地平線の彼方まで続く赤錆びた大地。共和国の陸上戦艦「マストドン」は、その巨体を軋ませながら進んでいた。全長二百メートルを超える鋼の獣。だが、その実態は先の会戦で辛うじて生き延びた、時代遅れの老兵に過ぎなかった。
「レオ、圧力は安定しているか」
艦橋から降りてきた砲術長が、油と汗にまみれた俺の顔を覗き込む。
「あんたが引き金を引く分には問題ねえよ。だが、無駄撃ちはやめてくれ。こいつはもう、そんなに若くないんでね」
俺、レオ・シュタインは、このマストドンの心臓部である機関室の主だ。巨大な蒸気ボイラーが唸りを上げ、複雑に絡み合ったパイプが熱い蒸気を艦の隅々へと送り届ける。ここが止まれば、この鉄の塊はただの的だ。
今回の任務は、峡谷地帯に築かれた敵国「帝国」の前線基地への陽動攻撃。主力部隊が本命を叩くための、いわば捨て駒の役目だった。
「敵影確認! 帝国軍の新型だ! 高速陸上戦艦『ファルケン』!」
見張りからの絶叫が、艦内に響き渡った。最悪だ。俊敏な鷹の名を持つ最新鋭艦。鈍重な象であるマストドンが敵う相手ではない。
案の定、ファルケンは我々の主砲の射程外から、的確な砲撃を加えてきた。衝撃がマストドンを揺らし、天井から金属片が降り注ぐ。機関室の圧力計の針が危険な領域で踊る。
「くそっ、やりたい放題じゃねえか!」
俺が怒鳴ったその時、艦全体を根底から揺さぶるような、これまでで最大の衝撃が襲った。
「主機(メインエンジン)に被弾! 動力停止! 動力停止!」
艦橋からの悲鳴に近い報告。ついに心臓を撃ち抜かれたのだ。蒸気の供給が止まり、機関室の唸りが悲しい静寂へと変わっていく。
「総員、退艦準備。白旗を掲げろ」
艦長の絶望的な声が伝声管から聞こえた。終わりか。
だが、俺は諦めていなかった。目の前には、緊急時用の補助ボイラーと、本来は廃熱を利用して僅かな電力を賄うための小型タービンがある。誰もが気にも留めない、ガラクタ同然の設備。だが、俺の頭の中では、一つの無謀な計算式が完成していた。
「おい、お前ら! 死にたくなけりゃ手を貸せ!」
俺は部下の機関兵たちに叫んだ。
「補助ボイラーを直結して、廃熱タービンを強制的に回す! バルブというバルブを全部開放して、ありったけの蒸気を一気にシリンダーに送り込むんだ!」
「正気か、レオ! そんなことをしたら艦が内側から吹き飛ぶぞ!」
「吹き飛ぶ前に、こいつを動かすんだよ!」
俺たちは狂ったように工具を振るった。制止しようとする士官を突き飛ばし、本来なら繋がることのないパイプを無理やり接続する。補助ボイラーが悲鳴を上げ、安全弁が弾け飛ぶ。
「圧力、臨界点突破!」
「構うな! 開けぇぇっ!」
次の瞬間、マストドンは凄まじい断末魔のような咆哮を上げた。艦尾の巨大な排気口から、濃密な黒煙と蒸気が天を突く勢いで噴出する。死んだはずの巨獣が、ゆっくりと、しかし確実に後退を始めたのだ。
「な、なんだと!?」「後退している!?」
信じられないといった様子の帝国軍。彼らの目には、撃沈したはずの老朽艦が、あり得ないエネルギーで動いているように見えただろう。ファルケンは、予期せぬマストドンの動きに混乱し、一瞬、射撃を止めた。
その一瞬が、俺たちの全てだった。
「砲術長! 今だ!」
俺は伝声管に吼えた。
「峡谷の壁を撃て!」
艦橋も、俺の意図を瞬時に理解した。マストドンは後退しながら、残っていた最後の主砲弾を、敵艦ではなく、すぐそばにそそり立つ峡谷の岩壁に撃ち込んだ。轟音と共に岩壁が崩落し、巨大な岩石の津波が、身動きの取れなくなったファルケンへと襲い掛かった。
鋼鉄を砕く鈍い音が、遠くで響いた。やがて静寂が戻った時、高速を誇ったファルケンは、大量の岩石の下敷きになり、無様に白煙を上げていた。
俺たちのマストドンも、限界だった。機関室は蒸気漏れと熱で地獄と化し、二度と動くことはないだろう。だが、俺たちは生きていた。そして、勝ったのだ。
甲板に出ると、夕日が赤錆びた大地を黄金色に染めていた。規律違反で銃殺されてもおかしくない。だが、不思議と気分は晴れやかだった。
戦争は、最新兵器やエリートの作戦だけで決まるものじゃない。油にまみれた名もなき男たちの、鉄と蒸気と意地が、時に戦場の神をも従わせる。俺は煙草に火をつけながら、動かなくなったマストドンの、鋼鉄の心臓の鼓動を、確かに聞いていた。
鋼鉄の心臓
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