逆流する砂時計のレクイエム
第一章 錆びた時間の残響
鉄の匂いがした。それは血の匂いと、燃え尽きた硝煙の匂いが混じり合った、この時代の香りだった。俺、カイは、ひしゃげた装甲車の残骸にそっと指先で触れる。冷たい。死んだ獣の肌のように、生命の温もりは一片も残っていなかった。
目を閉じる。
刹那、世界が反転した。目の前に広がるのは、泥と錆にまみれた残骸ではない。工場から出荷されたばかりの、一点の曇りもない滑らかな装甲。陽光を反射する力強い砲塔。エンジンが未来への希望を奏でるように、高らかな産声を上げる。そして、その操縦席で、まだあどけなさの残る若い兵士が、仲間と笑い合っている。彼の瞳には、これから始まる戦争の影など微塵も映っていなかった。
「……ッ!」
幻影は一瞬で消え去り、再び目の前には無惨な鉄屑が横たわるだけだった。これが俺の能力。戦争で破壊されたモノに触れると、それが最も輝いていた瞬間の『時間』の記憶を視ることができる。それは単なる映像ではない。そのモノが確かに生きていた、温かい時間の奔流そのものだ。
この世界で、戦争とは『時間』を奪い合う行為だ。敵国の未来という名の時間を奪い、自国の兵器を半永久的に稼働させ、兵士の寿命すら延ばす。我々の勝利は、敵国の歴史を喰らうことで成り立っている。だが、その代償に、奪われた国の未来はゆっくりと『枯れて』いく。そこではもう、新しい花は咲かず、子供たちの笑い声も響かないという。
俺は足元に転がる、奇妙な物体に気づいた。砂時計の形をした、壊れた懐中時計。ガラスには蜘蛛の巣状のヒビが入り、金属の縁は黒く煤けている。だが、奇妙なことに、中の銀色の砂は重力に逆らうように、下から上へと静かに、そして絶え間なく流れ続けていた。それを拾い上げた瞬間、頭の奥でキーンと、声にならない叫びが響いた気がした。
第二章 枯れゆく未来
「またやってたのか、カイ」
背後からの声に、俺は懐中時計をポケットに押し込んだ。振り向くと、戦友のリアムが呆れたような顔で立っている。
「ただの鉄屑に、何を感傷に浸ることがある」
「鉄屑じゃない。こいつにも時間があったんだ。俺たちと同じように」
リアムは肩をすくめた。彼の言うこともわかる。この『時間戦争』において、感傷は最も不要な感情だ。我々の街では、奪った時間エネルギーによって、夜でも煌々と明かりが灯り、老いた将軍でさえ若々しい肌を保っている。だが、その繁栄はどこか乾いていた。公園に植えられた花々は色褪せ、蕾のまま枯れていく。街角から、子供たちの無邪気な歌声が消えて久しい。我々は敵の未来を奪うことで、自らの未来をも少しずつ蝕んでいるのではないか。そんな疑念が、胸の奥で黒い染みのように広がっていた。
その夜、俺は薄暗い兵舎のベッドで、あの懐中時計を眺めていた。逆流する砂は、まるで失われた時を取り戻そうとしているかのようだ。
そっと指で触れる。
すると、まただ。頭蓋の内側で、誰かの悲鳴のような無音の『声』が木霊する。それは悲しみと、焦燥と、そして僅かな希望が入り混じった、奇妙な響きを持っていた。俺はこの『声』を知っているような気がした。遠い昔に交わした約束のように、懐かしく、そして胸が締め付けられるほどに切ない響きだった。
第三章 一瞬の実体化
警報が鳴り響き、兵舎を揺るがした。敵襲だ。
俺とリアムは塹壕に飛び込み、頭上を飛び交う閃光を見上げた。あれは敵国の『時間兵器』。着弾した地点の時間を強制的に未来へ、あるいは過去へと飛ばし、物質を崩壊させる厄介な代物だ。
「防壁が持たんぞ!」
誰かの絶叫。次の瞬間、我々が身を寄せていたコンクリートの防壁が、閃光に呑まれて砂のように崩れ落ちた。剥き出しになった俺たちに、敵の第二射が迫る。万事休すか。
俺は無意識に、崩れた防壁の瓦礫に手を伸ばしていた。
その瞬間、世界が変わった。敵の時間兵器が放った膨大な時間エネルギーが、まるで磁石に吸い寄せられるように俺の体に流れ込んできた。視界が白く染まり、時間の記憶が奔流となって溢れ出す。
「う、おおおおっ!」
俺が視ていた『最も完成された状態』の防壁が、現実世界に像を結んだ。それは幻じゃない。質量を持った、完璧な防壁だ。ほんの一瞬だけ再構築された壁は、迫りくる第二射の閃光を完全に受け止め、そして再び光の粒子となって霧散した。
俺たちは救われた。だが、俺は見てしまったのだ。一瞬だけ実体化したその壁の表面に、映ってはならないものが映っていたのを。
それは、戦争などどこにもない、穏やかな未来の都市の風景だった。空をゆっくりと飛ぶ乗り物。緑豊かな公園で遊ぶ子供たち。その光景は、俺たちが奪い、枯らせているはずの、敵国の未来そのもののように見えた。
第四章 逆流する砂の声
なぜ、未来が映る? 奪われたはずの、ありえないはずの未来が。
あの現象の鍵は、戦場で奪い合われる『時間』のエネルギーだ。俺は答えを求め、最もエネルギーが色濃く渦巻く場所へと向かうことを決意した。敵国の旧首都中心部にそびえ立つ、半壊した『平和記念塔』。そこは、この戦争で最も多くの時間が奪われた場所だった。
リアムの制止を振り切り、俺は単身、廃墟と化した市街地を駆けた。瓦礫の山を越え、たどり着いた記念塔は、天を衝く巨人が膝をついたような姿で、静かに夜空に聳えていた。
俺は震える手で、その巨大な台座に触れた。
凄まじい情報量が一気になだれ込んでくる。何百、何千年分もの『時間』の記憶。建立された日の歓声、恋人たちの囁き、平和を祈る人々の歌声。そして、それら全てが焼き尽くされた日の絶叫。
俺の能力が暴走する。記念塔が眩い光と共に再構築されていく。だが、それは過去の姿ではなかった。その表面は巨大なスクリーンのように、無数の未来の断片を映し出していた。
燃え盛る地球。赤い空。星々の残骸。絶望し、泣き崩れる人々。これは、俺たちの戦争がもたらす未来なんかじゃない。もっと根源的で、巨大な、避けられない『時間の終焉』。
そして、その絶望の風景の中心に、一人の女性が立っていた。俺とよく似た、強い意志を宿した瞳を持つ女性。彼女は悲痛な表情で、唇を動かした。声は聞こえない。だが、俺にはわかった。
その瞬間、ポケットの懐中時計が灼熱を帯びて激しく震え、彼女の『声』が直接、俺の脳に響き渡った。
『世界を救うために、世界を壊して』
『この悲劇は、未来へ繋ぐための唯一の道標』
その声は、ずっと俺の頭に響いていた、あの無音の悲鳴の主だった。
第五章 自作自演の悲劇
全身の血が凍りつくような感覚。俺は全てを理解した。
この『時間戦争』は、敵と味方が未来を奪い合う醜い争いなどではなかった。これは、未来で起こる人類全体の『時間の終焉』という大破滅を回避するための、壮大な自作自演の悲劇だったのだ。
映像の女性。敵国を率いる謎めいた指導者、リリア。彼女こそが、俺自身の、遥か未来の末裔。
彼女は、避けられない破滅の未来から、歴史を修正するためにやってきた。人類が破滅のルートを辿らないように、強制的に歴史のレールを切り替えるために。その方法が、この『時間戦争』を引き起こすことだった。
敵国は未来を『奪われて』いるのではない。自ら未来を『差し出す』ことで、時間軸の歪みを少しずつ是正し、破滅へと向かう奔流の向きを変えようとしていたのだ。差し出された未来の断片が、俺の能力によって垣間見える『平和な未来』の正体だった。
俺の能力は、そのためにあった。未来の彼女が遺した、歴史修正の座標を確認するための鍵。そして、この砂時計の懐中時計は、彼女が時空を超えて祖先である俺に真実を伝えるために遺した、悲しい遺言だったのだ。
俺たちの勝利は、誰かの犠牲の上に成り立つものではなかった。それは未来からの、血を吐くような祈りそのものだった。
第六章 約束の地平線
戦いは、まだ終わらない。
俺は戦場に戻った。リアムは何も聞かず、ただ俺の肩を叩いた。
今、俺の心にあるのは憎しみでも、勝利への渇望でもない。遥か未来で、たった一人で人類の罪を背負い、非情な指導者を演じている末裔への、どうしようもないほどの愛おしさと、使命感だけだった。彼女が託した悲しい願いを、俺が終わらせなければならない。
俺は再び、破壊されたものに触れる。
だが、もうそこに悲しみはない。俺が視るビジョンは、単なる過去の記憶の再生ではなくなった。それは、この悲劇の先にある、新しい時間軸へと繋がる未来への『約束』の光景だった。俺が触れるたびに、再構築される一瞬の幻が、未来への道を少しずつ、しかし確実に舗装していく。
俺はふと空を見上げた。そこは『枯れた』はずの敵国の空。だが、厚い雲の切れ間から、まるで奇跡のように、一条の光がまっすぐに地上へと差し込んでいた。
ポケットの中で、懐中時計が微かに振動した。見ると、あれほど頑なに逆流を続けていた銀色の砂が、ついにその流れを止め、サラサラと、本来あるべき正しい方向へと静かに落ち始めている。
それは、新しい時間の始まりを告げる、優しい音色のようだった。