夜8時。珍しく定時で上がれた僕は、駅前の『スーパーヤマダ』に立ち寄った。いつもなら素通りする、照明がやけに白々しい、どこにでもあるスーパー。その一番奥の、普段はワゴンセール品が乱雑に置かれている一角に、手書きのポップが揺れていた。
『本日限定! 時空超越特売コーナー』
ふざけた名前だ。近づいてみると、長机の上に無造作に商品が並べられている。見慣れないパッケージばかりだ。手に取ったのは、真空パックされた緑色の何か。「ジュラ紀産・巨大シダの若芽(天ぷら推奨)」と書かれている。隣には、レトロな箱に入った「大正ロマンカステラ(文豪の吐息仕立て)」。極めつけは、銀色のパウチに入った「西暦2204年式・完全食ペースト(アップルシナモン味)」。
「……手の込んだジョーク商品だな」
呆れつつも、妙な引力に抗えなかった。退屈な日常に投げ込まれた、意味不明な小石。僕は、一番まともそうに見えた「大正ロマンカステラ」を買い物かごに入れた。レジで無愛想なパートの女性は、奇妙な商品にも顔色一つ変えなかった。
家に帰り、そのカステラを皿に乗せる。ふわりと、インクと古書の香りがした。気のせいか? 一口食べると、脳内に衝撃が走った。濃厚な卵の甘みとザラメの歯触りの奥から、知らないはずの風景が溢れ出す。書斎の窓から見える雨の庭、万年筆を走らせる音、インク壺の匂い。まるで、百年前に生きた誰かの記憶を追体験しているかのようだ。食べ終える頃には、僕の心は不思議な切なさと創作意欲で満たされていた。その夜、僕は数年ぶりに日記をつけた。いつもよりずっと、詩的な文章が書けた気がした。
次の水曜日、僕は会社を飛び出すようにスーパーヤマダへ向かった。時空超越特売コーナーは、先週と同じ場所にひっそりと設置されていた。今週の目玉は「古代ローマ貴族の晩餐セット(ガルムソース復刻版)」らしい。僕はそれを買い、週末に友人たちを招いて振る舞った。誰もがその未知の味に驚嘆し、僕の料理の腕を絶賛した。灰色だった日常が、鮮やかな色彩を帯びていく。水曜日が、待ち遠しい祝祭の日のように輝き始めた。
何週目かの水曜日。僕はついに未来の商品に手を出した。「西暦2077年産・インスタントドリーム(一粒で八時間の良質な睡眠と好きな夢を)」という錠剤だ。これを飲めば、明日の重要なプレゼンも完璧にこなせるはずだ。期待に胸を膨らませてレジへ向かうと、白髪混じりの初老の店長が、僕をじっと見ていた。
「お客さん」
店長は低い声で言った。
「未来の味は、ほどほどにしときな。時間を食べ過ぎると、自分の時間が歪んじまうよ」
意味の分からない警告だった。僕は曖昧に笑って店を出た。その夜、錠剤を飲むと、あっという間に深い眠りに落ちた。夢の中で僕は空を飛び、大観衆の前で完璧なプレゼンを披露していた。
翌朝。目覚めは最高だった。しかし、鏡を見て凍りついた。口元に、見慣れない皺が一本増えている。気のせいだ、と自分に言い聞かせて出社したが、異変は続いた。昨日まであれほど練習したプレゼンの内容が、ところどころ思い出せない。同僚の顔が、まるで霞がかかったようにぼんやりと見える。昨日、僕は本当に会社にいたのだろうか?
焦燥感に駆られ、次の水曜日に再びヤマダへ走った。特売コーナーの隅に、小さな文字で書かれた注意書きを見つけた。
『※当コーナーの商品は、お客様の「時間」の一部を対価として販売しております。過去の商品は「経験の時間」、未来の商品は「未来の時間」を消費します。返品・交換は致しかねます』
血の気が引いた。店長の言葉の意味が、ようやく分かった。僕が味わっていたのは、ただの珍味ではなかった。僕自身の時間を、人生を、切り売りして得た刹那の快楽だったのだ。失ったプレゼンの記憶、増えた皺、ぼやけていく同僚の顔。全てが、未来の時間を前借りした代償だった。
「どうすれば……どうすれば、時間は戻りますか!」
僕は棚の整理をしていた店長に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。店長は僕の腕を静かに外し、商品を一つ指差した。
「失くしたもんは戻らねえ。だが、今あるもんを確かめることはできるかもしれねえな」
彼が指差したのは、素焼きの壺に入った「縄文の恵み・ドングリの粉」。値段の代わりに『対価:華やかな記憶』とだけ書かれている。僕は震える手でそれを掴んだ。未来の刺激的な味、友人たちの賞賛、文豪が見た風景。それらを失う代わりに、僕は「今」を取り戻せるかもしれない。
レジへ持っていくと、店長は何も言わずに受け取った。代金は請求されなかった。
その夜、ドングリの粉を湯で溶いて飲んだ。土の匂いがする、ひどく素朴で、少し苦い味だった。すると、頭の霞が晴れていくように、忘れていたプレゼンの内容が、同僚たちの顔が、くっきりと蘇ってきた。同時に、大正ロマンカステラの切ない味も、ローマ貴族の晩餐の興奮も、綺麗さっぱり消え失せていた。
僕はキッチンに立ち、冷蔵庫を開ける。そこには、いつものキャベツと豚肉、そして特売とは関係のない普通の生姜。僕はフライパンを熱し、慣れた手つきで豚の生姜焼きを作った。じゅう、という音と香ばしい匂いが部屋に満ちる。
口に運んだ生姜焼きは、時空を超えるような驚きも、誰かの記憶も運んでこない。ただ、僕が作った、僕だけの味だった。その当たり前の味が、どうしようもなく愛おしかった。
次の水曜日、僕はスーパーヤマダの前を通り過ぎた。もう、あのコーナーに用はない。けれど、ほんの少しだけ、胸の奥がチクリと痛んだ。退屈な日常に戻った安堵と、祝祭を失った寂しさが、僕の中で静かに混ざり合っていた。
スーパーヤマダの時空超越特売日
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