***第一章 禁じられた頁***
灰色の空が、また哭いている。街の肺腑を震わせるように、空襲警報のサイレンが低く長く尾を引いていた。市立図書館の司書である私、リナは、分厚い樫の机の下で身を固くする。本棚を揺らす地響きが、まるで巨人の呻き声のように聞こえた。爆音と静寂が交互に支配するこの街で、本だけが私にとって唯一の聖域だった。インクの匂い、古紙の乾いた手触り、そして頁の向こうに広がる無限の世界。そこにはサイレンも、憎しみも、飢えも存在しない。
警報が止み、張り詰めた空気が緩むと、私はいつものように書架の整理に戻った。その時、カウンターの隅に置かれた一冊の本に目が留まった。麻布に丁寧に包まれた、古びたハードカバー。包みを解くと、現れたのは敵国の言葉で綴られた童話集だった。美しい装丁に反して、紙は黄ばみ、角は擦り切れている。寄贈者の記録はない。こんな時期に、誰が、何のために。
同僚に見つかれば、すぐにでも焼却処分になるだろう。敵国の文化は、我々の精神を蝕む毒だと教え込まれている。恐怖と好奇心が胸の中でせめぎ合う。私は誰にも気づかれぬよう、その本をエプロンの大きなポケットに滑り込ませた。
その夜、ランプの僅かな灯りを頼りに、自室でそっと本の頁をめくった。異国の文字は読めない。だが、添えられた挿絵は、森の動物たちや星空が優しく描かれ、不思議と懐かしい気持ちにさせた。そして、最初の物語の扉絵の余白に、インクで書かれた小さな文字列を見つけたのだ。それは、私の国の言葉だった。
『星の降る夜に、銀の鈴を探して』
心臓が大きく跳ねた。これは一体、何なのだろう。単なる落書きか、それとも誰かが私に遺した秘密のメッセージなのか。その日から、灰色の日常に、小さな謎の色が灯った。この禁じられた童話集は、私の心を掴んで離さなくなった。
***第二章 囁くインクの謎***
『星の降る夜に、銀の鈴を探して』。その言葉は、呪文のように私の頭の中で繰り返された。私は、この謎を解き明かしたいという抗いがたい衝動に駆られていた。それは、爆撃の恐怖から逃れるための、必死の現実逃避だったのかもしれない。
昼間は司書として働きながら、夜は図書館の書庫にこもり、街の古い地図や郷土史を片っ端から調べ始めた。かび臭い書庫の空気は、まるで秘密を隠すための帳のようだった。「銀の鈴」。それは教会の鐘のことだろうか。しかし、街の教会は先日の空襲で尖塔ごと崩れ落ちていた。
諦めかけたある日、一枚の古い観光案内図に、街の南外れにある小高い丘の上に、『銀鈴の鐘楼』という小さな記述を見つけた。今はもう廃墟となり、訪れる者もいない忘れられた場所だ。私の心に、確信めいた光が差し込んだ。
次の休日、私は配給のパンを懐に、瓦礫の山を越えて丘を目指した。空は相変わらず鉛色で、時折、偵察機と思しき機影が空を切り裂いていく。丘の頂には、蔦に覆われた石造りの小さな鐘楼が、時の流れから取り残されたように佇んでいた。錆びついた鐘は、風に揺れても音を立てない。これが、銀の鈴。
私は鐘楼の内部をくまなく探した。石壁の隙間、朽ちた床板の下。そして、鐘を吊るす梁の裏側に、ナイフで彫られた小さな文字を見つけたのだ。
『一番高い梢の、一番甘い果実』
その言葉を見た瞬間、私の脳裏に、忘れかけていた遠い記憶の風景が鮮やかに蘇った。幼い頃、父と一緒にこの丘に来たことがある。父は私を肩車し、丘で一番高い林檎の木に登って、真っ赤な実をもいでくれた。「これが世界で一番甘い果実だよ」。そう言って笑った父の顔。あの木は、まだあるだろうか。謎の送り主は、どうして私しか知らないはずの記憶を知っているのだろう。恐怖よりも、懐かしさと温かい期待が胸を満たした。私は、林檎の木が立つ場所へと、夢中で駆け出していた。
***第三章 星屑のレクイエム***
父が植えた林檎の木は、奇跡的に戦火を免れ、丘の稜線に凛として立っていた。枝には青い実がつき、夏の訪れを告げている。私は木の根元に膝をつき、柔らかい土を夢中で掘り返した。指先に、硬い金属の感触が当たる。それは、錆びついたブリキの菓子箱だった。
蓋を開ける。中には、一枚の色褪せた写真と、蝋紙に包まれた手紙が入っていた。
写真は、幼い私を肩車する、笑顔の父の姿だった。私の手には、小さな銀色の鈴がついた髪飾りが握られている。母の形見だった。
震える手で手紙を広げる。そこには、見慣れた父の筆跡があった。
「愛するリナへ。この手紙が君の元に届く頃、私はもうこの世にいないだろう」
息が止まった。父は、私が十歳の時に病で死んだと聞かされていた。だが、手紙は父が生き、遠い場所から私を想っていたことを告げていた。
父は、高名な児童文学の翻訳家だった。戦争が始まる前、文化交流の使節として敵国に渡ったまま、帰れなくなったのだという。彼は彼の地で、平和を信じ、物語の翻訳を続けていた。しかし、戦争が激化すると、スパイの嫌疑をかけられ、収容所に入れられた。この童話集は、病に蝕まれた父が、収容所で最後に翻訳した本だった。
『星の降る夜に、銀の鈴を探して』
それは、かつて二人で見た流星群の夜のこと。そして、私が大切にしていた母の形見、銀の鈴の髪飾りのこと。
『一番高い梢の、一番甘い果実』
それは、この丘で分かち合った、父と娘だけの甘い記憶。
書き込みは、暗号などではなかった。それは、離れ離れになった娘へ宛てた、父の愛の軌跡そのものだった。父は、本と、二人だけの思い出の言葉を道標に、時と距離を超えて、その愛を届けようとしてくれたのだ。
「敵国にも、父さんが愛したような物語があった。そこにも、私と同じように物語を愛する子供たちがいた。リナ、どうか憎しみで世界を見ないでおくれ。物語に国境はないのだから」
手紙の最後の一文を読んだ時、私の目から堰を切ったように涙が溢れ出した。瓦礫の街。憎むべき敵。サイレンの音。私の世界を構成していたすべてが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。私が憎んでいた「敵」とは、一体何だったのだろう。そこには、私の父がいた。物語を愛し、平和を願い、たった一人の娘を死の淵まで想い続けた、一人の人間がいたのだ。私は、父の童話集を胸に抱きしめ、声を上げて泣いた。空は相変わらず灰色だったが、私の心には、父がくれた無数の星が降っていた。
***第四章 物語は終わらない***
歳月が流れ、長く続いた戦争は終わった。街には復興の槌音が響き、人々は未来へと顔を上げ始めた。灰色の空は、抜けるような青さを取り戻している。
再建された市立図書館で、私は司書長として働いていた。館内の一番陽当たりの良い場所に、私は「世界の物語」と名付けたコーナーを新設した。そこには、様々な国の言葉で書かれた本が並んでいる。その中心には、父が遺したあの童話集が、誇らしげに置かれていた。もちろん、私が新たに翻訳した、この国の言葉版も一緒に。
午後になると、私はそのコーナーに子供たちを集めて、読み聞かせをするのが日課になっていた。
「むかしむかし、遠い森の奥に…」
私の声に、子供たちの瞳が輝く。かつては禁じられた敵国の物語が、今、国籍も言葉の壁も越えて、子供たちの心に柔らかい光を灯している。父が信じた通り、物語に国境はなかった。
あの日、父の愛を知った私は、もう本の世界に閉じこもるだけの臆病な少女ではなかった。物語が持つ、憎しみを超え、人と人とを繋ぐ力を信じている。その力を、次の世代に手渡していくことが、私の使命だと感じていた。
読み聞かせが終わり、子供たちが歓声をあげて散っていく。一人、小さな少年が私の側に駆け寄ってきた。彼は、父の童話集を指さして、真っ直ぐな瞳で私に尋ねた。
「リナ先生、このお話の続きはあるの?」
私は、彼の小さな頭を優しく撫でた。窓の外では、新しいビルが太陽の光を反射して輝いている。かつて鐘楼があった丘の林檎の木も、きっと今年も甘い実をつけているだろう。私は穏やかに微笑み、少年に答えた。
「ええ。続きは、私たちが作っていくのよ」
物語は終わらない。誰かがそれを読み、語り継ぐ限り。平和もまた、きっと同じなのだ。私の胸の中で、父の愛の証である銀の鈴が、澄んだ音を立てて、いつまでも響いているような気がした。
銀の鈴が響く書架
文字サイズ: