最後の兵士への手紙

最後の兵士への手紙

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***第一章 封じられた手紙***

終戦から五十年。僕の生まれた街、アストリアから硝煙の匂いはとうに消えていた。石畳の広場では鳩が舞い、カフェのテラスでは人々が平和を謳歌する。戦争は、歴史の教科書に刻まれたインクの染みであり、年寄りたちの退屈な昔話だった。少なくとも、僕、リオにとっては。

「また『あの頃』の話か」

大学の講義を終え、アルバリト先である市立記憶保管庫へ向かう道すがら、ベンチに座る老人たちの会話が耳に入り、僕は心の中でため息をついた。彼らはみな、英雄か悲劇の主人公のように、己の戦争体験を語る。僕らのような戦争を知らない世代には、その熱量がひどく滑稽に映った。

記憶保管庫は、そんな「過去」の吹き溜まりのような場所だ。戦争で失われた人々の遺品――色褪せた写真、インクの滲んだ手紙、持ち主不明の万年筆――が、埃っぽい棚に無数に並んでいる。僕の仕事は、それらを整理し、データベースに入力し、稀に訪れる遺族に引き渡すこと。静かで、時給が良くて、誰とも深く関わらなくていい。僕にとっては完璧な職場だった。

その日、僕はいつものように地下の第3書庫で、引き取り手の見つからない遺品を整理していた。カビと古紙の匂いが混じり合った空気が鼻をつく。山積みの木箱の中から、ひときওয়ার目立つものがあった。装飾も何もない、ただの簡素な木箱。ラベルには「所属不明」とだけ記されている。好奇心からというよりは、単なる気まぐれで、僕はその蓋を開けた。

中身は、拍子抜けするほど少なかった。掌に収まるくらいの、ブリキの兵隊人形が一体。そして、蝋で封をされた一通の古い封筒。それだけだ。人形の塗装はところどころ剥げ、物憂げな表情で虚空を見つめている。

僕は封筒を手に取った。宛名も差出人の名もない。ただ、万年筆による震えるような筆跡で、こう書かれていた。

『最後の兵士へ』

不審に思いながらも、僕は蝋を割り、中の便箋を取り出した。そこには、短く、しかし奇妙な一文が記されていただけだった。

『君がこの手紙を読むとき、本当の戦争が始まる』

僕は思わず鼻で笑った。芝居がかった、感傷的な言葉だ。誰かが遺したポエムか何かだろう。そう片付けようとした。なのに、その言葉は鉛のように重く、僕の心に沈殿した。本当の戦争? 馬鹿馬鹿しい。戦争はとっくの昔に終わったじゃないか。僕は便箋を木箱に戻し、仕事に戻ろうとした。だが、ブリキの兵隊の空虚な瞳と、便箋の文字が、頭からどうしても離れなかった。

***第二章 ブリキの兵隊***

あの日以来、僕の日常は少しずつ侵食され始めた。「本当の戦争が始まる」という言葉が、まるで呪いのように思考の片隅にこびりついていた。講義中も、食事中も、ふとした瞬間にその言葉が蘇り、僕は意味もなく周囲を見回してしまう。平和な街の風景が、どこか張りぼてのように見え始めた。

僕は、あの木箱の出所を調べ始めた。それは仕事の範疇を完全に逸脱した行為だったが、構わなかった。保管庫の古い台帳をめくり、何日もかけて突き止めたのは、その箱が終戦直後、激戦地だった「鷲ノ巣渓谷」から回収されたということだけだった。それ以上の情報はない。

「その箱のことなら、わしは知らんよ」

保管庫の所長であるエリアスは、僕の質問に静かに首を振った。彼は七十代半ばの、いつも穏やかな老人だ。皺の刻まれた目元は優しいが、その奥には底知れない静寂が広がっている。戦争の話を振ると、彼は決まってこうして話を逸らした。彼もまた、過去に囚われたくない一人なのだろうと、僕は勝手に解釈していた。

僕は諦めきれず、今度はブリキの兵隊人形そのものを調べた。人形の足の裏に、微かにメーカーの刻印が残っていた。それは敵国だった「ゲール帝国」の有名な玩具メーカーのものだった。なぜ、我が国の激戦地に敵国の兵隊人形が? 謎は深まるばかりだった。

僕は大学の図書館で、鷲ノ巣渓谷の戦いに関する資料を読み漁った。凄惨な白兵戦、折り重なる死体、飢えと寒さ。活字で語られる地獄は、僕の想像をはるかに超えていた。ページをめくる指が、冷たくなっていくのを感じた。それは、教科書の無機質な記述とは全く違う、生々しい手触りを持っていた。

ある晩、保管庫の閉館後、僕は再びあの木箱の前に座っていた。ブリキの兵隊を手に取ると、ひんやりとした金属の感触が伝わってくる。その冷たさが、まるで死者の肌のようだと感じた。僕は知らず知らずのうちに、この名もなき兵隊人形と、手紙の主に感情移入し始めていたのだ。昔話だと切り捨てていた戦争が、確かな痛みと手触りを伴って、僕の現実に滲み出してきていた。

この手紙は誰が、誰のために書いたのか。そして「最後の兵士」とは一体誰のことなのか。僕は、この謎を解き明かすことが、まるで自分に課せられた使命であるかのように感じ始めていた。

***第三章 最後の兵士***

調査は行き詰まった。僕が得た手がかりは、「鷲ノ巣渓谷」「ゲール帝国の兵隊人形」、そして「最後の兵士」という言葉だけ。僕は最後の望みをかけて、もう一度エリアス所長の元を訪れた。

「所長。どうしても、教えてほしいんです。鷲ノ巣渓谷で、何があったんですか」

僕の真剣な眼差しに、エリアスは初めて狼狽の色を見せた。彼はしばらく沈黙し、やがて重い口を開いた。その声は、いつもの穏やかさとは程遠く、乾いてひび割れていた。
「……そこまで知りたいかね。後悔するかもしれんぞ」

彼は僕を所長室に招き入れ、古びた紅茶を淹れてくれた。カップを持つ彼の手が、微かに震えている。そして、堰を切ったように語り始めた物語は、僕のちっぽけな価値観を根底から破壊するのに十分すぎるものだった。

「わしは…わしは、ゲール帝国の少年兵だった」

耳を疑った。エリアスは敵国の兵士だった? あの穏やかな老人が?

「当時、わしはまだ十五歳だった。家族を殺され、無理やり銃を持たされ、鷲ノ巣渓谷に送られた。そこは地獄だったよ。味方は次々と死に、食料も尽きた。そしてある日、わしは敵兵に見つかった。君の国の兵士だ」

エリアスの目は、遠い過去を見つめていた。その瞳には、恐怖と絶望がありありと映っていた。

「わしはもう、死を覚悟した。だが、その兵士はわしを撃たなかった。彼はわしと同じくらいの歳に見えた。彼はわしに、自分の食料と水を分け与え、こう言ったんだ。『戦争はもうすぐ終わる。君は生きろ』と」

その兵士は、迫りくる味方の部隊からエリアスを庇うため、彼を洞窟に隠した。そして、彼が持っていたブリキの兵隊人形を指さして、微笑んだという。
「それは弟へのお土産か? いいな。必ず届けてやれ」

しかし、その直後、味方の部隊が洞窟を発見した。兵士はエリアスを庇い、「中には誰もいない!」と叫んだ。だが部隊は信じず、洞窟内に手榴弾を投げ込んだ。とっさに兵士はエリアスに覆いかぶさり、その背中で爆風の全てを受け止めた。

「彼が最後に、わしの手に握らせたのが、あの一通の手紙だった。『最後の兵士へ』とな。彼は、憎しみの連鎖を終わらせる『最後の兵士』に、わしがなれと、そう言いたかったのかもしれん」

僕は言葉を失った。全身の血が逆流するような感覚。震える声で、僕は尋ねた。
「その兵士の…名前は…」

エリアスは静かに僕を見つめ、答えた。
「彼の名は、アラン。君の祖父だよ、リオ君」

世界が、音を立てて崩れ落ちた。僕が軽蔑していた「過去に縛られる大人」の代表だと思っていた祖父。彼が、敵国の少年兵を救うために命を落としていた。そして、僕が感傷的だと嘲笑したあの手紙は、祖父が死の間際に、敵であるエリアスに託した最後の祈りだったのだ。

『君がこの手紙を読むとき、本当の戦争が始まる』

その意味が、雷に打たれたようにわかった。それは銃火を交える戦争ではない。憎しみや偏見と戦い、赦しと和解のために生きる、内なる心の戦争。祖父はエリアスに、エリアスは僕に、その見えざる戦いのバトンを託そうとしていたのだ。僕が「昔話」と切り捨てていたものの中心に、僕自身のルーツがあった。僕は何も知らずに、祖父の死と、エリアスの人生を、ずっと踏みつけて生きてきたのだ。涙が、後から後から溢れて止まらなかった。

***第四章 記憶の番人***

あの日から、僕の世界は色を変えた。石畳の広場を舞う鳩は、祖父が見ることのできなかった平和の象徴に見え、カフェで談笑する人々の声は、無数の犠牲の上に成り立つ奇跡の音楽のように聞こえた。僕の中で、過去と現在が、ようやく一つの線で結ばれたのだ。

エリアスは、終戦後、祖父との約束を果たすためだけに生きてきたと言った。彼は身分を偽り、この国に留まり、いつかアランの遺族に真実を伝える日を待ちながら、この記憶保管庫の所長になった。戦争の記憶を風化させないことが、彼にとっての贖罪であり、祖父への恩返しだったのだ。僕がこの場所に引き寄せられたのも、何かの運命だったのかもしれない。

僕は、大学を卒業した後も、記憶保管庫で働き続けることを決めた。それはもはや、時給の良いアルバイトではなかった。祖父からエリアスへ、そしてエリアスから僕へと手渡された、重く、しかし温かいバトン。それを次の世代に繋いでいくことが、僕の使命だと感じた。

今日も、埃と古紙の匂いがする静かな書庫で、僕は遺品の整理をしている。壁際には、あの木箱が飾られている。中には、物憂げな顔をしたブリキの兵隊人形と、祖父の手紙が、静かに納められている。

「すみません、これを…」

若いカップルが、一枚の色褪せた写真を手に、僕に声をかけてきた。写っているのは、彼らの曽祖父だという。

僕は微笑んで、彼らをカウンターへと案内した。そして、僕が知る限りの、その写真に写る兵士が生きた時代の物語を、ゆっくりと語り始めた。僕の言葉は、もはや過去を嘲笑する冷たさを帯びてはいない。それは、一人一人の人生にあった喜びと悲しみ、そして未来へ託された祈りを伝える、静かな情熱に満ちていた。

戦争は終わっていないのかもしれない。本当の戦争は、それを忘れ去ろうとする心と、語り継ごうとする心の間で、今も静かに続いている。

僕は、記憶の番人だ。この場所で、声なき声に耳を澄まし、忘れられた物語を紡いでいく。それが、祖父が命を懸けて僕に教えてくれた、「本当の戦争」の戦い方なのだから。窓から差し込む西日が、ブリキの兵隊を黄金色に照らし出していた。それはまるで、小さな墓標のように、そして同時に、未来を照らす道標のように、静かに佇んでいた。

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