境界線上のノクターン

境界線上のノクターン

8
文字サイズ:

泥と鉄錆の匂いが、リオンの肺を満たしていた。塹壕の底で、彼は冷え切った通信機の電鍵に指を置く。かつて、この指は象牙の鍵盤の上を滑るように舞い、喝采を浴びるためにあった。それが今では、無機質な点と線、生と死を分かつモールス信号を打つためだけにかじかんでいる。

砲弾が夜空を切り裂くたび、塹壕の壁から土くれがこぼれ落ちた。仲間たちの荒い息遣いと、遠い誰かの呻き声が、不協和音となって鼓膜を揺らす。ここは音楽の死んだ場所だ。リオンは目を閉じ、戦場に来る前の日々を思い浮かべた。陽光が満ちる音楽院の練習室、磨き上げられたグランドピアノ、そして彼の心を震わせたショパンの旋律。その記憶だけが、狂気に呑まれそうな精神を繋ぎ止める最後の錨だった。

日々の任務は、敵陣から発せられる暗号通信の傍受と、司令部からの命令を前線に伝えること。聞こえてくるのは、殺意を定型化した数字の羅列ばかり。感情のない電子音が、ただ無慈悲に繰り返される。敵は記号であり、数字であり、人間ではなかった。そう思うことで、リオンはかろうじて正気を保っていた。

変化が訪れたのは、月が雲に隠れた、とりわけ静かな夜だった。いつものように敵の周波数に耳を澄ませていると、雑音に混じって、奇妙な信号が聞こえてきたのだ。それは暗号ではなかった。ト、ト、ツー、ト…。三つの短い信号と、一つの長い信号。何度も繰り返されるそのリズムは、リオンが幼い頃、母が口ずさんでくれた子守唄の冒頭部分と全く同じだった。

罠か? 新手の暗号か? 警戒心が頭をもたげる。だが、その旋律はあまりにも拙く、人間的な温かみを帯びていた。まるで、誰かがふと故郷を思い出し、無意識に指先で奏でてしまったかのように。リオンの心臓が、久しぶりに音楽によって高鳴った。戦場の向こう側にも、自分と同じように音楽を愛し、心を痛めている人間がいるのかもしれない。

衝動は、恐怖に打ち勝った。リオンは周囲を窺い、深く息を吸い込むと、震える指で電鍵を叩いた。彼が送ったのは、その子守唄に続くフレーズ。ツー、ト、ト、ツー…。ほんの数秒の、しかし途方もない勇気を要する応答だった。

沈黙。やはり気のせいだったのか。リオンが諦めかけたその時、返信があった。彼が送った旋律の、さらに続きが、少しだけ楽しげなリズムで返ってきたのだ。リオンは思わず息を呑んだ。顔も、名前も、声も知らない。殺し合うべき「敵」。その相手と今、自分は音楽で対話している。

その夜を境に、二人だけの秘密の演奏会が始まった。言葉は一切交わさない。ただ、互いが知るクラシックの名曲の一節を送り合うだけだ。ある夜はベートーヴェンの『月光』が、またある夜はドビュッシーの『月の光』が、鉄条網と憎しみの境界線を越えて、静かに響き渡った。冷たい電子音で奏でられる旋律は、それでもリオンの心を温めるには十分だった。彼は、見えざる友人を「ノクターン」と心の中で名付けた。ノクターンとの交信は、この地獄における唯一の救いだった。

だが、楽園は長くは続かない。ある日、抜き打ちで巡察に来た上官が、リオンの通信記録に不審を抱いた。「敵と何を話している!」。血走った目で問い詰められ、リオンは心臓が凍る思いをした。「周波数の微調整をしていただけです」。必死で取り繕い、なんとかその場は凌いだが、秘密がいつ暴かれるか分からない恐怖が、常に付きまとうようになった。

そして、運命の命令が下った。翌日の夜明け、こちらの全戦力をもって敵陣地を殲滅する、総攻撃の命令だった。攻撃開始時刻は、午前四時。それは、リオンとノクターンが、最も深く音楽を交わす時間だった。

司令部の決定は絶対だ。リオンにできることは何もない。仲間たちは銃を手入れし、高揚と恐怖が入り混じった表情で鬨の声を上げている。その喧騒の中、リオンは一人、通信機の前に座っていた。最後の演奏会をしなければならない。

午前三時半。彼はいつもの周波数に合わせた。ノクターンは、もう待っていた。彼が送ったのは、ショパンの練習曲、あの『別れの曲』の冒頭だった。甘く、しかし決定的な別れを告げる旋律。「逃げろ」という言葉の代わりに、リオンは祈りのすべてをその信号に込めた。

応答がない。ただ、無情な時間が過ぎていく。もう、間に合わなかったのか。絶望が胸を締め付けたその時、敵陣から信号が届いた。それは、リオンが送った『別れの曲』の続きを、完璧に受け継ぐ旋律だった。悲しく、美しく、すべてを受け入れたかのような、毅然とした音色で。そして、その信号はぷつりと、唐突に途切れた。

「総員、攻撃開始!」

指揮官の絶叫と同時に、世界が光と音に呑まれた。味方の砲弾が空気を引き裂き、ノクターンのいたであろう場所に吸い込まれていく。大地が揺れ、空が燃え、人間の叫び声は轟音にかき消された。リオンは両手で耳を固く塞ぎ、目を閉じた。しかし、彼の指先には、電鍵の冷たい感触と、ノクターンが送ってくれた最後の旋律の響きが、火傷のように焼き付いて離れなかった。

戦争は終わった。リオンは生き残った。だが、故郷に帰った彼が、ピアノの鍵盤に触れることは二度となかった。彼の指は、もう音楽を奏でるためのものではなくなってしまったのだ。それは、誰にも聞こえない旋律を記憶するためだけの、墓標のような指だった。

月明かりが差し込む静かな夜、リオンは時折、誰もいない部屋で、虚空に向かって指を動かす。ト、ツー、ト、ツー…。あの日、境界線の向こうから届いた、友の最後の鎮魂歌(ノクターン)を、ただ静かになぞるために。

TOPへ戻る