ゼロデイ・バディ

ゼロデイ・バディ

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「なあ、ファントム。本当にいるのか?」

放課後の新聞部部室。西日に染まる埃の中で、アカリは古びたノートパソコンの画面に独りごちた。彼女が追っているのは、この街で頻発する不可解な失踪事件。警察はすべて事故として片付けているが、その手際の良さには不自然な作為の匂いがした。

手詰まりの彼女が最後の望みを託したのは、ネットの深海に棲むという都市伝説のハッカー、『ファントム』。正体不明、性別不明。しかし、その腕は国家レベルのセキュリティさえ突破すると噂される存在だ。藁にもすがる思いで、アカリはファントムへのコンタクトフォームを見つけ出し、事件の概要を書き送ったのだ。

『協力する』

数時間後。画面に現れた無機質な返信に、アカリの心臓が跳ねた。

そのファントムの正体が、教室の隅でいつもイヤホンをつけて本を読んでいる、影の薄い同級生・水原カイトだとは、アカリは夢にも思っていなかった。

カイトの部屋は、複数のモニターが青い光を放つ司令室のようだった。彼はキーボードを叩きながら、アカリとのチャットウィンドウを開く。彼女の無謀なまでの正義感と行動力に、なぜかカイトは惹きつけられていた。人付き合いを絶ち、デジタルの海に引きこもる自分とは正反対の存在。まるで太陽みたいだ、と思った。

『警察のデータベースにアクセスした。失踪者全員のデータが、特定の時刻に、同一のターミナルから改竄されている。場所は……巨大企業「オリジン・ダイナミクス」のサーバーだ』

ファントムからの情報に、アカリは拳を握りしめた。オリジン社は、街のインフラを一手に担う巨大コングロマリット。やはり、裏があったのだ。

「よし、行ってみよう!」
『待て。危険すぎる』
「大丈夫!ジャーナリストの卵として、この目で真実を確かめなきゃ!」

チャット越しの制止も聞かず、アカリは学生証を偽造し、清掃員のアルバイトを装ってオリジン社への潜入を敢行した。カイトは頭を抱えながらも、彼女のスマートフォンのGPSを追い、ビルの監視カメラをハッキングしてその姿をモニターに映し出す。

「すごい……まるで迷路だ」

アカリは息を殺し、ファントムが指示するルートを進む。警備員の巡回ルート、監視カメラの死角。すべてがカイトの指先からリアルタイムで送られてくる。まるで、二人で一つの体を動かしているような奇妙な感覚だった。

そして、彼女はたどり着いた。地下深くの、固く閉ざされた研究室。アカリがドアの隙間から覗き見た光景は、彼女の想像を絶するものだった。失踪者たちはカプセルのような装置に入れられ、意識を奪われ、何かの実験体にされていたのだ。

「なんてことを……!」

アカリが証拠写真を撮った瞬間、けたたましいアラームが鳴り響いた。罠だ。彼女の潜入は、とっくに気づかれていた。

「ファントム!捕まる!」
『落ち着け!30秒だけ時間を稼げ!』

カイトの指が、嵐のようにキーボードの上を舞った。ビルの電力システム、空調、スプリンクラー、エレベーター。あらゆるシステムを乗っ取り、誤作動を引き起こす。廊下の照明が明滅し、スプリンクラーが水を噴き上げ、警備員たちが混乱に陥る。

『東棟のダストシュートに飛び込め!』

アカリは言われるがままに走り、躊躇なくゴミの海へと身を投げた。轟音と共に滑り落ち、着地したのはビルの裏にある巨大なゴミ収集コンテナの中。カイトが作り出した混乱のおかげで、誰にも気づかれずに脱出できたのだ。

「助かった……。ありがとう、ファントム」
『無茶をするな』

チャットにはぶっきらぼうな言葉が並ぶが、その向こう側でカイトが安堵の息をついているのが、アカリにはなぜか分かった。

二人が掴んだ証拠は、オリジン社が進める恐ろしい計画――『プロジェクト・レガシー』の断片だった。それは、全市民の思考データを収集し、完全な管理社会を築こうという非人道的な陰謀。計画の完成が、明日に迫っていた。

「こうなったら、中枢サーバーのデータを直接抜き取って、世間に公表するしかない!」アカリが決意を告げる。
『不可能だ。中枢サーバーは外部ネットから完全に遮断されてる。物理的にアクセスするしかない』
「なら、私が行く。あなたが道を作ってくれれば」
『……死ぬぞ』
「あなたがいれば、死なない」

モニターの向こうから聞こえてきそうな、絶対的な信頼。カイトは唇を噛んだ。もう、匿名の協力者ではいられない。これは、自分たちの戦いだ。

「分かった。行こう、アカリ」

初めて、カイトは彼女の名前を呼んだ。

最終決戦の舞台は、オリジン社タワーの最上階。アカリは陽動部隊が起こした騒ぎに乗じて再び潜入し、カイトは全ハッキング能力を駆使して彼女をサーバー室へと導く。

「あと少し……!」

アカリがデータ転送用のデバイスをサーバーに接続した瞬間、背後のドアが開き、屈強な警備員たちがなだれ込んできた。

「ここまでだ、小娘!」
『アカリ、逃げろ!』

絶体絶命。万策尽きたかと思われたその時、ビル全体にけたたましい音声が響き渡った。

『――これは、水原カイトから、全校生徒への緊急連絡!今すぐオリジン社タワーの前に集まってくれ!俺たちのクラスメイト、アカリが危ない!真実を暴こうとしている彼女を、助けてくれ!』

それは、カイトが学校の緊急放送システムをジャックして流した、彼自身の声だった。コードネームを捨て、己のすべてを晒した、魂の叫びだった。

その声は、街のニュース速報よりも早く、SNSで拡散された。何が起きているのか分からぬまま、野次馬や、カイトの声に心を動かされた若者たちが、オリジン社タワーの前に殺到し始める。予想外の事態に警察も出動し、現場は騒然となった。

その混乱が、アカリを救った。彼女は群衆に紛れて脱出に成功し、抜き取ったデータは即座にネットの海に解き放たれた。

数日後。屋上で空を見上げるアカリの隣に、カイトがやってきた。いつものイヤホンは、もう着けていない。

「お前のせいで、すっかり有名人だよ」アカリが悪戯っぽく笑う。
「君こそ」カイトは照れくさそうに視線を逸らした。

オリジン社の陰謀は崩壊し、二人は日常に戻った。しかし、その日常は以前とは少しだけ色を変えていた。

「なあ、カイト」
「なんだ」
「次は何を暴こうか?」

アカリが目を輝かせて尋ねる。カイトは呆れたように、でも、どこか嬉しそうに笑った。

「お手柔らかに頼むよ、相棒」

デジタルの海に引きこもっていたゴーストと、真実だけを追い求めるジャーナリスト。モニター越しではない、本物の体温を持った友情が、今、確かにそこにあった。二人の冒険は、まだ始まったばかりだ。

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