泥と硝煙の匂いが染みついた塹壕の中、リョウはヘッドフォンを深く被り、目を閉じていた。彼は、この第十七歩兵師団の「耳」だった。生まれつき鋭敏すぎる聴覚は、平穏な日常では呪いであったが、この狂った世界では唯一の武器だった。彼の耳は、一キロ先の薬莢が落ちる音さえ捉えることができた。
だが、ここ数週間、彼の耳は奇妙な静寂に脅かされていた。斥候に出た兵士が、何の戦闘痕跡もなく、ただ装備だけを残して消える。その数はすでに十数名に上っていた。仲間たちはそれを「霧の中の幽霊」と呼び、恐怖に顔をこわばらせた。リョウの任務は、その「聞こえないはずの敵」の正体を突き止めること。それが、彼に課せられた重すぎる課題だった。
「どうだ、リョウ。何か聞こえるか?」
背後から声をかけたのは、小隊長のサイトウだった。彼の声には、焦りとわずかな疑念が滲んでいた。
「いえ……風の音と、ネズミが何かを齧る音だけです」
リョウは唇を噛んだ。期待に応えられない無力感が、冷たい鉄のように胃に沈む。聞こえるのは、ただ死が降り積もっていく音のない時間だけ。その夜、リョウにとって唯一の友人であったケンが、持ち場から姿を消した。彼のライフルは、まるで主の帰りを待つ忠犬のように、そこに置かれたままだった。
ケンの消失は、リョウを狂気の淵へと追いやった。彼は食事も睡眠も忘れ、集音マイクのダイヤルを回し続けた。なぜ何の音も残さない? 悲鳴も、銃声も、足音すらも。あり得ない。どんな完璧な奇襲でも、必ず音は生まれるはずだ。
その時、ふと脳裏をよぎったのは、幼い頃に読んだ科学の本の一節だった。人間には聞こえない音――超低周波。鯨が仲間と交わす声。火山が噴火する前の微細な振動。
「まさか……」
リョウは震える手で、機材の改造に取り掛かった。可聴域のフィルターを外し、増幅器を極限までブーストする。常人ならば耐えられないノイズの洪水に、彼の耳だけが耐えられた。
ヘッドフォンを装着した瞬間、世界は一変した。
それは「音」ではなかった。腹の底を直接揺さぶるような、巨大な心臓の鼓動。ドクン……ドクン……。それは地面を伝い、骨を震わせ、脳を直接マッサージするような、不快で、そしてどこか心地よい「振動」だった。これだ。これが「幽霊」の正体だ。この超低周波が人間の精神に干渉し、抵抗する意志を奪い、幻覚を見せて誘い出すのだ。殺すのではなく、自らの意思で歩かせる。なんと悪魔的な兵器だろう。
リョウが戦慄したその時、彼の目の前に、ぼんやりと人影が浮かび上がった。ケンだった。
『リョウ、こっちへ来いよ』
懐かしい声が、頭の中に直接響く。
『もう戦わなくていいんだ。暖かい場所がある。みんな待ってるぞ』
ケンの優しい笑顔が、リョウの決意を溶かしていく。抗いがたい眠気と、すべてを投げ出したくなるような甘美な安堵感。足が、勝手に一歩前へ踏み出す。ああ、もう、これで……。
その瞬間、リョウの脳裏に、全く別の記憶が閃光のように突き刺さった。幼い頃、鋭すぎる耳のせいで周囲の音に苛まれ、泣いていた彼に祖母が言った言葉。
『いいかい、リョウ。聞きたくない音があるならね、心の中でもっと大きな音を鳴らすんだよ。あんたの一番好きな歌でも、一番楽しかった思い出でもいい。心はね、耳よりもうるさいんだから』
リョウは、歯を食いしばった。心の中で叫ぶ。ケンの仇を討つんだ。仲間を守るんだ。この不条理な戦争を生き抜いて、もう一度、ただの風の音を、鳥の声を、穏やかな気持ちで聞きたいんだ!
怒り、悲しみ、そして渇望。負の感情が彼の内で渦を巻き、巨大なノイズの壁となって幻覚を打ち砕いた。目の前のケンが砂のように崩れ、リョウは現実へと引き戻された。彼は振動の発信源を正確に捉え、震える声で無線機に叫んだ。
「敵兵器の位置を特定! 南西、第二丘陵の地下だ! 弱点はおそらく……共振だ!」
数分後、味方の砲兵隊が動いた。放たれたのは破壊のための榴弾ではない。リョウが算出した特定の周波数の音波を発生させる、特殊な音響弾だった。着弾の瞬間、世界が揺れた。しかし、それは爆発音ではなかった。キィィィン、と天まで届くような、巨大なクリスタルが砕け散る音。澄み切っていながら、どこか悲しげな断末魔だった。
やがて、その音が消え去ると、戦場には嘘のような静寂が戻ってきた。腹の底を揺さぶっていた不快な振動も、もうない。遠くの闇から、混乱した様子の兵士たちが、夢から覚めたようにふらふらと帰還し始めた。
リョウはヘッドフォンを外し、塹壕から顔を出した。東の空が、白み始めている。彼は、耳を澄ませた。聞こえてくるのは、遠くで鳴き交わす鳥の声。湿った土を渡る風の音。そして、仲間たちの安堵のため息。
それは、彼がずっと聞きたかった、ただの「生命の音」だった。戦争はまだ終わらない。だが、リョウは確かに、沈黙の戦線に一つの夜明けをもたらした。彼の耳は、もはや呪いではなく、明日を紡ぐための希望となっていた。
沈黙の戦線
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