土の匂いと、ひんやりとした静けさが満ちる工房。それが、俺、健太の世界のすべてだった。隣の作業台では、彰人(あきと)がろくろを回している。俺たちは幼馴染で、同じ師に学び、今はこの工房を二人で分け合って十年になる。親友であり、そして、超えられない壁でもあるライバルだ。
彰人は天才だった。土に触れると、まるで土自身が意思を持ったかのように、彼の指先で生命を宿していく。狙ってもいないのに生まれる絶妙な歪みや、窯の中で偶然生まれた美しい釉薬の景色。人々はそれを「天賦の才」と呼んだ。
対する俺は、凡人だった。ミリ単位の精度で形を整え、釉薬の配合を計算し尽くし、焼成温度と時間を完璧に管理する。俺の作る器は常に寸分の狂いもなく端正だが、彰人の作品が放つような、心を揺さぶる熱量に欠けていた。
今年も、若手陶芸家の登竜門である「新星展」の季節がやってきた。
「なあ健太、今年はどんなの作る?」
土練機を止めると、彰人が屈託なく笑いかけてくる。その笑顔が、俺の胸にちくりと小さな棘を刺した。
「……まだ決めてない。お前はもう構想があるのか?」
「んー、まあな。面白い土を見つけたんだ。そいつの声、聞いてみようと思って」
またその言葉だ。土の声。俺には聞こえたことのないその声が、俺と彰人の間にある絶対的な距離を突きつけてくるようだった。今年こそ、俺の技術で、お前の才能を超えてみせる。俺は固く誓い、黙々と土を練り始めた。
制作が始まると、二人の間の空気は張り詰めていった。俺は寝る間も惜しんでろくろに向かい、膨大なデータと試作品の山を築いた。完璧な均衡、完璧な曲線。俺の求める「美」は、理論の果てにあるはずだった。
一方の彰人は、ろくろにほとんど触れなかった。山に入っては見たこともない草花を工房に持ち帰ったり、縁側で一日中空を眺めていたりする。その飄々とした態度が、俺の焦りを煽った。努力する俺を、あざ笑っているようにさえ思えた。
「いいよな、お前は。才能があるから」
ある日の夕暮れ、ついに俺は言ってはならない言葉を口にしてしまった。彰人は一瞬、傷ついたような顔をしたが、すぐにいつもの笑みを浮かべて「まあな」とだけ返し、工房を出て行った。残されたのは、息苦しいほどの沈黙と、自己嫌悪にまみれた俺だけだった。
それからだ。俺の指先から、魔法が消えた。作っても作っても、ただ冷たくて無機質な、魂のない器しか生まれなくなった。焦れば焦るほど、土は俺の手の中でただの泥塊になっていく。俺は出口のない迷路に迷い込んでいた。
締め切りを一週間後に控えた、嵐の夜だった。風が工房の窓を叩き、激しい雨音が世界を支配していた。その時、不意に工房の明かりがすべて消え、完全な闇に包まれた。停電だった。
「……最悪だ」
俺が頭を抱えてうずくまると、闇の奥からカチリ、と小さな音がした。彰人が、どこからか取り出した蝋燭に火を灯したのだ。ゆらりと揺れる炎が、俺たちの影を壁に大きく映し出す。
「こういうのも、悪くないだろ」
彰人はそう言うと、蝋燭の灯りをろくろのそばに置き、静かに土を練り始めた。
闇と静寂の中、揺れる炎に照らされてろくろを回す彰人の姿は、どこか神聖ですらあった。彼は目を閉じ、まるで祈るように土に触れている。その指の動きは、俺が求める完璧な制御とは違う、土の流れに身を任せるような、しなやかで力強いものだった。
山で見た景色、空を流れる雲、そしてこの嵐の夜の激しさと静けさ。彼が「遊んでいる」ように見えた時間は、すべて土との対話だったのだ。彰人は、全身で世界を感じ、それを土に写し取ろうとしていた。俺が追い求めた技術や理論ではない、もっと根源的な力。
やがて、彰人の手の中から一つの形が生まれた。それは、俺が作るような端正な器ではない。口縁は歪み、胴には指の跡が荒々しく残っている。だが、その不格好な器は、嵐の夜の張り詰めた空気と、それを包み込むような深い静けさを宿し、圧倒的な生命力でそこに存在していた。
俺は、自分の作業台に並んだ、完璧だが死んだも同然の器たちを見た。恥ずかしさと悔しさで、視界が滲む。だが、それ以上に、目の前の彰人の作品から目が離せなかった。嫉妬も、焦りも、すべてが洗い流されていく。残ったのは、ただ純粋な感動だった。
「すごいな、お前は……」
絞り出した俺の声は、雨音に混じって震えていた。
彰人はろくろを回す手を止め、ゆっくりと俺を見た。そして、初めて見せるような、少し照れたような笑みを浮かべた。
「……お前がいたからだよ、健太」
「え……?」
「俺は感覚でしか土をいじれねえ。でも、この土が一番いい顔する温度も、この釉薬が一番輝く配合も、全部お前が見つけてくれたんだ。俺は、お前の積み上げた地図の上を歩いてただけだぜ」
彰人が指差した壁には、俺が書き溜めた焼成データや配合のメモがびっしりと貼られていた。俺が彰人を超えるために積み上げた努力のすべてが、回り回って、彰人の才能を最高のかたちで開花させていたのだ。
俺たちは天才と凡人なんかじゃなかった。ただ、土への愛し方が少しだけ違う、二人で一人の陶芸家だったのかもしれない。俺は、溢れそうになる涙をこらえきれなかった。
新星展で、彰人は大賞を受賞した。嵐の夜に生まれたあの器は、「夜明け」と名付けられ、多くの人の心を掴んだ。俺は、佳作入選。悔しくないと言えば嘘になる。だが、俺の心は不思議なほど晴れやかだった。
授賞式の帰り道、月が煌々と道を照らしていた。工房に戻ると、彰人が「乾杯しようぜ」と言って、一つの盃を差し出した。それは、彼がコンペに出さなかった、もう一つの歪な盃だった。俺が完璧な円を目指して捨てた土を、彰人が拾って作ったのだという。
なみなみと注がれた酒を、二人で黙って飲み干した。酒の味は、少しだけしょっぱかった。
「なあ、彰人」
「ん?」
「俺たち、二人でやっと一人前、なのかもな」
月明かりに照らされた彰人は、最高の笑顔で「かもな」と笑った。窯の火は消えても、俺たちの友情を温める灯りは、決して消えることはないだろう。工房の窓から差し込む月が、寄り添う二つの盃を、いつまでも静かに照らしていた。
窯の火、月の盃
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