静寂のレクイエム
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静寂のレクイエム

第一章 不協和音の戦場

泥と硝煙の匂いが、俺の肺を焼く。塹壕に身を屈めながら、俺はライフルの冷たい銃身にそっと耳を当てた。聴こえてくる。死んでいった兵士たちの、言葉にならない最後の思考が。それはガラスが擦れるような甲高い絶望であり、地の底から響くような鈍い怒りだった。俺、カイにだけ聴こえる、金属に刻まれた感情の残響。断線したラジオから漏れるノイズのように、それは絶えず俺の鼓膜を苛んでいた。

この『終焉なき戦役』が始まって数十年。俺たちの頭上には、常に分厚い『感情の雲』が渦巻いていた。戦場で散った無数の魂の苦悶を吸い上げて肥大化した、鉛色の巨大な塊。時折、その雲は耐えきれなくなったように結晶化し、『記憶の雨』を地上に降らせた。その冷たい雫に肌を打たれた者は、見知らぬ誰かの死の瞬間を幻視する。ある者は母を呼ぶ声を聞き、ある者は恋人の顔を思い浮かべながら絶命する兵士の痛みを感じた。雨は、俺たちに戦争の愚かさを忘れさせない、呪いのような恵みだった。

だが、ここ数ヶ月、その雨がぴたりと止んだ。空には相変わらず感情の雲が滞留しているというのに。そして、戦場の音もまた、奇妙な変容を遂げ始めていた。俺は耳元の不協和音の中に、今まで聴いたことのない、異質な響きが混じり始めていることに、誰よりも早く気づいていた。

第二章 虚無の旋律

「またか……」

俺は回収されたばかりのヘルメットから耳を離し、低く呻いた。内側にこびりついた血の生温かさが、まだ指先に残っている。そこから聴こえてきたのは、いつもの慟哭でも、呪詛の叫びでもなかった。

ただ、静かだった。

いや、完全な静寂ではない。それは、あらゆる音を飲み込んでしまう真空のような、深淵の音。全ての感情が濾過され、昇華された後に残る『無』の旋律。その音は、俺の耳鳴りの中心で、冷たい芯のように鎮座していた。

この現象は、ある一点から始まったことがわかっていた。方面軍司令部が『ゼロ・ポイント』と名付けた、かつての激戦地。そこから東の戦線へ向かうにつれて、全ての戦死者の『最後の思考』が、この虚無の音へと統一されていくのだ。

塹壕で一息つく仲間たちは、雨が止んだことを「女神の慈悲だ」と笑い合っていた。もう、他人の悪夢にうなされることはないのだと。だが俺には、その変化が、嵐の前の不気味な静けさにしか思えなかった。戦場の悲鳴が消える。それは祝福などではない。もっと根源的な何かが、この世界から失われ始めている予兆だった。

第三章 ゼロ・ポイント

俺は命令を無視した。背嚢に最低限の食料と水を詰め込み、夜陰に紛れて塹壕を抜け出した。目指すは、全ての異変の震源地、『ゼロ・ポイント』。この耳鳴りの正体を突き止めなければ、俺は正気を保てそうになかった。

荒涼とした大地には、無数の兵器の残骸が墓標のように突き立っていた。錆びついた戦車の装甲、ねじくれた砲身、そして、風化した人骨が、まるで枯れ木のように散らばっている。俺は何度も立ち止まり、その金属の亡骸に耳を寄せた。

だが、何も聴こえなかった。

恐怖も、怒りも、悲しみも。かつてここを満たしていたはずの感情の残響が、綺麗に消し去られている。魂ごと洗浄されたかのような、完璧な無音。ゼロ・ポイントに近づくにつれて、俺の頭の中で鳴り響く『無』の音は、次第にその純度を増していく。それはもはや一つの音ではなく、無数の『無』が重なり合った、巨大な静寂の合唱だった。まるで世界そのものが、深いため息をついているかのように。

第四章 錆びついた認識票

ゼロ・ポイントの中心は、巨大なクレーターだった。まるで天から巨人が拳を振り下ろしたかのような、異様な光景が広がっていた。そして、その窪地の真ん中に、それはあった。

一体の古い装甲服が、大地に突き刺さるようにして、独り佇んでいた。何十年もの風雨に晒され、その表面は赤錆に覆われている。しかし、その胸元で、何かが月光を鈍く反射していた。

吸い寄せられるように近づき、俺はそれが一枚の認識票であることに気づく。鎖はとうに朽ち果て、プレートだけが辛うじて装甲服に引っかかっていた。

俺は、震える指でその錆びついた認識票に触れた。

その瞬間、世界から音が消えた。俺の頭を常に苛んでいた『無』の合唱が、ぴたりと止んだのだ。そして、代わりに流れ込んできた。言葉ではない、純粋な意志の奔流が。認識票の持ち主――かつてこの地で戦い、『英雄』と呼ばれた男の記憶と決意が、俺の魂に直接焼き付けられていく。

彼は憎しみの連鎖を断ち切ることを願った。戦争そのものを、この世界から消し去るために。この装甲服は、彼の命と意識をコアとした、巨大な『意識の浄化装置』だったのだ。戦場で生まれる全ての感情と記憶を吸い上げ、遥か宇宙の彼方へと昇華させるための、究極の装置。

あの『無』の音は、浄化のプロセスそのものだった。無数の魂が、苦痛から解放され、静寂へと還っていく鎮魂歌(レクイエム)だったのだ。

第五章 消えゆく世界

認識票から指を離すと、あの深遠な『無』の音が、再び世界に満ちた。だが、もう俺にとってそれは不気味な静寂ではなかった。それは、途方もない犠牲の上に成り立つ、あまりにも優しく、そして残酷な救済の響きだった。

俺は空を見上げた。頭上を覆っていた鉛色の『感情の雲』が、まるで朝霧が晴れるように、ゆっくりと薄れ、消えていく。もう二度と、『記憶の雨』が降ることはないだろう。

数日後、俺が所属部隊に合流した時、世界の変容は決定的になっていた。仲間たちの顔から、ある種の険しさが抜け落ちていた。彼らは銃を磨き、食事を摂り、冗談を言い合う。だが、その瞳の奥に、かつて宿っていた炎のような光はなかった。

「なあ、カイ。俺たち、何でここにいるんだっけ?」

若い兵士が、不思議そうに首を傾げた。俺が「敵を討つためだ」と答えても、彼は「てき?」と、まるで初めて聞く言葉のように繰り返すだけだった。憎しみも、悲しみも、祖国への想いさえも、彼らの心からゆっくりと洗い流され始めていた。浄化は、死者だけでなく、生者の魂にまで及んでいたのだ。

第六章 孤独な証人

あれから十年が経った。

世界から戦争はなくなった。国境線は意味を失い、人々はただ穏やかに日々を生きている。歴史の教科書から争いの記録は消え、誰もが、なぜ武器というものが存在するのかさえ忘れてしまった。世界は、完璧な平和を手に入れた。

そして、完璧な空虚さを手に入れた。

俺だけが、全てを覚えている。かつてこの大地を濡らした血の匂いを。仲間たちの断末魔の叫びを。そして、『記憶の雨』がもたらした、見知らぬ誰かの愛と痛みを。

時折、俺は博物館に展示されている古いライフルの銃身に、そっと耳を当てる。すると、今も微かに聴こえるのだ。あの深遠で、全てを包み込むような『無』の音が。それは、平和の代償として失われた、無数の魂の残響。

俺は、その音を聴き続ける唯一の証人。

空を見上げると、そこにはもう雲ひとつない。どこまでも青く、澄み渡り、そして、どこまでも空っぽな空が広がっているだけだった。

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