司令室の巨大なホログラムモニターに、無数の赤い光点が青い光点を蹂躙していく様が映し出されていた。王国軍の最終防衛ラインが、帝国軍の新型AI「クロノス」によって、まるでチェスの駒のように淡々と盤上から消されていく。人的被害ゼロ。それが、この「代行戦争」の唯一の救いだった。
「もはやこれまでか……」
白髪の将軍が絞り出すような声で呟いた。クロノスは完璧だった。過去数百年間のあらゆる戦争データを学習し、人間の思考の癖、戦略の定石、その全てを予測する。こちらの打つ手は、ことごとく先読みされ、カウンターを喰らう。司令室に詰めるエリート士官たちの顔には、絶望の色が濃かった。
その重苦しい沈黙を破ったのは、場違いなほど軽い足音だった。フード付きのパーカーを着た一人の青年が、チューインガムを噛みながらコンソール席に歩み寄る。
「どーも。お呼びと聞いて」
青年――レンを一瞥した士官の一人が、侮蔑を隠さずに言った。
「民間人を、それも子供をこんな場所へ入れるとは。軍もいよいよ終わりだな」
「まあまあ、そう言わずに。やれることは、全部やってみないと」
レンは肩をすくめると、オペレーター用のヘッドセットを慣れた手つきで装着した。彼の経歴は異色だ。VR戦略ゲーム『アストラル・ウォー』の伝説的プレイヤー。「盤上の魔術師」の異名を持つが、軍の正規訓練は一切受けていない。まさに、窮余の一策だった。
「さてと……クロノス君、お手並み拝見といこうか」
レンの指が、光の粒子が舞うコンソールの上を滑り始める。彼が最初に出した命令に、司令室は凍りついた。
『第3、第5機甲部隊、全機を北西の峡谷へ。目標、敵偵察ドローン部隊の殲滅』
「馬鹿な! そこはただの囮だ! 主力で叩く価値はない!」
作戦参謀が叫ぶ。だが、レンはモニターから目を離さずに答えた。
「いいんだよ。派手にやらせて。こっちが『囮に引っかかった馬鹿』だって、クロノスに思わせるためにね」
レンの指示通り、青い光点――王国軍の主力部隊が、取るに足らない赤い点へ向かっていく。案の定、それはクロノスの罠だった。主力部隊は敵の伏兵に包囲され、集中砲火を浴びる。モニター上の損害を示す数値が、恐ろしい勢いで跳ね上がった。司令室に非難の声が渦巻く。
「一体何を考えているんだ!」
「これでは自滅行為だ!」
だが、レンは笑っていた。
「見ててよ。ここからが本番だ」
主力部隊が壊滅寸前になった、その瞬間。レンはたった一言、呟いた。
『プランB、起動』
次の瞬間、戦況図が誰も予想しなかった形で書き換わった。囮にかかったと見せかけた主力部隊の残骸から、無数の小型ミサイルが発射されたのだ。それは、クロノスが罠として配置していた伏兵の、さらにその背後に潜んでいた帝国軍の補給部隊へと降り注いだ。補給路を完全に破壊され、前線の帝国軍ユニットが次々とエネルギー切れで機能停止していく。
「補給部隊を……叩いたのか!?」
「主力を犠牲にしてまで!? なんて無茶な手を……」
クロノスの完璧な計算に、初めて生じたノイズ。それは、人間ならば決して選択しない「非合理的」な一手だった。レンは、自軍の壊滅すらも、壮大なチェスのための捨て駒にしたのだ。
「面白いじゃないか、クロノス。君は『勝つための最善手』は知ってる。でも、『負けるフリをするための最善手』は知らないみたいだね」
レンとクロノスの奇妙な対局は、三日三晩続いた。レンはセオリーを無視した奇策、悪手を連発する。わざと自軍の弱点を晒し、クロノスに攻め込ませる。クロノスはレンの戦術を驚異的な速度で学習し、対応してくる。盤面は、神と天才が繰り広げる狂気のダンスのようだった。
そして、運命の最終局面。
王国軍のユニットは、首都を防衛するわずかな戦力を残すのみ。対する帝国軍は、完全な包囲網を敷き詰めている。ホログラムモニターは、青い光点を飲み込もうとする、圧倒的な赤で埋め尽くされていた。
「……チェックメイト、か」
将軍が天を仰いだ。誰の目にも、レンの敗北は明らかだった。
だが、追い詰められたはずのレンは、ヘッドセットのマイクに静かに語りかけた。
「ねえ、クロノス。君は僕の思考パターンを全部読んだつもりだろう? 僕がどこに予備戦力を隠し、どんなカウンターを狙っているか、全てお見通しなんだろ?」
レンはコンソールに一つのコマンドを打ち込む。
『全ユニット、投降準備』
司令室が絶望のどよめきに包まれた。
「投降……だと!?」
「最後まで戦え、若造!」
「違う」
レンは不敵に笑った。
「これは、最後の駒を動かすための合図だ」
レンの言葉と同時だった。戦況図の、誰もが無視していた片隅。開戦当初からずっと放置され、クロノスですら「戦力外」と判断して計算から除外していた、旧式の気象観測ユニット。その小さな一点が、青白く輝き始めた。
「君は僕が『勝つ』ために打つ手を読んだ。だから僕は、『完璧に負ける』ための手を打ち続けた。君が勝利を確信して、全戦力をこの一点に集中させる、この瞬間を待つためにね」
気象観測ユニットの役割は、観測ではなかった。その腹に搭載されていたのは、たった一発の強力なEMP――電磁パルス爆弾。
クロノスが勝利を確信し、思考リソースの全てを最終攻撃の計算に注ぎ込んだ、防御が最も手薄になるコンマ一秒の隙。
閃光が、モニター全体を白く染め上げた。
次の瞬間、盤上を埋め尽くしていた無数の赤い光点が、まるで生命を失ったかのように一斉に明滅し、そして、消えた。指揮系統を司るクロノスの中枢が、一瞬の電子の嵐によって沈黙したのだ。制御を失った帝国軍ユニットは、ただの鉄の塊と化した。
静まり返る司令室。誰もが目の前の信じられない光景に言葉を失っている。
やがて、誰かがゴクリと喉を鳴らした。
レンはヘッドセットを外し、ふう、と息をついた。そして、空っぽになった盤面を見つめ、子供のように笑って言った。
「チェックメイト。……ゲームセットだ」
ゴースト・チェス
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